友との晩餐【残】【消】
「うっ、うーん……。なにこれ……とっても良い匂い……」
鼻の穴をひくつかせるベロベルト。彼の目を覚まさせたのは、どこからともなく漂ってきた美味しそうな香りだった。
「んぁ……あれっ? どうして仰向けになって……?」
匂いのする方を向こうとして気付いたのは、冷たい地面の感触だった。記憶の断片を繋ぎ合わせ始めるベロベルト。やがて彼は事の顛末を思い出す。
「そうだ、気持ち悪くなって気絶しちゃったんだっけ……」
一緒に倒れたジャローダの彼女、手伝う予定だったマフォクシーの猟夫のことが気がかりではあったが、まずは体を起こさねばならなかった。寝ぼけ眼を擦りながら大あくびするベロベルト。長座になって瞼を開けた瞬間に目に飛び込んできたのは――驚くべき光景だった。
「……へっ!? 嘘でしょ!? すっかり暗くなってる!?」
ポカンと口を開けて空を見上げるベロベルト。さっきまで空高く輝いていた筈の太陽は月に取って代わられ、すっかり夜の帳に包まれていたのである。
「にっ、二匹は!? まさか置いてきぼりにされて……?」
だとしても不思議ではないほどの時間が経過していた。彼は慌てて立ち上がって周囲を見回す。
「ううっ、暗くてよく見えないよ。というか、こんな場所で倒れた記憶ないぞ……?」
薄暗い中で目を凝らすも、見えてくるのは鬱蒼と生い茂る木々ばかり。熱中症になってしまうのを心配したマフォクシーが涼しい森の中まで運び込んだのが真相だったが、失神していた彼が覚えている筈もなかった。
「どっ、どうしよう……?」
頭を抱えてしゃがみ込んでしまうベロベルト。そんな彼の鼻孔を――
「うん? これは……?」
またしても良い匂いがくすぐる。肉の焼ける香ばしい匂いだった。同時に発生源まで突き止めた彼はすっくと立ち上がる。
「よし! こっちだ!」
安心した顔で一直線に歩き始めるベロベルト。雑草やら低木やらを大きな足で踏み潰し、邪魔な枝を長いベロで薙ぎ払い続けた先に見つけたのは――湖畔の一画で焚き火をするマフォクシーの姿だった。接近に気付いた彼は驚いた様子で立ち上がる。
「おぉ! 目を覚ましたか! 起こしに行く手間が省けたよ!」
「ごめんね、レナードさん。爆睡しちゃっていたみたいで……」
「なに、気にするな。俺ものんびりしていたところさ」
ペコリと頭を下げるもマフォクシーは笑顔だった。彼は褐色の液体が詰まった小瓶を揺らしてみせる。
「さぁ、立っていないで座ってくれ! もう焼き上がる頃だぞ!」
「うわぁぁぁ……!」
促されるまま石の椅子に腰かけるベロベルト。そこにあったのは夢のような光景だった。大きな葉っぱの上に山のように積み上げられた生肉。焚き火の周りで美味しそうな煙を上げる串刺しの細切れ肉。石を組んで作られたロースターの上でジュウジュウと音を立てる骨付き肉。食いしん坊の怪獣は目を輝かせずにはいられない。
「レッ、レナードさん!? これ……全部オイラが食べちゃっていいの!?」
「もちろんだ。お前さんが最後だからな。好きなだけ食え!」
肉の世話をしながら大きく頷いてみせるマフォクシー。最後と言われて思い出したのはジャローダの存在だった。ベロベルトは辺りをキョロキョロと見回す。
「そうだ、彼女は?」
「あそこだ。よく見てみろ」
マフォクシーは近くの木の上を指差す。
「えっ、どこ……って、あっ! いた!」
ほぼ完全な保護色だった。探すこと数秒あまり。彼は腹をパンパンに膨らませたジャローダの姿を発見する。久しぶりに満腹して不安も悩みも吹き飛んだのだろう。木の枝に全身を巻き付けて、静かに寝息を立てている最中だった。
