思いがけない再会【残】
「……って、熱っ! 火傷しちゃうよ!」
疲労が癒えるまで寝そべり続ける気でいた彼だったが、そうは問屋が卸さなかった。熱砂に背中を焼かれた彼は思わず飛び起きる。体に付着した砂を一粒残さず両手で払い落とすベロベルト。回れ右をして湖に背を向けた彼は小さく息を吐く。
「木陰で休もうっと。ここじゃ丸焼きになっちゃう!」
火照った体を冷ますべく、重い足を引きずって歩き始めるベロベルト。ザブンと湖に飛び込みさえすれば済む話だったが、金槌の彼には踝までしか水に浸かる勇気がないのだった。
「よし、ここにしよう」
間もなくして森に分け入り、灼熱の陽射しから解放された彼が休憩場所に選んだのは、樹齢数百年は下らないだろう、表面にびっしりと苔むした大木だった。
「……ふぅ! あぁ、冷たくって良い気持ち!」
その根元に腰を下ろして両足を投げ出し、幹に背中を預けたら気分は極楽。うんと伸びをした彼の脳裏に蘇ったのは激闘のクライマックス、最高威力の転がり攻撃を棒立ちのオーダイルに食らわせた瞬間の一コマだった。
「へんっ、どんなもんだい! 最後に笑うのはオイラたちなのさ!」
岩のテーブルの上でビクビクと痙攣するオーダイルを遠目に眺めつつ、勝利の喜びに酔いしれるベロベルト。しかし――その一言が彼を残酷な現実へと引き戻す。
「オイラたちって……そっか。もうオイラしかいないんだっけ……」
ボソリと呟くベロベルト。その瞬間に彼は底なしの虚しさに襲われる。
いま彼が述べたとおりだった。ある者は餌食にされ、またある者は理不尽に殺され、更にある者は抵抗の果てに命を落としていった結果――彼の仲間は全滅していたのだった。
「あれ、おかしいな? ははっ、駄目じゃないか。泣いたりしちゃ……!」
自分で自分を叱咤激励するも、込み上げる感情には抗えなかった。頭を垂れた彼の両頬を幾粒もの熱い雫が伝い落ち始める。
面白い話を披露し合っては大いに盛り上がったこと、力を合わせて獲物の群れを追い詰めたこと、真心を込めて育てた秋の実りを一緒に収穫したこと、洞窟の中で身を寄せ合って励まし合いながら真冬の寒さを耐えたこと、待ちに待った春の訪れを御馳走で祝ったこと、快晴の夏の夜空を駆け抜ける流星群を眺めたこと。その時々に感じた一体感と興奮、達成感、肌の温もり、喜び、そして感動。仲間と共に過ごした日々の思い出が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
「あぁっ! ああぁぁぁぁっ!」
我慢していられたのはそこまで。洟と涙でクシャクシャになった顔を両腕に埋めて泣きに泣きまくるベロベルト。何もかもを分かち合った仲間たちへの思いが涙と共に溢れ出した、次の瞬間――
「ちょっと! 私のこと勝手に殺さないでくれるかしら!?」
彼の耳に女性の不機嫌な声が飛び込んでくる。
「えっ……誰だい?」
ハッとして前を見るも姿はない。キョロキョロし始めた彼に再び声の主が呼びかける。
「うふふっ、どこを探しているのかしら、泣き虫さん!? 私はここよ!」
真上からだった。恐らくは木の枝葉の中。そこまで気付いて顔を上向けた彼の目と鼻の先にあったのは――
ぐぱぁっ!
いっぱいに開かれた蛇の大口。真っ逆さまに木から落下した声の主が噛み付いてきたのだった。
「……むぐぅ!?」
避けようとするも時すでに遅し。生温かく湿った柔らかな感触に顔全体を覆われたと思う間もなく、さながら頭に袋を被されたかのように、すっぽりと首から上を咥え込まれてしまう。
「んーっ! んっ、んーっ!」
両手で掴んで引き剥がそうとしても効果はなかった。ジタバタして振り払おうとするも結末は同じ。そうこうしている間に、長く、そして太い胴体で全身をグルグル巻きにされ、身じろぎ一つできなくなってしまう。
おしまいだった。抵抗を諦めてゴロンと仰向けになるベロベルト。しかし、その途端――どういう訳か彼は噛み付き攻撃から解放される。
「……ぷはっ! あぁ、塩辛いったらありゃしないわ! ほんっと、男のクセに涙なんか流して情けないんだから!」
「きっ、君は、もしかして……!?」
その笑い声には聞き覚えがあった。青臭い唾液でベトベトになった顔を手で拭うと同時に現れたのは、切れ長の赤い目、首元から伸びる高い襟のような二枚の細長い葉っぱ、そして後頭部から伸びる長い耳のような二枚の尖った葉っぱが特徴的な、緑色をした蛇のポケモン――ジャローダだった。
「久しぶり! 元気にしていたかしら?」
笑顔で挨拶する彼女だったが、ベロベルトは開いた口が塞がらない。
「しっ、信じられない! 生きていたなんて……!」
小刻みに震える手でジャローダを指差すベロベルト。なにか恐ろしいものに出くわしたような顔だった。
「ふふっ、幽霊じゃないわよ! この感覚は本物でしょ?」
相手の心中を察した彼女は巻き付く力を強める。ひんやりと冷たい滑らかな鱗の感触、全身から溢れ出す爽やかな新緑の香り。幻ではないと確信するには十分すぎる証拠の数々だったが、
「でも、やっぱり信じられない! それなら、あの時にオイラが目にしたのは一体……?」
あの時。数ヵ月前に目撃した光景が彼の脳裏に蘇る。
鬱蒼とした木立の奥から激しく言い争う声が聞こえてくる。一方はオーダイルの声、もう一方は――
「嫌よ、離しなさい! アンタみたいな乱暴者に渡す物はないわ!」
ジャローダの声だった。その場に鉢合わせたベロベルト、もとい当時のベロリンガは全身を凍り付かせる。
「だっ、駄目だ! そいつに歯向かっちゃいけない! お願いだから言うとおりにして……!」
見つからぬよう茂みの中に隠れつつ、誰にも聞こえない程度の声で呟くも、その思いが彼女に届くことはなかった。瞬く間に口論はエスカレートしていき、一触即発の空気が二匹を包み込む。
なんとかしなくては。そう思って必死に知恵を絞るも、全身から脂汗が滝のように流れ落ちるばかりだった。無情にも時間だけが過ぎていき――やがて彼が最も恐れていた出来事が巻き起こる。
「このアバズレがぁ! こっちが下手に出りゃ付け上がりやがって!」
急に一段と大きくなるオーダイルの怒鳴り声。それが意味するところは誰よりも彼がよく知っていた。ベロリンガの顔から血の気が失せる。
「女だから手加減するつもりでいたが、気が変わったぜぇ! もう許さねぇ! ぶっ壊してやる! ……グルァァァッ!」
「いやぁぁぁぁあああ!」
咆哮、そして絶叫が交錯した直後――
ザシュッ!