「よかった。どこに行ったのかと!」
一安心するベロベルト。そんな彼に最初の一皿が差し出される。
「はいよ、お待ちどおさま! 焼き加減に不満があったら言ってくれ!」
「ひゃあ! こりゃ凄い!」
驚きのあまりに皿を取り落としそうになるベロベルト。皿の上に乗っていたのは、ミディアムレアに焼き上がった肉汁の滴る骨付き肉だった。
「少し待て、いまナイフとフォークを……」
「いっただっきまぁぁす!」
言いかけるも時すでに遅かった。ぐるりと長い舌で一巻きにして口の中に引きずり込んでしまうベロベルト。昨日までなら食べるのに四苦八苦したであろう巨大な肉の塊も一口だった。
用意する必要はなかったな。伸ばしかけた手を引っ込めたマフォクシーの顔に呆れ笑いが浮かぶ。
「……んんっ! んんんっ!」
口いっぱいに頬張った御馳走をクチャクチャと咀嚼しながら恍惚の表情を浮かべるベロベルト。さっきまで筋肉の塊の一部だったとは思えないほどの柔らかさとジューシーさだった。舌の上で転がせばホロリと繊維がほぐれ、凝縮された旨味が口の中いっぱいに溢れ出す。心ゆくまで堪能して――
ゴックン!
呑み下したら夢心地だった。感嘆の呻き声を漏らした彼は両頬に手を当てる。
「おっ、おいしぃぃぃぃぃぃっ! ……レナードさん、これって本当にアイツの肉かい!? なにか特別な下ごしらえでもした!?」
「いいや。筋を切って、味付けに塩をまぶしたくらいだ。なにか気になることでも?」
ロースターの肉をひっくり返しながら答えるマフォクシー。ベロベルトは自分の口を指差す。
「ベロの上で溶けてなくなっちゃったんだ! こんな食感は初めてだよ!」
マフォクシーは拍子抜けした顔をする。
「なんだ、そういうことか。……そいつは下ごしらえ云々の話じゃない。お前さんの唾液の話だ」
「えっ? 唾液だって?」
驚いた顔で舌を垂らすベロベルト。同じポーズをしたマフォクシーは小さく頷く。
「そう、唾液だ。お前さんの唾液は強力な溶解液でなぁ。どんな物でも溶かしてしまうのさ。硬い岩ですら溶かしてしまうんだから、食べ物なんかイチコロだろう。綿菓子かチョコレートみたく溶けちまったんじゃないか?」
まさに言われたとおりの感覚だった。真顔で何度も頷くベロベルト。マフォクシーは呆れ笑いを浮かべる。
「ははっ、なんでお前さんが知らないんだ。……まぁいい。覚えておいて損はないから覚えておけ。丸呑みできない大きさの獲物も舐め溶かして胃袋に収めてしまえるから便利だぞ!?」
ペロペロキャンディを舐める仕草をするマフォクシー。目から鱗が落ちる思いだった。ベロベルトはポンと手を叩く。
「おぉっ、本当だ! そんなこともできちゃうのか! レナードさんったら頭いい!」
それと体の何倍もの長さまで伸びるベロがあれば怖いものなし。彼は大物との勝負に胸を躍らせるのだった。
「さぁ、お喋りは終わりだ! 肉が焦げちまう! どんどん食っていけ!」
「えへへっ! それじゃあ、遠慮なく! ……ベロォォォォォン!」
至福の時間の幕開けだった。会話を切り上げ、すっかり焼き上がった肉の塊を次々と皿に乗せていくマフォクシー。それをベロベルトは次々と舌で絡め取っては口の中に放り込んでいき、クチャクチャと咀嚼しては呑み下していく。
肉は当然のこと、一瞥しただけで失神してしまったモツも頬が落ちるほどの美味だった。それをどれだけ繰り返しただろうか。とうとう肉の山を平らげてしまった彼の元に、最後の一皿が運ばれてくる。
「ほれ、これで最後だ! 心して食うがいい!」