鋭利な爪が肉を切り裂く音が響き渡る。四方八方に血しぶきが飛び散り、その一部が彼の顔に降りかかる。
「あ、あぁ……」
終わった、何もかも――。身を潜めた茂みの中で崩れ落ちるベロリンガ。極限のショックに耐えきれる筈もなく、間もなくして彼は失神してしまうのだった。
そう、生きている筈がないのである。回想を終えたベロベルトの頬を冷や汗が伝う。
「あぁ、あの時ね! なぁんだ、近くにいたの! ごめんなさい、気付いてなかったわ!」
恥ずかしそうに笑うジャローダ。彼女は更に言葉を続ける。
「あの時は狩りをしていた最中でね。アイツ、私の獲物を横取りしにやってきたの。で、渡す気はないってキッパリ断ったら、ブチ切れて襲いかかってきたものだから、獲物を放り捨てて逃げ出したのよ。まさかアイツの振り下ろしてきた爪に直撃するとはねぇ。気絶したまま逝けたことを祈るばかりだわ!」
彼女は葉っぱの小さな手を合わせてみせる。
「ええっ!? とっ、ということは……!?」
仰天するベロベルト。彼女は笑顔で頷く。
「ふふっ、そういうこと! 真っ二つにされたのは私じゃなくって、私が締め落とした子だったってワケ! その私は見てのとおり! あの子が身代わりになってくれたから傷一つ負わずに済んだわ! ……って、きゃっ!?」
ジャローダの口から悲鳴が上がる。目の前の巨体の持ち主が力いっぱい抱き付いてきたのだから当然だった。
「ああぁぁぁぁっ、ありがとぉぉぉぉっ! 生きていてくれたんだねぇぇぇっ!」
感極まって号泣するベロベルト。彼の目頭から堰を切ったように嬉し涙が溢れ出す。
「もぅ、びっくりするじゃないの! 暑苦しいったらありゃしないんだから!」
と言いつつも、まんざらでもない顔のジャローダ。彼女もベロベルトの背中に両手を回し、そして、
「私こそありがとう! あなたと生きて再会できて本当に嬉しいわ!」
そう一言、そっと耳元で囁くのだった。
やがて熱い抱擁を解いて見つめ合う二匹。両者はお互いの体に生じた大きな変化に気が付く。
「ふふっ! 随分と太ったと思ったら、ベロベルトになっていたのね! お祝いの言葉を贈るわ! 進化おめでとう!」
「えへへっ、ありがとう!」
拍手を浴びて目を細めた彼だったが、その笑みは長続きしなかった。まじまじと彼女を見つめた彼の顔から表情が消え失せる。
「そう言う君は……あぁ、何と言ったら良いやら。こんなにまで痩せてしまって……」
こけた頬、その塊である筈の筋肉が衰えて骨と皮ばかりになった体、元気をなくした尻尾の葉っぱ。一昨日までの自分と同じだった。慢性的な栄養不足であることを物語る証拠の数々を目の前に、ベロベルトは言葉を失ってしまう。
「まぁね。あの日からアイツの目を避けて一歩も地面に降りることなく暮らしてきたんだもの。仕方ないわ」
そこで彼女は小さく溜息を吐く。
「うぅっ……」
呻き声を漏らすベロベルト。想像するだけで気が遠くなりそうだった。彼は胸が締め付けられるような感覚を抱かずにはいられない。
しかし、当のジャローダはポジティブだった。彼女はベロベルトに微笑みかける。
「ふふっ、そんな顔しないの! ずっと日光浴していたから健康には過ごせていたのよ?」
途端にベロベルトの目に光が戻る。
「あっ、そうだった! その手が君にはあったね!」
すっかり頭から抜け落ちていた。彼は以前に彼女から聞いた話を思い出す。
「えーっと、何て言ったかな? こ、こう……こうせい……」
「光合成! 今回も私の方が早かったわね! もぅ、いい加減に覚えなさいな!」
「そう、それそれ! あぁ、また先に言われちゃった!」
ベロベルトは悔しそうに宙を仰ぐ。
光合成。大きく深呼吸し、綺麗な水を飲み、太陽の光を全身に浴びるだけでエネルギーを作り出せるという、彼にとっては魔法にも等しい能力。彼女が雨水だけで数ヶ月もの間を生き延びられた唯一の理由だったが、
「でも、その光合成だけで暮らしてみて分かったんだけど、得られる栄養には偏りがあるみたいなのよねぇ。どうも体を作るための栄養は生み出せないらしくて、段々と肉が落ちていっちゃったの」
それも決して万能という訳ではなかった。彼女は痩せ衰えた自身の体に視線を落とす。
「……なるほど。それで、何か食べなきゃと思って住処の木から下りてきたんだね?」
ジャローダは少し恥ずかしそうに笑う。
「うふふっ、ご名答! それもあるし、やっぱり食欲は我慢できなくってね! 食事も楽しめずに生き続けるくらいなら、アイツに殺される方がマシだって思ったもの! ……それで、覚悟を決めて外に出たのが今朝だったんだけど、森の中で食べ物を探していたら、いきなり湖の方から地鳴りのような音が響いてきてね。何事かと思って大急ぎで駆け付けたら……アイツと戦うあなたの姿があったの! カッコよかったわぁ!」
うっとりとした表情で賛辞を送るジャローダ。しかし、ベロベルトは浮かない顔だった。
「カッコよくなんかないよ。オイラは臆病者さ。あの時、君がアイツに襲われていると分かっていたのに、オイラは怖くて身動き一つできなかったんだ。助けに入る勇気もなくって、それどころか……君が大人しくアイツの言葉に従うことを祈っていて……!」
ベロベルトの目に涙が浮かぶ。
「ごめんよ、君を守ってあげられなくって。そして、こんな体にしてしまって。……ああっ!」
両手で顔を覆って大泣きし始めるベロベルト。そんな彼の頭を彼女は優しく撫でる。
「もぅ、いい加減に泣き止みなさいな! あの時はあの時よ! 今日こうして私のこと守ってくれたじゃないの! それに私なら大丈夫! いまに美味しそうな子を食べまくって、元どおりの体を取り戻してやるんだから!」
「……本当に大丈夫?」
泣き腫らした目を向けたベロベルトに彼女は大きく頷いてみせる。
「もちろん! アイツも消えたことだし、なんとでもなるわ! せいぜい自分の心配でもしてなさい! あなたの分まで食べ尽くしちゃうでしょうからね! ……ほら、じっとして!」
くしゃくしゃになった顔に鼻を近づけて、ペロリ。先端が二股に割れた長い舌で目元の涙を拭い取るジャローダ。ベロベルトの顔に笑みが戻る。
「はい! もう泣いちゃダメよ!」
「うん! もう泣かない!」
彼は固く心に誓うのだった。
ジャローダに体から降りてもらい、再び大木の幹に背中を預けて湖を一望するベロベルト。嫌でも目に入ってくるのは、岩のテーブルの上に横たわるオーダイルの体だった。彼は小さく息を吐く。
「……どうしようか、あれ」
ボソリと呟くベロベルト。隣でとぐろを巻いていたジャローダは横目で彼の顔を見る。
「なるたけ深い穴を掘って埋めてしまうのが一番ね。もう二度と起き上がってこられないように。一休みしたら取り掛かりましょう」
淡々とした口調で答えるジャローダ。ベロベルトは意外そうにする。
「ありゃ? 君らしくないね。食べないんだ?」
ジャローダはムッとした表情を浮かべる。
「バカ言わないでちょうだい。呑み込めるワケないでしょ、あんなデカブツ」
「けど、ずっと何も食べてないから腹ペコなんでしょ? だったら、一口大に切り刻んで食べたらいいじゃないか。君の得意技のリーフブレードでね!」
意地の悪いことを言うベロベルト。彼女は顔を青くする。
「嫌よ、気持ち悪い! 血を目にするのもダメな私にできるワケないでしょうが! そう言うあなたが食べなさいよ? できるものならね!」
「け、結構です……」
ベロベルトは視線を逸らす。丸呑み以外に獲物を食べる術を持たない二匹に、解体の技能は勿論のこと、スプラッターな光景への耐性など備わっていないのだった。
「うーん、残念だなぁ。いつか食べてウンチにして、お尻の穴からひり出してやるのが夢だったんだけどねぇ……」
「その気持ちは痛いほど分かるけど、無理なものは無理よ。諦めなさいな」
未練がましく呟くベロベルト。ジャローダは同情しつつも冷静に促す。
「はぁい……」
頭を垂れた彼が溜め息混じりに返した次の瞬間――
ポンッ!
黒い毛皮に覆われた三本指の手が二匹の肩に乗ってくる。
「よぉ、お前さんたち! 元気にしていたか!?」
「えっ、その声は……!?」
続いて聞こえてきたのは、深みのある中年男性の声。驚いて後ろを振り向くベロベルト。そこにあったのは、炎のようなオレンジ色をした切れ長の目、ピンと立った大きな長い耳、スラッと細い三本指の足、豊かな毛に覆われた大きな尻尾、そして何よりも、耳の内側から飛び出した大きな房状の耳毛が特徴的な、首から下をローブのような毛皮で包んだ、二本足で立って歩く狐のポケモン――マフォクシーの姿だった。親友との思いがけない再会を果たした彼は喜びを爆発させる。
「レナードさん! 久しぶり!」
「あぁ、久しぶり! 元気そうで何よりだ……って、おぉっ!? どうりで前に会った時より背中が大きく見えるワケだ! ベロベルトになっていたのか!」
レナードと呼ばれたマフォクシーは目を見開く。
「えへへっ、見違えたでしょ!? オイラも遂に進化したのさ!」
マフォクシーの方を向いて立ち上がり、エヘンと胸を張ってみせるベロベルト。その顔を見上げたマフォクシーは大きく頷く。