「ありゃ? まだあったんだ。……って、げぇっ!?」
たくさん食べてウトウトしていた彼の眠気を吹き飛ばすには十分すぎるインパクトだった。ベロベルトはひっくり返りそうになってしまう。
こんがり火が通っていても一目で分かった。三連のトサカ、大きな顎に鋭い牙。皿の上に乗っていたのは――オーダイルの頭の丸焼きだった。
「あぁ、びっくりした! 心臓が止まるかと思ったよ!」
「ははっ、だから言っただろう!? 心して食え、と!」
こりゃ一本取られたな。ベロベルトは天を仰ぐ。
「……うーん、こうして見ると大きいなぁ! おっ、流石はレナードさん! ちゃんとリンゴも咥えさせてある!」
皿ごと持ち上げて観察し始めるベロベルト。最初こそ驚きはしたが、こうして食べ物になってしまえばグロテスクともなんとも思わなかった。かぐわしい香りに食欲を刺激された彼は、ゴクンと生唾を飲み込む。
「それじゃあ……心して食べちゃおうか」
名残惜しさなど微塵も感じなかった。早々に観察を止めた彼は、丸焼きの頭を長い舌でグルグル巻きにし、
「じゃあね、バイバイ!」
バクンッ!
別れの挨拶を述べると同時に大口の中へ引きずり込み、舌の上で飴玉のように転がし始める。このまま舐め溶かすか、それとも丸呑みにするか。悩んだ末に選ばれたのは後者だった。ピタリと舌の動きを止めた彼は顔を上向け――
ゴックンチョ!
ネバネバの唾液でベトベトになったオーダイルの頭を呑み下す。ヌルリと食道を滑り降りた先にあったのは消化液の大海原。その中にドボンと落っこちたオーダイルの頭は、ボコボコと激しく泡立ちながら沈んでいき――あっという間に溶け尽くしてしまうのだった。
「……ゴェェェェェップ! あぁ、美味しかった! ごちそうさまでした!」
「その台詞はまだ早いぞ! そら、デザートだ!」
丸々と膨れ上がった腹を抱えて大きなゲップを漏らすベロベルト。そんな彼に無数の白い塊が突き刺さった木の枝が手渡される。
「やったぁ! マシュマロだ!」
狂喜乱舞するベロベルト。受け取るなり彼は焚き火で炙り始める。
「おっと、この前みたく台無しにするんじゃないぞ!」
「ははっ、大丈夫さ! 同じ轍は踏まないよ!」
焦がして炭にした経験から学んだだけあって慣れた手つきだった。炎の上でクルクルと枝を回した彼は、全てのマシュマロをキツネ色に焼き上げる。
「うん! 上手に焼けました!」
高々と掲げて叫んだら後は食べるだけ。ベロンと一舐めにすれば、濃厚な甘さが舌の上で糸を引く。
「ふわぁっ……! ベロが溶けちゃうぅ……!」
これぞ焚き火の醍醐味。ねっとりと粘る魔性の味に彼は頭をクラクラさせるのだった。
これにて今度こそ晩餐は終了。口周りの食べカスを長い舌で舐め取った彼は、マフォクシーに微笑みかける。
「レナードさん、ありがとう! ごちそうさまでした!」
「あぁ、おそまつさま! 満足いただけたようで何よりだ!」
食後の挨拶を交わし合えば長い夜が幕を開けた。マフォクシーは飲みかけの小瓶を、ベロベルトは食事中に何度もおかわりした木の実ジュースのカップを傾けつつ、闇夜に揺れる炎をじっと見つめ始める。
先に静寂を破ったのはマフォクシーだった。景気付けに小瓶の中身を呷った彼は重い口を開く。
「事情は全て彼女から聞かせてもらった。なんと言ってよいやら……本当に申し訳ないことをした。せめて、せめて時々でも様子を見に来てさえいれば、こんなことには……」
両手で頭を抱えるマフォクシー。ベロベルトは怒ったような表情を浮かべる。
「なんで謝るのさ。レナードさんは何も悪いことしてないじゃないか」
手を降ろしたマフォクシーは小さく頷く。
「……ありがとう。実を言うと、お前さんたちと最後に会った後で空き巣に遭ってしまってなぁ。ほぼ全財産を盗まれてしまったんだ。店の経営も傾いてしまって、それこそ寝る間も惜しんで働かねば従業員の給料すら払えない有様だったから、お前さんたちどころではなくなってしまっていたんだ。どうか許してくれ」
「そっか、レナードさんも大変だったんだね……」
どうりで長らく見かけなかった訳である。深くうなだれるベロベルト。マフォクシーは何度も首を左右に振る。
「とんでもない。お前さんたちが味わった苦労に比べたら屁みたいなものだ。少し話が逸れたが……これだけは言わせてくれ」
そこで言葉を切った彼はベロベルトの背中に手を回し、
「よくぞ生き延びてくれた! お前さんたちと生きて再会できて嬉しいよ!」
肩に顔を埋めて力の限り抱きしめる。何もかもを暖かく包み込んでしまうフサフサの炎の体、そこはかとなく獣臭い毛皮の匂い。ベロベルトの涙腺が一気に緩む。
「うっ、ううっ……!」
ジャローダと交わした約束は早くも破られてしまうのだった。短い両腕で抱きしめ返した彼の頬を熱いものが伝い落ち始める。
「うん……! 生き延びたよ! 頑張って生き延びたんだ! 辛かった、ひもじかった……! 狩り場なんか滅茶苦茶にされて、持っている食べ物まで奪われて……!」
その先は言葉にならなかった。マフォクシーも同様に声を震わせる。
「あぁ、頑張ったとも! そんな逆境の中で進化したのが何よりの証拠だ! お前さんは世界で誰より逞しい男だよ!」
何度も頷くマフォクシー。やがて抱擁を解いた二匹は、涙の残る顔で笑い合うのだった。
再び優雅な時間を過ごし始めるベロベルト。何気なくカップを口に運んだ彼は、ふとマフォクシーの言葉を思い出す。
よくよく考えてみると、進化した理由が分からないままだった。毎日を頑張って生きてきたのは間違いなかったが、どの頑張りが進化に繋がったのか、オーダイルに支配されていなければ頑張るまでもなく進化できたのか、見当もつかないのである。
「ねぇ、レナードさん。ちょっと教えて欲しいんだけど」
「うん? なんだ?」
聞かぬは一生のなんとやら。彼は隣でちびちびと褐色の液体を飲んでいたマフォクシーに尋ねる。
「さっきの話だけど……オイラって食べ物が少ない環境だと進化するのが難しいの?」
「は……?」
今更にも程がある質問だった。目をパチクリさせたマフォクシーは怪訝そうな顔をする。
「いや、難しいもなにもだなぁ……お前さんが進化しようと思えば、転がるのに適した丸々と太った体になるしかないだろう? そのためには食って食いまくって脂肪をたっぷりと蓄えるしかないワケで、それを奴に支配されている状況で達成したから凄いって話になるんじゃないか」
溜め息を吐くマフォクシー。彼にとっては説明するのも馬鹿らしい内容だったが、
「……あぁっ! そういうことだったのか!」
ベロベルトにとっては違った。彼は目を見開く。
転がり移動を覚えること。それが進化の条件だったのである。山道を転がり落ちた時の記憶を蘇らせた彼は確信する。
「ちょ、ちょっと待て!? お前さん……まさか進化する方法を知らなかったとは言うまいな!?」
今度はマフォクシーが驚く番だった。彼が震える手でベロベルトを指差すと、
「うん、そのまさかだよ。実はワケも分からないまま進化しちゃったんだ。進化したのも今日だったりして!」
「はっ……はぁぁぁぁああああ!?」
頭の後ろに手を回したベロベルトは恥ずかしそうに舌を出すのだった。マフォクシーの絶叫が夜空に響き渡る。