「あぁ、見違えたとも! しかし、雰囲気は何一つ変わっていないな!」
「ははっ、当たり前じゃないか! 進化してもオイラはオイラだもん!」
大笑いする二匹。そこでマフォクシーの視界に入ってきたのは、鎌首をもたげたジャローダの姿だった。
「あら、いらっしゃい。誰かと思えばレナードさんじゃないの。お変わりないかしら?」
「ははっ! 正直に言うと、良いことよりも悪いことの方が多くて参ってしまう日々の連続だったが……まぁ、なんとかやっているよ。こっちは相変わらずさ。おや……?」
頭の後ろに手をやりながら恥ずかしそうに答えるマフォクシーだったが、そこで彼は目をパチクリさせる。ジャローダの異変に気が付いたのだった。
「随分と痩せたようだが……? 何があった?」
ジャローダは決まり悪そうに舌を出す。
「まぁ、色々とね……。話せば長くなるわ」
目を逸らしてしまうジャローダ。空気を読んだベロベルトがマフォクシーの耳元に口を寄せる。
「……その件だけど、今は聞かないであげて? あとでオイラが話すからさ」
「……む? 分かった。お前さんの言うとおりにしよう」
素直に聞き入れてもらえてホッと一息つくベロベルト。そこで彼の視線はマフォクシーの背後に釘付けとなる。
「ところで……レナードさんは買い出しの帰り? とんでもない量の荷物だね?」
マフォクシーの何倍ものサイズがある巨大な背嚢を見上げるベロベルト。進化して巨漢へと変貌を遂げた彼ですら、背負えるか自信が持てない程の大きさだった。
「そのとおり。北の街まで買い出しに行ってきたところだ。行きは身一つだが、帰りはこれだからなぁ。それで近道をしていたのさ」
マフォクシーは背嚢を指差しながら答える。
そんな彼の本職はビストロのオーナー。グルメな常連客の舌を唸らせるべく、ここ一番の食材を仕入れてきたのだった。
「あぁ、そういうことかぁ。どこへ行くにしても樹海の中を通るのが一番の近道だもんねぇ」
彼らの大便に化けてしまう者が後を絶たない理由である。街から街へ行き来するのに便利なそれは、時として彼らの胃袋へと続く滅びの道でもあった。
「あれ? ちょっと待って?」
何かに気が付いたベロベルトは視線を泳がせる。
「それにしては方向が変じゃない? こんな場所を通る必要ないと思うけど?」
首を傾げるベロベルト。マフォクシーはハッとした表情を見せる。
「おぉ、そうだ! すっかり忘れていた! お前さんたちに聞くのが早いかもしれん!」
マフォクシーはポンと手を叩く。
「道中で物凄い爆発音を耳にしてなぁ。土煙が上がるのも目に入ったものだから、気になって様子を見に来たんだ。この辺りで間違いないとは思うが……何か心当たりはないか?」
「あぁ、それなら」
先に口を開いたのはジャローダだった。彼女はキョロキョロし始めたマフォクシーに、
「あの事かしら?」
湖の近くで横たわるオーダイルを指差してみせる。
「なっ!? やっ、奴は……!?」
マフォクシーにとっては目の玉が飛び出るような光景だった。その場に背嚢を放り出した彼は、彼女が指差す方へ一目散に駆けていく。
「……あっ、ちょっと! まだ話の途中よ!?」
呼び止めるも時すでに遅かった。彼女は小さな溜め息を漏らす。
「仕方ないわね。私たちも行きましょう」
「う、うんっ!」
二匹はマフォクシーの背中を追い始めるのだった。
やがて湖畔に行き着くジャローダとベロベルト。そこにあったのは、岩のテーブルの上で横たわるオーダイルを興味津々で観察するマフォクシーの姿だった。二匹は表情を硬くする。
「肝っ玉が据わっているわねぇ。私には真似できないわ」
「おっ、オイラもそう思う……」
ジャローダの言葉に深く頷くベロベルト。不安に駆られた彼は両手を口に当てて叫ぶ。
「きっ、気を付けてよ、レナードさん!? トドメは刺したつもりだけど、まだ死んだかどうかまでは確かめられていないんだ! いきなり起き上がって襲い掛かってくる可能性もあるから注意して!」
大きな耳をピクリと揺らすマフォクシー。その次の瞬間――弾かれたような勢いで振り返った彼は、凄まじい形相でベロベルトを睨む。
「いま、何と言った?」
「えっ? おっ、オイラ何か気に障るようなことでも言った……?」
あまりの剣幕に尻込みしてしまうベロベルト。そうこうしているうちに、マフォクシーは彼との距離を大股で詰め始め、そして――
ガシッ!
「いま、何と言ったかと聞いたんだ!」
彼の両肩を鷲掴みにし、牙を剥き出しにして絶叫する。
「ひっ!? きゅ、急にどうしたのさ!?」
たまらず悲鳴を上げるベロベルト。早く答えなければ何をされるか分かったものではなかった。彼は慌てて口を開く。
「いっ、いきなり起き上がって襲い掛かってくる可能性もあるから注意して、って……」
「違う!」
マフォクシーは何度も首を左右に振るう。
「その前だ! その前に何と言った!?」
目の前まで鼻面を近づけられた彼は大きく体を仰け反らせる。
「とっ、トドメは刺したつもり……」
「それだ!」
マフォクシーは彼の口を指差す。
「確かなのか!? お前さんが奴を倒したのか!?」
未だに信じられない気持ちだったが、そうだと言う他なかった。彼はおずおずと頷く。
「う……うん。オイラで間違いないけど?」
「あっ、ありえない! 俺は夢でも見ているのか!?」
頭を抱えて後ずさるマフォクシー。言葉の最後で彼は天を仰ぐ。
「えっと、ちょっとよろしくって?」
そこで口を開いたのはジャローダだった。二匹の注目が彼女に集まる。
「彼の言葉は私が保証するわ。この目で見たの。彼がアイツにトドメを刺す瞬間をね」
「なっ、なんと! それでは……間違いないのか!」
もはや疑う余地はなかった。彼はベロベルトがオーダイルを倒したことを確信する。
「では話が早い。お前さんに一つ言うべきことがある!」
再びベロベルトとの距離を詰め始めるマフォクシー。嫌な予感を募らせた彼の顔に緊張が走るも、
「礼を言わせてもらう! ありがとう! この恩は永遠に忘れない!」
「へっ……?」
待っていたのは予想外の展開だった。進化して不器用になった手を取り、さっきまでの表情が嘘だったかのような晴れやかな笑みを顔いっぱいに浮かべて感謝の意を伝えるマフォクシー。彼が目を点にしたのは言うまでもなかった。
「えぇっと……オイラなにかレナードさんに対して貢献するようなことしたかな?」
「あぁ、したとも! それも俺に対してだけじゃないぞ!? この大陸に住む皆に対してだ!」
「そっ、それってどういう意味……?」
あまりにもスケールが大きすぎて頭が追いついてこなかった。ベロベルトの頭の上に無数の疑問符が浮かぶ。
「ははっ、ポッポが豆鉄砲を食ったような顔だな! いいだろう、教えてやる」
踵を返して歩き始めたマフォクシーは、倒れ伏すオーダイルの真ん前に立ち、
「こいつは……最重要指名手配だ」
その首から上に憎悪の眼差しを向け、吐き捨てるように言うのだった。
「さ、サイジュウヨウ……シメイテハイハン……?」
頭の上に浮かぶ疑問符の数を更に増やすベロベルト。一方のジャローダは深い溜め息を吐く。
「……やっぱり。お尋ね者だったのね。そんなことだろうと思っていたわ」
「おっ、お尋ね者だってぇ!?」
取り乱すベロベルトを他所に彼女は更に続ける。
「この森にやってきたのは追っ手を振り切るためだったんでしょうね。で、世間が忘れるまで待って、また別の場所で悪事を働く気でいた、と」
顎に手を当てたマフォクシーは小さく頷く。
「あぁ、俺もそう思う。ここは身を隠すには最高の場所だからな。……いやはや、危機一髪だよ。こいつは知らなかっただろうが……街の警察も随分と前から追跡を諦めていたんだ。このまま野放しにし続けたら大変なことになっていたに違いあるまい」
耳を疑う言葉だった。たちまちベロベルトはマフォクシーに食ってかかる。
「ちょ……ちょっと待ってよ!? どう考えてもおかしいでしょ、いまの!? そんな悪い奴の追跡をどうして諦めちゃうのさ!? 悲しい思いをする子が増えるだけじゃないか!」
「……俺も同じ気持ちだったさ」
絞り出すような声で呟くマフォクシー。オーダイルを眼光鋭く睨んだ彼の両拳が小刻みに震える。
「三十三匹。こいつの討伐作戦で殉職した警官の数だ。一度の作戦で出した殉職者数としては過去最大だったと聞いている。あまりの被害の大きさに追跡を中止する他なかったんだ」
「さっ……三十三匹だってぇ!?」
耳を疑う数字だった。ベロベルトは目を白黒させる。
「あらま。そんなに死んじゃったら無理もないわね。待ち伏せでも受けたのかしら?」
「まぁ、そんなところだ」
淡々とした口調で尋ねるジャローダ。マフォクシーの眉間に三本線のシワが深々と刻まれる。
「しかも奴を倒した後で受けたらしい。全くの想定外だっただろうな」
「なっ……なにそれ!? しっ、死んでから生き返ったってこと!?」
ベロベルトは恐怖のあまり絶叫する。
「あぁ、そうとしか説明が付かん」
言いながら彼はオーダイルの首筋に手を当てる。
「こいつだが色々と話を聞く限り特異体質でなぁ。異常なまでに新陳代謝が速いんだ。それは左胸を貫かれた後も例外じゃなかったようで、どうも運よく息を吹き返したらしい。で、背後から追い付かれて一網打尽にされたってワケだ」
もう片方の手でマフォクシーは首を掻き切るポーズをしてみせる。
「しっ、心臓に受けた傷まで自然に治しちゃうなんて……!」
ブルブルと身震いするベロベルトの頬を冷や汗が伝う。
あまりにも現実離れした話だったが、それでも心当たりがない訳ではなかった。初めてオーダイルを目撃した時のことを思い出すベロベルト。あれは追っ手と戦った直後だったに違いない。満身創痍で足を引きずりながら歩いていた筈が、翌日には何事もなかったかのように回復していたのである。
オーダイルに視線を戻すマフォクシー。彼の口から唸り声が漏れる。
「今の今まで話半分だったが……ようやく信じられるようになったよ。ここまでの傷を負いながら生きていることが何よりの証拠だからな」
「げっ!? まだ生きているの!? 頭のトサカから思いきり岩に叩き付けたのに!?」
すかさず身構える二匹。マフォクシーは小さく頷く。
「あぁ、生きていると言う他あるまい。まだ心臓が動いているからな。いささか不規則なリズムではあるが。しかし、そう慌てなさんな。もう二度と起き上がってはこないさ」
「なっ、なんでそう言いきれるワケ?」
身構えたまま尋ねるベロベルト。マフォクシーは自分の頭を指差す。
「頭がカイスの実みたいに弾けちまっているからだ。特異体質だろうが何だろうが、脳味噌ぶちまけちまったら終わりよ」
「おぇぇ……」
「げぇぇ……」
それを聞いた二匹は盛大に嘔吐くのだった。マフォクシーは失笑を禁じ得ない。
「ははっ! よく見えるようにひっくり返してやろうか!?」
「けっ、結構です! うぷっ……!」
ふざけ半分でオーダイルの胴体に両手をかけるマフォクシー。込み上げる吐き気に耐えながらベロベルトは何度も首を左右に振るのだった。
「でも……よかったわ。これで一安心ね」
「うん、やっと終わったんだ……」
顔を見合わせて安堵の息を吐く二匹。あることを思い出したベロベルトはポンと手を叩く。
「そうだ、レナードさん。一つお願いがあるんだけど」
「うん、どうした?」
買い出しの帰りで申し訳ないけど手伝ってもらおう。彼は思いきって口を開く。
「そいつだけど、今から穴を掘って埋めちゃおうと思うんだ。悪いけど手を貸してくれる?」
「私からもお願い。構わないかしら?」
一刻も早く目の届かないところに葬り去ってしまいたく思っていたジャローダも後に続く。
「なに? 埋める気でいるのか、お前さんたち?」
二匹の顔を交互に見たマフォクシーは目をぱちくりさせる。
「えっ、そうだけど?」
そうする他にないという結論に行き着いたばかりだった。キョトンとした顔をする二匹。腕組みをしたマフォクシーは失望した表情を隠さない。
「おやおや、なんでも丸呑みにして食ってしまう山椒魚に蛇ともあろうものが意気地のない。こんな大きな獲物が目の前にいるんだぞ? ここに収めてやろうとは思わんのか?」
マフォクシーは白い毛皮に覆われた自身の腹部を指差す。
「そりゃぁ、思うには思うけど……ねぇ?」
「えぇ。呑み込めるワケないわ、こんな大きな獲物」
困った顔を見合わせる二匹。肩を竦めたマフォクシーは深い溜息を漏らす。
「やれやれ。貪欲さに欠ける奴らだ。……まぁいい。少し待て」
右手で左腕の体毛の中を弄り始めるマフォクシー。ベロベルトは疑問の目を向ける。
「えぇっと、なにするつもり?」
「ふふっ、今に分かるさ! ……おっ、あった、あった!」
何かを探り当てたマフォクシーが腕の体毛の中から次々と引っ張り出したのは――大小様々のナイフ、巨大なハサミ、そして不気味に黒光りするノコギリだった。それらを砂の地面の上にズラリと並べるマフォクシー。見るもおぞましい凶器の数々にベロベルトは腰を抜かしそうになる。
「……ひっ!? なっ、なんて物騒なモノを持ち歩いているのさ!? それでなにするつもり!?」
「これでなにするつもりかって?」
マフォクシーは刃渡り一尺近いナイフを拾い上げる。
「決まっているじゃないか。解体するのさ。呑み込めないなら一口大に切り分けるまでだ」
料理番であり猟師でもある彼の十八番だった。彼は慣れた手つきでナイフを回してみせる。
「かっ、解体ってねぇ……。あなた用事の最中でしょう? あんまり悠長なことをしていたら夕方までに帰れなくなるわよ? 第一、そんな手間を私達のために取らせるなんて悪いわ」
あまりにも気が引ける話に呆れ顔で返すジャローダ。しかしマフォクシーは意に介さない様子だった。
「構わんさ。今日は定休日だからな。それと、一つ断っておくが、お前さんたちに全部はやらんぞ? 今朝から歩き詰めで腹が減っていてなぁ。ちょうど何か食いたいと思っていたのさ。こんな旨そうな肉の塊を見逃す手はあるまい?」
ナイフを口の前で構えた彼は舌なめずりをする。
二匹より雑食の傾向が強いとはいえ、彼も歴とした肉食獣だった。彼らの手助けをしたいと思う以上に、喰らって胃袋に収めてやりたいという衝動を抑えられなかったのである。
「ふふっ、ゲテモノなら色々と食ってきたが……ワニの肉は初めてだ。はてさて、どう料理してやろうか?」
オーダイルの頸動脈にナイフの刃を当てながら不気味な笑みを浮かべるマフォクシー。近寄り難い雰囲気に思わず後ずさる二匹だったが、心は歓喜で満たされていた。互いに見つめ合った二匹は目を輝かせる。
「やったわ! やはり持つべきものは友ね!」
「うん! ここはレナードさんの厚意に甘えちゃおう!」
が、期待に胸を膨らませたのも束の間、
「というワケで、お前さんたち! 悪いが手伝ってくれ! 三匹で協力した方が早く捌けるからな! なに、難しい事はないさ! 俺の言うとおりに動いてくれさえすればいい!」
あえなく二匹は奈落の底に突き落とされてしまうのだった。一瞬で石のように固まってしまうベロベルトとジャローダ。表情の変化に気が付いたマフォクシーは大笑いする。
「あははっ! 分かりやすい奴らだなぁ、お前さんたちは! 全て顔に書いてあるぞ!?」
ひとしきり笑い終えて深く息を吐くマフォクシー。やれやれと言わんばかりの顔をした彼は更に続ける。
「……冗談だよ。最初から期待しとらんさ。こいつの解体は俺に任せて、お前さんたちは枯れ枝を集めておいてくれ。じゃんじゃん火を起こさねばならんからな。それじゃ、頼んだぞ!」
「わっ、分かりました!」
「よっ、喜んで!」
素っ頓狂な声で返事をした二匹は一目散に退散するのだった。
「ふぅ、助かったぁ……」
「ホント。心臓が止まるかと思ったわ……」
森に辿り着くなり崩れ落ちる二匹。しかしながら、のんびり休んでいる暇はなかった。ベロベルトは即座に立ち上がる。
「こうしちゃいられない。オイラたちも始めよう。昨日の大雨で濡れているだろうから、集めた枯れ枝は日当たりの良い場所にでも並べておこうか」
ジャローダも鎌首をもたげて起き上がる。
「それがいいわね。この天気ならすぐ乾くわ。それじゃ、お互い頑張りましょう!」
その言葉を合図に作業を開始した二匹だったが、そこら中に掃いて捨てるほど落ちている枯れ枝を集めることくらい朝飯前だった。あっという間に十分すぎるほどの量の枯れ枝を拾い集めた二匹は、それら一本一本を湖畔の焼け付く砂の地面の上に敷き並べて作業を完了する。
「よぉし! 終わったぁ!」
「えぇ! お疲れ様でした!」
大きく伸びをするベロベルトとジャローダ。しかし、達成感に浸れたのも束の間、
「そうだ、レナードさんは?」
「まだみたい。そう簡単には終わらないと思うわ」
「うぅっ、だろうね。どうしよう、オイラ達だけ休んでいるワケにもいかないし……」
まだマフォクシーが作業中であることを知った二匹は罪悪感を募らせる。
無言のまま立ち尽くす二匹。やがて覚悟を決めたベロベルトは重い口を開く。
「……行こう。手伝わないと」
「……えぇ、行きましょう。あんなこと言われて黙って引き下がれるものですか」
自分自身に言い聞かせて湖畔に繰り出す二匹。程なくしてマフォクシーの前に整列した二匹は驚きをもって迎えられる。
「おぉっ!? どういう風の吹き回しだ!? なにをしに来た!?」
もう後戻りは不可能だった。二匹は持てる勇気を振り絞る。
「そっ、そりゃあ……てっ、手伝いに来たに決まっているじゃないか! 枯れ枝なら集め終わったからね!」
「わっ、私も同じく! こんな重労働をレナードさん一匹だけに任せられないわ!」
嬉しい言葉の数々にマフォクシーは破顔する。
「ほぉ、そいつは有難い! では、一つ頼ませてもらおう!」
互いに目配せを交わして小さく頷き合った二匹は、それまで伏せていた顔を上げる。
「こいつを洗うのを手伝ってくれ! いやぁ、これだけデカいと一苦労だ!」
そこで二匹の目に飛び込んできたのは――オーダイルの腹の中から引っ張り出したばかりの新鮮なモツを笑顔で抱えるマフォクシーの姿だった。あまりの刺激に両者は肝を潰してしまう。
「もっ、もうだ……め……」
バタッ!
白目を剥いて卒倒するジャローダ、
「うん、オイラも……だめ……」
ドサッ!