「あぁっ、駄目だよ! そんな大きな声を出しちゃ! 彼女が起きちゃうじゃないか!」
「バカモン! 出さずにいられるか!」
口を塞ぎにきたベロベルトの手を払いのけて一喝するマフォクシー。どうやら深い眠りに落ちているらしい。幸いにもジャローダが目を覚ますことはなかった。
「食うにも困る状況だったのみならず、偶然に進化しただと? で、それが今日だっただと? ……ふん、どこの三流脚本家が書いたストーリーだ? お前さん、さては色々と盛っているな?」
「うーん、そう言われても……」
不幸なことに全て事実なので弁解の余地がなかった。鼻で笑われて渋い顔をするベロベルトだったが、
「うぅむ……かといって嘘を吐いているようにも見えんから弱ったものだ。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだな……」
それ以上に困ってしまったのは彼の方だった。両手で頭を抱え込むマフォクシー。しばらく悩んだ末、彼は最後の手段に訴えることを決意する。
「……えぇい! こうなったら奥の手だ!」
そう言って彼が腕の体毛の中から引っ張り出したのは、一本の木の枝だった。取り出すなり先端を手で擦って着火させた彼は、枝の炎をベロベルトの目の前に持っていく。
「えぇっと、レナードさん? 奥の手って……なにするつもり?」
「あぁ。これでお前さんの近況を見せてもらおうと思ってな。疑って悪いが協力してくれ。どうにも腑に落ちないんだ」
「あっ、なるほど……」
杖の先端で燃える炎を見つめて精神統一すると未来の出来事を見通せる――。それを聞いてマフォクシーの能力について思い出したベロベルトだったが、
「うん? 未来……?」
やがて首を傾げてしまう。彼の言葉の矛盾に気が付いたのだった。
「ちょっと待って? 近況ってことはオイラの過去だよね? 未来が見えたって仕方ないんじゃ?」
マフォクシーが待っていたのはその一言だった。彼はニッと白い歯を見せる。
「ふふっ、よくぞ覚えていてくれた! いい質問だ!」
枝の炎に手をかざすマフォクシー。彼はこう続ける。
「……やはり俺も狐だったワケだ。どうも歳を重ねる毎に妖力が増すようでなぁ。最近になって気が付いたんだが、未来に限らず、過去の出来事も見通せるようになっていたのさ」
「えっ、そりゃ凄い! どれくらい前までなら見えるの!?」
興味津々で尋ねるベロベルト。マフォクシーは視線を宙に泳がせる。
「そうだな……まぁ、三日前までってところか」
十分だった。ベロベルトは大きく頷く。
「うん、バッチリだ! ……さぁ、そういうことなら早く! オイラが本当のことしか言っていないって分かるだろうからさ!」
自分自身を指差すベロベルト、
「よし! では見せてもらおう!」
そして静かに集中力を高めていくマフォクシー。彼の脳裏にベロベルトが見聞きした光景が次々と映し出されていく。
さながら相手の記憶が頭の中に流れ込んでくるかのような感覚だった。ものの数秒で追体験を終えた彼は、満ち足りた表情で枝の炎を吹き消す。
「……こいつは疑って悪かった! 二度と嘘つき呼ばわりしないと誓うよ!」
「あぁ、よかった! 信じてもらえた!」
ホッと息を吐くベロベルト。木の枝を腕の体毛の中に戻したマフォクシーの顔に意地悪な笑みが浮かぶ。
「お前さんより一回りも若い夫婦をウンコにするとは粋なことをしたもんだ! この薄情者め!」
「もぉ、言わないでよ……。わざとやったワケじゃないんだからさぁ……」