そしてベロベルト。マフォクシーは手にしていたモツを取り落としてしまう。
「おやおや、なんとまぁ!」
直後、がっくりと肩を落とした彼は、
「まったく、この小心者どもめ。そんなのでよく今まで生き延びてこられたものだな?」
そう一言、大の字に横たわる二匹に向かって悪態を吐くのだった。
疲労が癒えるまで寝そべり続ける気でいた彼だったが、そうは問屋が卸さなかった。熱砂に背中を焼かれた彼は思わず飛び起きる。体に付着した砂を一粒残さず両手で払い落とすベロベルト。回れ右をして湖に背を向けた彼は小さく息を吐く。
「木陰で休もうっと。ここじゃ丸焼きになっちゃう!」
火照った体を冷ますべく、重い足を引きずって歩き始めるベロベルト。ザブンと湖に飛び込みさえすれば済む話だったが、金槌の彼には踝までしか水に浸かる勇気がないのだった。
「よし、ここにしよう」
間もなくして森に分け入り、灼熱の陽射しから解放された彼が休憩場所に選んだのは、樹齢数百年は下らないだろう、表面にびっしりと苔むした大木だった。
「……ふぅ! あぁ、冷たくって良い気持ち!」
その根元に腰を下ろして両足を投げ出し、幹に背中を預けたら気分は極楽。うんと伸びをした彼の脳裏に蘇ったのは激闘のクライマックス、最高威力の転がり攻撃を棒立ちのオーダイルに食らわせた瞬間の一コマだった。
「へんっ、どんなもんだい! 最後に笑うのはオイラたちなのさ!」
岩のテーブルの上でビクビクと痙攣するオーダイルを遠目に眺めつつ、勝利の喜びに酔いしれるベロベルト。しかし――その一言が彼を残酷な現実へと引き戻す。
「オイラたちって……そっか。もうオイラしかいないんだっけ……」
ボソリと呟くベロベルト。その瞬間に彼は底なしの虚しさに襲われる。
いま彼が述べたとおりだった。ある者は餌食にされ、またある者は理不尽に殺され、更にある者は抵抗の果てに命を落としていった結果――彼の仲間は全滅していたのだった。
「あれ、おかしいな? ははっ、駄目じゃないか。泣いたりしちゃ……!」
自分で自分を叱咤激励するも、込み上げる感情には抗えなかった。頭を垂れた彼の両頬を幾粒もの熱い雫が伝い落ち始める。
面白い話を披露し合っては大いに盛り上がったこと、力を合わせて獲物の群れを追い詰めたこと、真心を込めて育てた秋の実りを一緒に収穫したこと、洞窟の中で身を寄せ合って励まし合いながら真冬の寒さを耐えたこと、待ちに待った春の訪れを御馳走で祝ったこと、快晴の夏の夜空を駆け抜ける流星群を眺めたこと。その時々に感じた一体感と興奮、達成感、肌の温もり、喜び、そして感動。仲間と共に過ごした日々の思い出が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
「あぁっ! ああぁぁぁぁっ!」
我慢していられたのはそこまで。洟と涙でクシャクシャになった顔を両腕に埋めて泣きに泣きまくるベロベルト。何もかもを分かち合った仲間たちへの思いが涙と共に溢れ出した、次の瞬間――
「ちょっと! 私のこと勝手に殺さないでくれるかしら!?」
彼の耳に女性の不機嫌な声が飛び込んでくる。
「えっ……誰だい?」
ハッとして前を見るも姿はない。キョロキョロし始めた彼に再び声の主が呼びかける。
「うふふっ、どこを探しているのかしら、泣き虫さん!? 私はここよ!」
真上からだった。恐らくは木の枝葉の中。そこまで気付いて顔を上向けた彼の目と鼻の先にあったのは――
ぐぱぁっ!
いっぱいに開かれた蛇の大口。真っ逆さまに木から落下した声の主が噛み付いてきたのだった。
「……むぐぅ!?」
避けようとするも時すでに遅し。生温かく湿った柔らかな感触に顔全体を覆われたと思う間もなく、さながら頭に袋を被されたかのように、すっぽりと首から上を咥え込まれてしまう。
「んーっ! んっ、んーっ!」
両手で掴んで引き剥がそうとしても効果はなかった。ジタバタして振り払おうとするも結末は同じ。そうこうしている間に、長く、そして太い胴体で全身をグルグル巻きにされ、身じろぎ一つできなくなってしまう。
おしまいだった。抵抗を諦めてゴロンと仰向けになるベロベルト。しかし、その途端――どういう訳か彼は噛み付き攻撃から解放される。
「……ぷはっ! あぁ、塩辛いったらありゃしないわ! ほんっと、男のクセに涙なんか流して情けないんだから!」
「きっ、君は、もしかして……!?」
その笑い声には聞き覚えがあった。青臭い唾液でベトベトになった顔を手で拭うと同時に現れたのは、切れ長の赤い目、首元から伸びる高い襟のような二枚の細長い葉っぱ、そして後頭部から伸びる長い耳のような二枚の尖った葉っぱが特徴的な、緑色をした蛇のポケモン――ジャローダだった。
「久しぶり! 元気にしていたかしら?」
笑顔で挨拶する彼女だったが、ベロベルトは開いた口が塞がらない。
「しっ、信じられない! 生きていたなんて……!」
小刻みに震える手でジャローダを指差すベロベルト。なにか恐ろしいものに出くわしたような顔だった。
「ふふっ、幽霊じゃないわよ! この感覚は本物でしょ?」
相手の心中を察した彼女は巻き付く力を強める。ひんやりと冷たい滑らかな鱗の感触、全身から溢れ出す爽やかな新緑の香り。幻ではないと確信するには十分すぎる証拠の数々だったが、
「でも、やっぱり信じられない! それなら、あの時にオイラが目にしたのは一体……?」
あの時。数ヵ月前に目撃した光景が彼の脳裏に蘇る。
鬱蒼とした木立の奥から激しく言い争う声が聞こえてくる。一方はオーダイルの声、もう一方は――
「嫌よ、離しなさい! アンタみたいな乱暴者に渡す物はないわ!」
ジャローダの声だった。その場に鉢合わせたベロベルト、もとい当時のベロリンガは全身を凍り付かせる。
「だっ、駄目だ! そいつに歯向かっちゃいけない! お願いだから言うとおりにして……!」
見つからぬよう茂みの中に隠れつつ、誰にも聞こえない程度の声で呟くも、その思いが彼女に届くことはなかった。瞬く間に口論はエスカレートしていき、一触即発の空気が二匹を包み込む。
なんとかしなくては。そう思って必死に知恵を絞るも、全身から脂汗が滝のように流れ落ちるばかりだった。無情にも時間だけが過ぎていき――やがて彼が最も恐れていた出来事が巻き起こる。
「このアバズレがぁ! こっちが下手に出りゃ付け上がりやがって!」
急に一段と大きくなるオーダイルの怒鳴り声。それが意味するところは誰よりも彼がよく知っていた。ベロリンガの顔から血の気が失せる。
「女だから手加減するつもりでいたが、気が変わったぜぇ! もう許さねぇ! ぶっ壊してやる! ……グルァァァッ!」
「いやぁぁぁぁあああ!」
咆哮、そして絶叫が交錯した直後――
ザシュッ!
鋭利な爪が肉を切り裂く音が響き渡る。四方八方に血しぶきが飛び散り、その一部が彼の顔に降りかかる。
「あ、あぁ……」
終わった、何もかも――。身を潜めた茂みの中で崩れ落ちるベロリンガ。極限のショックに耐えきれる筈もなく、間もなくして彼は失神してしまうのだった。
そう、生きている筈がないのである。回想を終えたベロベルトの頬を冷や汗が伝う。
「あぁ、あの時ね! なぁんだ、近くにいたの! ごめんなさい、気付いてなかったわ!」
恥ずかしそうに笑うジャローダ。彼女は更に言葉を続ける。
「あの時は狩りをしていた最中でね。アイツ、私の獲物を横取りしにやってきたの。で、渡す気はないってキッパリ断ったら、ブチ切れて襲いかかってきたものだから、獲物を放り捨てて逃げ出したのよ。まさかアイツの振り下ろしてきた爪に直撃するとはねぇ。気絶したまま逝けたことを祈るばかりだわ!」
彼女は葉っぱの小さな手を合わせてみせる。
「ええっ!? とっ、ということは……!?」
仰天するベロベルト。彼女は笑顔で頷く。
「ふふっ、そういうこと! 真っ二つにされたのは私じゃなくって、私が締め落とした子だったってワケ! その私は見てのとおり! あの子が身代わりになってくれたから傷一つ負わずに済んだわ! ……って、きゃっ!?」
ジャローダの口から悲鳴が上がる。目の前の巨体の持ち主が力いっぱい抱き付いてきたのだから当然だった。
「ああぁぁぁぁっ、ありがとぉぉぉぉっ! 生きていてくれたんだねぇぇぇっ!」
感極まって号泣するベロベルト。彼の目頭から堰を切ったように嬉し涙が溢れ出す。
「もぅ、びっくりするじゃないの! 暑苦しいったらありゃしないんだから!」
と言いつつも、まんざらでもない顔のジャローダ。彼女もベロベルトの背中に両手を回し、そして、
「私こそありがとう! あなたと生きて再会できて本当に嬉しいわ!」
そう一言、そっと耳元で囁くのだった。
やがて熱い抱擁を解いて見つめ合う二匹。両者はお互いの体に生じた大きな変化に気が付く。
「ふふっ! 随分と太ったと思ったら、ベロベルトになっていたのね! お祝いの言葉を贈るわ! 進化おめでとう!」
「えへへっ、ありがとう!」
拍手を浴びて目を細めた彼だったが、その笑みは長続きしなかった。まじまじと彼女を見つめた彼の顔から表情が消え失せる。
「そう言う君は……あぁ、何と言ったら良いやら。こんなにまで痩せてしまって……」
こけた頬、その塊である筈の筋肉が衰えて骨と皮ばかりになった体、元気をなくした尻尾の葉っぱ。一昨日までの自分と同じだった。慢性的な栄養不足であることを物語る証拠の数々を目の前に、ベロベルトは言葉を失ってしまう。
「まぁね。あの日からアイツの目を避けて一歩も地面に降りることなく暮らしてきたんだもの。仕方ないわ」
そこで彼女は小さく溜息を吐く。
「うぅっ……」
呻き声を漏らすベロベルト。想像するだけで気が遠くなりそうだった。彼は胸が締め付けられるような感覚を抱かずにはいられない。
しかし、当のジャローダはポジティブだった。彼女はベロベルトに微笑みかける。
「ふふっ、そんな顔しないの! ずっと日光浴していたから健康には過ごせていたのよ?」
途端にベロベルトの目に光が戻る。
「あっ、そうだった! その手が君にはあったね!」
すっかり頭から抜け落ちていた。彼は以前に彼女から聞いた話を思い出す。
「えーっと、何て言ったかな? こ、こう……こうせい……」
「光合成! 今回も私の方が早かったわね! もぅ、いい加減に覚えなさいな!」
「そう、それそれ! あぁ、また先に言われちゃった!」
ベロベルトは悔しそうに宙を仰ぐ。
光合成。大きく深呼吸し、綺麗な水を飲み、太陽の光を全身に浴びるだけでエネルギーを作り出せるという、彼にとっては魔法にも等しい能力。彼女が雨水だけで数ヶ月もの間を生き延びられた唯一の理由だったが、
「でも、その光合成だけで暮らしてみて分かったんだけど、得られる栄養には偏りがあるみたいなのよねぇ。どうも体を作るための栄養は生み出せないらしくて、段々と肉が落ちていっちゃったの」
それも決して万能という訳ではなかった。彼女は痩せ衰えた自身の体に視線を落とす。
「……なるほど。それで、何か食べなきゃと思って住処の木から下りてきたんだね?」
ジャローダは少し恥ずかしそうに笑う。
「うふふっ、ご名答! それもあるし、やっぱり食欲は我慢できなくってね! 食事も楽しめずに生き続けるくらいなら、アイツに殺される方がマシだって思ったもの! ……それで、覚悟を決めて外に出たのが今朝だったんだけど、森の中で食べ物を探していたら、いきなり湖の方から地鳴りのような音が響いてきてね。何事かと思って大急ぎで駆け付けたら……アイツと戦うあなたの姿があったの! カッコよかったわぁ!」
うっとりとした表情で賛辞を送るジャローダ。しかし、ベロベルトは浮かない顔だった。
「カッコよくなんかないよ。オイラは臆病者さ。あの時、君がアイツに襲われていると分かっていたのに、オイラは怖くて身動き一つできなかったんだ。助けに入る勇気もなくって、それどころか……君が大人しくアイツの言葉に従うことを祈っていて……!」
ベロベルトの目に涙が浮かぶ。
「ごめんよ、君を守ってあげられなくって。そして、こんな体にしてしまって。……ああっ!」
両手で顔を覆って大泣きし始めるベロベルト。そんな彼の頭を彼女は優しく撫でる。
「もぅ、いい加減に泣き止みなさいな! あの時はあの時よ! 今日こうして私のこと守ってくれたじゃないの! それに私なら大丈夫! いまに美味しそうな子を食べまくって、元どおりの体を取り戻してやるんだから!」
「……本当に大丈夫?」
泣き腫らした目を向けたベロベルトに彼女は大きく頷いてみせる。
「もちろん! アイツも消えたことだし、なんとでもなるわ! せいぜい自分の心配でもしてなさい! あなたの分まで食べ尽くしちゃうでしょうからね! ……ほら、じっとして!」
くしゃくしゃになった顔に鼻を近づけて、ペロリ。先端が二股に割れた長い舌で目元の涙を拭い取るジャローダ。ベロベルトの顔に笑みが戻る。
「はい! もう泣いちゃダメよ!」
「うん! もう泣かない!」
彼は固く心に誓うのだった。
ジャローダに体から降りてもらい、再び大木の幹に背中を預けて湖を一望するベロベルト。嫌でも目に入ってくるのは、岩のテーブルの上に横たわるオーダイルの体だった。彼は小さく息を吐く。
「……どうしようか、あれ」
ボソリと呟くベロベルト。隣でとぐろを巻いていたジャローダは横目で彼の顔を見る。
「なるたけ深い穴を掘って埋めてしまうのが一番ね。もう二度と起き上がってこられないように。一休みしたら取り掛かりましょう」
淡々とした口調で答えるジャローダ。ベロベルトは意外そうにする。
「ありゃ? 君らしくないね。食べないんだ?」
ジャローダはムッとした表情を浮かべる。
「バカ言わないでちょうだい。呑み込めるワケないでしょ、あんなデカブツ」
「けど、ずっと何も食べてないから腹ペコなんでしょ? だったら、一口大に切り刻んで食べたらいいじゃないか。君の得意技のリーフブレードでね!」
意地の悪いことを言うベロベルト。彼女は顔を青くする。
「嫌よ、気持ち悪い! 血を目にするのもダメな私にできるワケないでしょうが! そう言うあなたが食べなさいよ? できるものならね!」
「け、結構です……」
ベロベルトは視線を逸らす。丸呑み以外に獲物を食べる術を持たない二匹に、解体の技能は勿論のこと、スプラッターな光景への耐性など備わっていないのだった。
「うーん、残念だなぁ。いつか食べてウンチにして、お尻の穴からひり出してやるのが夢だったんだけどねぇ……」
「その気持ちは痛いほど分かるけど、無理なものは無理よ。諦めなさいな」
未練がましく呟くベロベルト。ジャローダは同情しつつも冷静に促す。
「はぁい……」
頭を垂れた彼が溜め息混じりに返した次の瞬間――
ポンッ!
黒い毛皮に覆われた三本指の手が二匹の肩に乗ってくる。
「よぉ、お前さんたち! 元気にしていたか!?」
「えっ、その声は……!?」
続いて聞こえてきたのは、深みのある中年男性の声。驚いて後ろを振り向くベロベルト。そこにあったのは、炎のようなオレンジ色をした切れ長の目、ピンと立った大きな長い耳、スラッと細い三本指の足、豊かな毛に覆われた大きな尻尾、そして何よりも、耳の内側から飛び出した大きな房状の耳毛が特徴的な、首から下をローブのような毛皮で包んだ、二本足で立って歩く狐のポケモン――マフォクシーの姿だった。親友との思いがけない再会を果たした彼は喜びを爆発させる。
「レナードさん! 久しぶり!」
「あぁ、久しぶり! 元気そうで何よりだ……って、おぉっ!? どうりで前に会った時より背中が大きく見えるワケだ! ベロベルトになっていたのか!」
レナードと呼ばれたマフォクシーは目を見開く。
「えへへっ、見違えたでしょ!? オイラも遂に進化したのさ!」
マフォクシーの方を向いて立ち上がり、エヘンと胸を張ってみせるベロベルト。その顔を見上げたマフォクシーは大きく頷く。
「あぁ、見違えたとも! しかし、雰囲気は何一つ変わっていないな!」
「ははっ、当たり前じゃないか! 進化してもオイラはオイラだもん!」