脇腹を肘で小突かれたベロベルトは恥ずかしそうにする。
「ははっ、冗談だ! ……で、どうだった? 食べてみての感想は?」
小声で尋ねるマフォクシー。ベロベルトはポンポンと腹を叩く。
「むふふっ! とっても柔らかくって最高でした! ボリュームも満点で文句なし! ベロベルトになれたワケだよ!」
「ははっ、そりゃ違いない! ……改めてお祝いの言葉を述べさせてもらうよ! 進化おめでとう!」
割れんばかりの拍手を送るマフォクシー。ベロベルトは照れ臭そうに笑うのだった。
もう一つ重要な情報があった。マフォクシーは話題を転換する。
「……それはそうと、だ。まさか奴の魔の手から近所の子供たちまで救い出してくれていたとは。お前さんには本当に頭が上がらないよ」
「えっ、近所だって? もしかして二匹のこと知っているの?」
二匹とはリオルと真っ白いロコンのことだった。目をパチクリさせるベロベルト。マフォクシーは胸の前で手を広げてみせる。
「知っているもなにも。俺の店の斜向かいにある施設で暮らしている子供たちさ。炊き出しで料理を振る舞いに行く度に会うから顔はよく知っているよ。……ここまで聞いていれば察しは付くだろうが、いわゆる恵まれない子供たちでなぁ。真っ白いロコンに関して言えば、野生での暮らしに耐えかねて街へ移り住んできた面々の一匹だったのさ」
「えっ、ちょっと待って? 一匹って……そんな子が他にもいるってこと?」
マフォクシーの顔に落ち込んだ表情が浮かぶ。
「……あぁ、残念ながら。それも大勢いる。少し前までは考えられなかったんだがなぁ」
小瓶を口に運びつつ深い溜息を漏らすマフォクシー。かなり酔いが回ってきているらしい。独特の芳香がベロベルトの鼻を突く。
「そんな、どうして……」
数もさることながら、野生で暮らす一匹として嘆かわしく思わずにはいられなかった。ベロベルトは項垂れてしまう。
「色々あるようだが、最大の理由は自然災害だ。ここ最近、どこもかしこも干ばつだの大雨だの洪水だの暴風だの、異常気象だらけでな。それで住処を失って生活が成り立たなくなってしまう奴らが後を絶たないのさ」
「それで助けを求めて街まで逃げてくるんだね?」
「そうだ。少なくとも身の安全は保障されるからな。誰だって命は惜しいさ」
焚き火の世話をしながら淡々と返すマフォクシー。真っ赤になった枝を素手で掴んでも涼しい顔だった。
「あーあ、みんな甘っちょろいなぁ。オイラの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい気分だよ」
頭の後ろで手を組んだベロベルトは軽蔑の表情を浮かべる。
「……ふぅん? そうか、分かった。これからは仮にお前さんが目の前でくたばりかけていたとしても、なにもせず野垂れ死ぬままにしてやろう。親友を見捨てるのは心苦しいが、お前さんの意思だ。尊重せねばなるまい?」
「えっ、それは流石にちょっと……」
注がれたのは冷たい視線だった。思わぬ形で急所を突かれた彼は返答に窮してしまう。
「ほれみろ、結局そうなるだろう? ……お前さんが言いかけたことが全てだ。彼らを咎める資格なんて誰にもないのさ」
ベロベルトの鼻を指差して諭すように言うマフォクシー。ちょっと己惚れが過ぎていたかもしれない。この三日間を振り返った彼は素直に反省するのだった。
「ねぇ、レナードさん。話の続きだけど……その子たちって今どんな感じなの? みんな幸せに過ごせているのかい?」
万一の場合に備えて知っておきたかった。ベロベルトは質問する。