大笑いする二匹。そこでマフォクシーの視界に入ってきたのは、鎌首をもたげたジャローダの姿だった。
「あら、いらっしゃい。誰かと思えばレナードさんじゃないの。お変わりないかしら?」
「ははっ! 正直に言うと、良いことよりも悪いことの方が多くて参ってしまう日々の連続だったが……まぁ、なんとかやっているよ。こっちは相変わらずさ。おや……?」
頭の後ろに手をやりながら恥ずかしそうに答えるマフォクシーだったが、そこで彼は目をパチクリさせる。ジャローダの異変に気が付いたのだった。
「随分と痩せたようだが……? 何があった?」
ジャローダは決まり悪そうに舌を出す。
「まぁ、色々とね……。話せば長くなるわ」
目を逸らしてしまうジャローダ。空気を読んだベロベルトがマフォクシーの耳元に口を寄せる。
「……その件だけど、今は聞かないであげて? あとでオイラが話すからさ」
「……む? 分かった。お前さんの言うとおりにしよう」
素直に聞き入れてもらえてホッと一息つくベロベルト。そこで彼の視線はマフォクシーの背後に釘付けとなる。
「ところで……レナードさんは買い出しの帰り? とんでもない量の荷物だね?」
マフォクシーの何倍ものサイズがある巨大な背嚢を見上げるベロベルト。進化して巨漢へと変貌を遂げた彼ですら、背負えるか自信が持てない程の大きさだった。
「そのとおり。北の街まで買い出しに行ってきたところだ。行きは身一つだが、帰りはこれだからなぁ。それで近道をしていたのさ」
マフォクシーは背嚢を指差しながら答える。
そんな彼の本職はビストロのオーナー。グルメな常連客の舌を唸らせるべく、ここ一番の食材を仕入れてきたのだった。
「あぁ、そういうことかぁ。どこへ行くにしても樹海の中を通るのが一番の近道だもんねぇ」
彼らの大便に化けてしまう者が後を絶たない理由である。街から街へ行き来するのに便利なそれは、時として彼らの胃袋へと続く滅びの道でもあった。
「あれ? ちょっと待って?」
何かに気が付いたベロベルトは視線を泳がせる。
「それにしては方向が変じゃない? こんな場所を通る必要ないと思うけど?」
首を傾げるベロベルト。マフォクシーはハッとした表情を見せる。
「おぉ、そうだ! すっかり忘れていた! お前さんたちに聞くのが早いかもしれん!」
マフォクシーはポンと手を叩く。
「道中で物凄い爆発音を耳にしてなぁ。土煙が上がるのも目に入ったものだから、気になって様子を見に来たんだ。この辺りで間違いないとは思うが……何か心当たりはないか?」
「あぁ、それなら」
先に口を開いたのはジャローダだった。彼女はキョロキョロし始めたマフォクシーに、
「あの事かしら?」
湖の近くで横たわるオーダイルを指差してみせる。
「なっ!? やっ、奴は……!?」
マフォクシーにとっては目の玉が飛び出るような光景だった。その場に背嚢を放り出した彼は、彼女が指差す方へ一目散に駆けていく。
「……あっ、ちょっと! まだ話の途中よ!?」
呼び止めるも時すでに遅かった。彼女は小さな溜め息を漏らす。
「仕方ないわね。私たちも行きましょう」
「う、うんっ!」
二匹はマフォクシーの背中を追い始めるのだった。
やがて湖畔に行き着くジャローダとベロベルト。そこにあったのは、岩のテーブルの上で横たわるオーダイルを興味津々で観察するマフォクシーの姿だった。二匹は表情を硬くする。
「肝っ玉が据わっているわねぇ。私には真似できないわ」
「おっ、オイラもそう思う……」
ジャローダの言葉に深く頷くベロベルト。不安に駆られた彼は両手を口に当てて叫ぶ。
「きっ、気を付けてよ、レナードさん!? トドメは刺したつもりだけど、まだ死んだかどうかまでは確かめられていないんだ! いきなり起き上がって襲い掛かってくる可能性もあるから注意して!」
大きな耳をピクリと揺らすマフォクシー。その次の瞬間――弾かれたような勢いで振り返った彼は、凄まじい形相でベロベルトを睨む。
「いま、何と言った?」
「えっ? おっ、オイラ何か気に障るようなことでも言った……?」
あまりの剣幕に尻込みしてしまうベロベルト。そうこうしているうちに、マフォクシーは彼との距離を大股で詰め始め、そして――
ガシッ!
「いま、何と言ったかと聞いたんだ!」
彼の両肩を鷲掴みにし、牙を剥き出しにして絶叫する。
「ひっ!? きゅ、急にどうしたのさ!?」
たまらず悲鳴を上げるベロベルト。早く答えなければ何をされるか分かったものではなかった。彼は慌てて口を開く。
「いっ、いきなり起き上がって襲い掛かってくる可能性もあるから注意して、って……」
「違う!」
マフォクシーは何度も首を左右に振るう。
「その前だ! その前に何と言った!?」
目の前まで鼻面を近づけられた彼は大きく体を仰け反らせる。
「とっ、トドメは刺したつもり……」
「それだ!」
マフォクシーは彼の口を指差す。
「確かなのか!? お前さんが奴を倒したのか!?」
未だに信じられない気持ちだったが、そうだと言う他なかった。彼はおずおずと頷く。
「う……うん。オイラで間違いないけど?」
「あっ、ありえない! 俺は夢でも見ているのか!?」
頭を抱えて後ずさるマフォクシー。言葉の最後で彼は天を仰ぐ。
「えっと、ちょっとよろしくって?」
そこで口を開いたのはジャローダだった。二匹の注目が彼女に集まる。
「彼の言葉は私が保証するわ。この目で見たの。彼がアイツにトドメを刺す瞬間をね」
「なっ、なんと! それでは……間違いないのか!」
もはや疑う余地はなかった。彼はベロベルトがオーダイルを倒したことを確信する。
「では話が早い。お前さんに一つ言うべきことがある!」
再びベロベルトとの距離を詰め始めるマフォクシー。嫌な予感を募らせた彼の顔に緊張が走るも、
「礼を言わせてもらう! ありがとう! この恩は永遠に忘れない!」
「へっ……?」
待っていたのは予想外の展開だった。進化して不器用になった手を取り、さっきまでの表情が嘘だったかのような晴れやかな笑みを顔いっぱいに浮かべて感謝の意を伝えるマフォクシー。彼が目を点にしたのは言うまでもなかった。
「えぇっと……オイラなにかレナードさんに対して貢献するようなことしたかな?」
「あぁ、したとも! それも俺に対してだけじゃないぞ!? この大陸に住む皆に対してだ!」
「そっ、それってどういう意味……?」
あまりにもスケールが大きすぎて頭が追いついてこなかった。ベロベルトの頭の上に無数の疑問符が浮かぶ。
「ははっ、ポッポが豆鉄砲を食ったような顔だな! いいだろう、教えてやる」
踵を返して歩き始めたマフォクシーは、倒れ伏すオーダイルの真ん前に立ち、
「こいつは……最重要指名手配だ」
その首から上に憎悪の眼差しを向け、吐き捨てるように言うのだった。
「さ、サイジュウヨウ……シメイテハイハン……?」
頭の上に浮かぶ疑問符の数を更に増やすベロベルト。一方のジャローダは深い溜め息を吐く。
「……やっぱり。お尋ね者だったのね。そんなことだろうと思っていたわ」
「おっ、お尋ね者だってぇ!?」
取り乱すベロベルトを他所に彼女は更に続ける。
「この森にやってきたのは追っ手を振り切るためだったんでしょうね。で、世間が忘れるまで待って、また別の場所で悪事を働く気でいた、と」
顎に手を当てたマフォクシーは小さく頷く。
「あぁ、俺もそう思う。ここは身を隠すには最高の場所だからな。……いやはや、危機一髪だよ。こいつは知らなかっただろうが……街の警察も随分と前から追跡を諦めていたんだ。このまま野放しにし続けたら大変なことになっていたに違いあるまい」
耳を疑う言葉だった。たちまちベロベルトはマフォクシーに食ってかかる。
「ちょ……ちょっと待ってよ!? どう考えてもおかしいでしょ、いまの!? そんな悪い奴の追跡をどうして諦めちゃうのさ!? 悲しい思いをする子が増えるだけじゃないか!」
「……俺も同じ気持ちだったさ」
絞り出すような声で呟くマフォクシー。オーダイルを眼光鋭く睨んだ彼の両拳が小刻みに震える。
「三十三匹。こいつの討伐作戦で殉職した警官の数だ。一度の作戦で出した殉職者数としては過去最大だったと聞いている。あまりの被害の大きさに追跡を中止する他なかったんだ」
「さっ……三十三匹だってぇ!?」
耳を疑う数字だった。ベロベルトは目を白黒させる。
「あらま。そんなに死んじゃったら無理もないわね。待ち伏せでも受けたのかしら?」
「まぁ、そんなところだ」
淡々とした口調で尋ねるジャローダ。マフォクシーの眉間に三本線のシワが深々と刻まれる。
「しかも奴を倒した後で受けたらしい。全くの想定外だっただろうな」
「なっ……なにそれ!? しっ、死んでから生き返ったってこと!?」
ベロベルトは恐怖のあまり絶叫する。
「あぁ、そうとしか説明が付かん」
言いながら彼はオーダイルの首筋に手を当てる。
「こいつだが色々と話を聞く限り特異体質でなぁ。異常なまでに新陳代謝が速いんだ。それは左胸を貫かれた後も例外じゃなかったようで、どうも運よく息を吹き返したらしい。で、背後から追い付かれて一網打尽にされたってワケだ」
もう片方の手でマフォクシーは首を掻き切るポーズをしてみせる。
「しっ、心臓に受けた傷まで自然に治しちゃうなんて……!」
ブルブルと身震いするベロベルトの頬を冷や汗が伝う。
あまりにも現実離れした話だったが、それでも心当たりがない訳ではなかった。初めてオーダイルを目撃した時のことを思い出すベロベルト。あれは追っ手と戦った直後だったに違いない。満身創痍で足を引きずりながら歩いていた筈が、翌日には何事もなかったかのように回復していたのである。
オーダイルに視線を戻すマフォクシー。彼の口から唸り声が漏れる。
「今の今まで話半分だったが……ようやく信じられるようになったよ。ここまでの傷を負いながら生きていることが何よりの証拠だからな」
「げっ!? まだ生きているの!? 頭のトサカから思いきり岩に叩き付けたのに!?」
すかさず身構える二匹。マフォクシーは小さく頷く。
「あぁ、生きていると言う他あるまい。まだ心臓が動いているからな。いささか不規則なリズムではあるが。しかし、そう慌てなさんな。もう二度と起き上がってはこないさ」
「なっ、なんでそう言いきれるワケ?」
身構えたまま尋ねるベロベルト。マフォクシーは自分の頭を指差す。
「頭がカイスの実みたいに弾けちまっているからだ。特異体質だろうが何だろうが、脳味噌ぶちまけちまったら終わりよ」
「おぇぇ……」
「げぇぇ……」
それを聞いた二匹は盛大に嘔吐くのだった。マフォクシーは失笑を禁じ得ない。
「ははっ! よく見えるようにひっくり返してやろうか!?」
「けっ、結構です! うぷっ……!」
ふざけ半分でオーダイルの胴体に両手をかけるマフォクシー。込み上げる吐き気に耐えながらベロベルトは何度も首を左右に振るのだった。
「でも……よかったわ。これで一安心ね」
「うん、やっと終わったんだ……」
顔を見合わせて安堵の息を吐く二匹。あることを思い出したベロベルトはポンと手を叩く。
「そうだ、レナードさん。一つお願いがあるんだけど」
「うん、どうした?」
買い出しの帰りで申し訳ないけど手伝ってもらおう。彼は思いきって口を開く。
「そいつだけど、今から穴を掘って埋めちゃおうと思うんだ。悪いけど手を貸してくれる?」
「私からもお願い。構わないかしら?」
一刻も早く目の届かないところに葬り去ってしまいたく思っていたジャローダも後に続く。
「なに? 埋める気でいるのか、お前さんたち?」
二匹の顔を交互に見たマフォクシーは目をぱちくりさせる。
「えっ、そうだけど?」
そうする他にないという結論に行き着いたばかりだった。キョトンとした顔をする二匹。腕組みをしたマフォクシーは失望した表情を隠さない。
「おやおや、なんでも丸呑みにして食ってしまう山椒魚に蛇ともあろうものが意気地のない。こんな大きな獲物が目の前にいるんだぞ? ここに収めてやろうとは思わんのか?」
マフォクシーは白い毛皮に覆われた自身の腹部を指差す。
「そりゃぁ、思うには思うけど……ねぇ?」
「えぇ。呑み込めるワケないわ、こんな大きな獲物」
困った顔を見合わせる二匹。肩を竦めたマフォクシーは深い溜息を漏らす。
「やれやれ。貪欲さに欠ける奴らだ。……まぁいい。少し待て」
右手で左腕の体毛の中を弄り始めるマフォクシー。ベロベルトは疑問の目を向ける。
「えぇっと、なにするつもり?」
「ふふっ、今に分かるさ! ……おっ、あった、あった!」
何かを探り当てたマフォクシーが腕の体毛の中から次々と引っ張り出したのは――大小様々のナイフ、巨大なハサミ、そして不気味に黒光りするノコギリだった。それらを砂の地面の上にズラリと並べるマフォクシー。見るもおぞましい凶器の数々にベロベルトは腰を抜かしそうになる。
「……ひっ!? なっ、なんて物騒なモノを持ち歩いているのさ!? それでなにするつもり!?」
「これでなにするつもりかって?」
マフォクシーは刃渡り一尺近いナイフを拾い上げる。
「決まっているじゃないか。解体するのさ。呑み込めないなら一口大に切り分けるまでだ」
料理番であり猟師でもある彼の十八番だった。彼は慣れた手つきでナイフを回してみせる。
「かっ、解体ってねぇ……。あなた用事の最中でしょう? あんまり悠長なことをしていたら夕方までに帰れなくなるわよ? 第一、そんな手間を私達のために取らせるなんて悪いわ」
あまりにも気が引ける話に呆れ顔で返すジャローダ。しかしマフォクシーは意に介さない様子だった。
「構わんさ。今日は定休日だからな。それと、一つ断っておくが、お前さんたちに全部はやらんぞ? 今朝から歩き詰めで腹が減っていてなぁ。ちょうど何か食いたいと思っていたのさ。こんな旨そうな肉の塊を見逃す手はあるまい?」
ナイフを口の前で構えた彼は舌なめずりをする。
二匹より雑食の傾向が強いとはいえ、彼も歴とした肉食獣だった。彼らの手助けをしたいと思う以上に、喰らって胃袋に収めてやりたいという衝動を抑えられなかったのである。
「ふふっ、ゲテモノなら色々と食ってきたが……ワニの肉は初めてだ。はてさて、どう料理してやろうか?」
オーダイルの頸動脈にナイフの刃を当てながら不気味な笑みを浮かべるマフォクシー。近寄り難い雰囲気に思わず後ずさる二匹だったが、心は歓喜で満たされていた。互いに見つめ合った二匹は目を輝かせる。
「やったわ! やはり持つべきものは友ね!」
「うん! ここはレナードさんの厚意に甘えちゃおう!」
が、期待に胸を膨らませたのも束の間、
「というワケで、お前さんたち! 悪いが手伝ってくれ! 三匹で協力した方が早く捌けるからな! なに、難しい事はないさ! 俺の言うとおりに動いてくれさえすればいい!」
あえなく二匹は奈落の底に突き落とされてしまうのだった。一瞬で石のように固まってしまうベロベルトとジャローダ。表情の変化に気が付いたマフォクシーは大笑いする。
「あははっ! 分かりやすい奴らだなぁ、お前さんたちは! 全て顔に書いてあるぞ!?」
ひとしきり笑い終えて深く息を吐くマフォクシー。やれやれと言わんばかりの顔をした彼は更に続ける。
「……冗談だよ。最初から期待しとらんさ。こいつの解体は俺に任せて、お前さんたちは枯れ枝を集めておいてくれ。じゃんじゃん火を起こさねばならんからな。それじゃ、頼んだぞ!」
「わっ、分かりました!」
「よっ、喜んで!」
素っ頓狂な声で返事をした二匹は一目散に退散するのだった。
「ふぅ、助かったぁ……」
「ホント。心臓が止まるかと思ったわ……」
森に辿り着くなり崩れ落ちる二匹。しかしながら、のんびり休んでいる暇はなかった。ベロベルトは即座に立ち上がる。
「こうしちゃいられない。オイラたちも始めよう。昨日の大雨で濡れているだろうから、集めた枯れ枝は日当たりの良い場所にでも並べておこうか」
ジャローダも鎌首をもたげて起き上がる。
「それがいいわね。この天気ならすぐ乾くわ。それじゃ、お互い頑張りましょう!」
その言葉を合図に作業を開始した二匹だったが、そこら中に掃いて捨てるほど落ちている枯れ枝を集めることくらい朝飯前だった。あっという間に十分すぎるほどの量の枯れ枝を拾い集めた二匹は、それら一本一本を湖畔の焼け付く砂の地面の上に敷き並べて作業を完了する。
「よぉし! 終わったぁ!」
「えぇ! お疲れ様でした!」
大きく伸びをするベロベルトとジャローダ。しかし、達成感に浸れたのも束の間、
「そうだ、レナードさんは?」
「まだみたい。そう簡単には終わらないと思うわ」
「うぅっ、だろうね。どうしよう、オイラ達だけ休んでいるワケにもいかないし……」
まだマフォクシーが作業中であることを知った二匹は罪悪感を募らせる。
無言のまま立ち尽くす二匹。やがて覚悟を決めたベロベルトは重い口を開く。
「……行こう。手伝わないと」
「……えぇ、行きましょう。あんなこと言われて黙って引き下がれるものですか」
自分自身に言い聞かせて湖畔に繰り出す二匹。程なくしてマフォクシーの前に整列した二匹は驚きをもって迎えられる。
「おぉっ!? どういう風の吹き回しだ!? なにをしに来た!?」
もう後戻りは不可能だった。二匹は持てる勇気を振り絞る。
「そっ、そりゃあ……てっ、手伝いに来たに決まっているじゃないか! 枯れ枝なら集め終わったからね!」
「わっ、私も同じく! こんな重労働をレナードさん一匹だけに任せられないわ!」
嬉しい言葉の数々にマフォクシーは破顔する。
「ほぉ、そいつは有難い! では、一つ頼ませてもらおう!」
互いに目配せを交わして小さく頷き合った二匹は、それまで伏せていた顔を上げる。
「こいつを洗うのを手伝ってくれ! いやぁ、これだけデカいと一苦労だ!」
そこで二匹の目に飛び込んできたのは――オーダイルの腹の中から引っ張り出したばかりの新鮮なモツを笑顔で抱えるマフォクシーの姿だった。あまりの刺激に両者は肝を潰してしまう。
「もっ、もうだ……め……」
バタッ!
白目を剥いて卒倒するジャローダ、
「うん、オイラも……だめ……」
ドサッ!
そしてベロベルト。マフォクシーは手にしていたモツを取り落としてしまう。
「おやおや、なんとまぁ!」
直後、がっくりと肩を落とした彼は、
「まったく、この小心者どもめ。そんなのでよく今まで生き延びてこられたものだな?」
そう一言、大の字に横たわる二匹に向かって悪態を吐くのだった。
24/08/11 07:28更新 / こまいぬ