「そうだ……と言いたいところだが、言えないのが現状だ。食う寝るところに住むところの確保が一段落して、今は街で生活するのに必要な知識や技能を伝授していっているところなんだが……一朝一夕で身につくようなものじゃないし、全員を広場に集めてレクチャーできるようなものでもない。となると順番待ちになるワケだが、その間に何かする事があるかと言えば何もない。あるとすれば、ただ起きて、食べて、寝るだけ。何をするでもない日々が続いてしまっているんだ」
野生の習慣が抜けきっていない連中を外出させるワケにもいかんからな。心の中で付け加えた彼は、浮かない表情で小瓶の中身を口に含む。
「わぁ、いいなぁ! 起きて、食べて、寝るだけなんて最高じゃないか!」
怠惰の権化にとっては極楽も同然の毎日だった。羨望の念を隠さないベロベルト。そんな彼にマフォクシーの冷ややかな視線が突き刺さる。
「たわけ、お前さんと一緒にするな。……それが大多数にとってはストレス以外の何物でもないんだ。先行きは見えず、出口も分からず、ただ時間だけが過ぎていく。想像を絶する苦痛だよ。それが原因で精神を病んでしまう奴も後を絶たなくてなぁ。対応に苦慮しているんだ」
「うーん、色々と大変なんだねぇ……」
そう言われては考えを改めざるを得なかった。腕組みをしたベロベルトの眉間に深い皺が刻まれる。
「あぁ、歯痒い話ばかりさ。なにしろ数が数だ。とてもじゃないが手が回らんよ」
苛立った様子で本音を吐露するマフォクシー。受け入れる側にも限界があるのだった。
「ゆくゆくは自立してもらいたいところだが、この調子だと相当な時間が掛かるだろう。それまで誰の負担で養うことになるかといえば街の住民だ。それに不満を抱く住民も増えている。外から避難者が入ってこられないよう、街全体を壁で囲ってしまえと言い出す連中まで現れる始末さ」
そう口にして真っ先に思い浮かぶのは、街の有力者の一匹であるデカグースの顔だった。土地転がしで莫大な富を築き上げた彼だったが、持っていた土地の多くを避難者の居住地として供出させられたのが気に食わなかったらしい。その日を境に避難者の受け入れに強く反発するようになり、遂には壁の建設まで主張するに至ったのだった。そんな彼のルーツを辿ると、野生での暮らしに嫌気がさして街へ転がり込んできた祖先に行き着くというのは皮肉でしかなかった。
「はっきり言って彼らを取り巻く環境は厳しい。俺たちが万歳するのが先か、彼らが街に馴染むのが先か……こればかりは占う気が起こらないよ」
傍らに積んであった枝の一本を手に取ったマフォクシーは、その先端に火を灯すことなく、燃え盛る焚き火の中へと放り込む。
苦難から逃げ出しても別の苦難が待ち受けるだけ。ベロベルトは厳しい現実を思い知らされるのだった。
「この辺にしておこう。辛気臭い話ですまなかった。……ほれ、そんな景気の悪い顔をしている暇があったら飲め」
木の実ジュースで満たされたカップを顎でしゃくるマフォクシー。なぜか無性に喉が渇いてならなかった。促されるままカップを手に取ったベロベルトは、それを一口で飲み干してしまう。
「詳しく教えてくれてありがとう。……そっかぁ、険しい道のりなんだねぇ。こうしちゃいられない、オイラも頑張らないと!」
星空を見上げて決意を新たにするベロベルト。横で見ていたマフォクシーは呆れ笑いを浮かべずにいられない。
「おいおい、そりゃ俺のセリフだ。お前さんは何も余計な心配をせず伸び伸びと暮らしていれば良いのさ。それこそ野生に生きる者の本来あるべき姿なんだからな」
真に理想的な解決策は元どおりの生活を取り戻してもらうこと。長らく避難者に寄り添い続けてきた彼が最終的に行き着いた唯一の結論だった。
「えぇっと……うん。まぁ、そりゃそうなんだろうけど、そういう意味で言ったんじゃなくってね」
そういえばレナードさんには話していなかったっけ。彼は気恥ずかしそうに続ける。
「オイラには……夢があるんだ」
マフォクシーの大きな耳がピクリと揺れる。
「夢……? どんな夢だ? よかったら聞かせてくれないか?」
望むところだった。はにかみながらも大きく頷いた彼は、意気揚々と語り始める。
「オイラ、いま住んでいる洞窟の裏山に果樹園を作っているんだ。あの時みたく、冬の蓄えに困って苦しむことが二度とないように、実のなる木の種を色々と植えては育てているのさ」
あの時――大凶作で冬の只中に蓄えが底をつき、飢えと寒さで動けなくなっていたところを目の前のマフォクシーに助けてもらった時だった。ベロベルトは恥ずかしそうに笑う。
「ふふん、それは殊勝な心がけだな。しかし、こんな痩せた土じゃ大変だろう。肥料は何を使っている?」
鼻を鳴らすマフォクシー。もう答えは分かっているようだった。目を伏せた彼はポッと頬を赤らめる。
「えへへっ、もちろんオイラのウンチさ!」
「なるほど。大きく育つこと請け合いだな!」
「うん、まぁね! ……その果樹園を広げていきたい。野を越え、山を越え、谷を越えて……いつかは実のなる木で森を埋め尽くすんだ。食べ物を求めて放浪することも、空腹で倒れることもない、誰もがお腹いっぱい食べられて幸せに過ごせる世界を作り上げるんだ!」
気付けば腰を上げて拳を掲げていた。過酷な弱肉強食の世界を生き抜いてきた彼が望むのは――誰もが満腹して心安らかに暮らせる理想郷だった。
「レナードさんの話を聞いてイメージが膨らんだよ。街に逃れてきた子たちだけど、オイラの夢が軌道に乗ったら森に移り住めばいいのさ。その頃にはオイラ一匹じゃ世話しきれないほど広い果樹園になっているだろうからね。一緒に汗を流して、美味しいご飯を食べて、見渡す限りの大自然の中で暮らすんだ。街で肩身の狭い思いをしながら生活するより楽しいに決まっているよ。街の住民だって迷惑しなくて済む。いいことだらけさ!」
演説を終えて拳を下ろすベロベルト。後ろを振り返った彼は口笛と拍手で迎えられる。
「素晴らしい! 名案中の名案だ! これなら街の住民と避難者の間に軋轢も生まずに済む!」
マフォクシーは思わず立ち上がる。
「気に入った! 立派な夢じゃないか! 何か手伝えることがあったら言ってくれ! 全力で応援させてもらうよ!」
ベロベルトの両手を取るマフォクシー。嬉しい言葉の数々に喜びを爆発させた彼は、マフォクシーの手を握ったまま小躍りを始める。
「やったぁ! レナードさんが仲間になってくれた! ありがとう! 次に会う時までに考えておくよ!」
今からでも取り組めることがあるかもしれない。言うなり頭を働かせ始めた彼だったが――すぐに目の前に立ちはだかる高い壁の存在に気付かされる。
「うっ……」
表情を曇らせるベロベルト。さながら風船から空気が抜けたようだった。みるみるうちに元気を失っていった彼は、元座っていた石の椅子に崩れ落ちるかのように腰を下ろす。
「ははっ、どうした。急に情けない顔して。それじゃ夢に逃げられちまうぞ?」
呆れ笑いを浮かべるマフォクシー。丸々と膨らんだお腹に視線を落としたベロベルトは深い溜め息を漏らす。
「いやね、どうやって収穫の秋まで食い繋ごうかと思ってさ。こんな巨体になっちゃったんだ。今までの数倍は食べなきゃ足りないに違いないよ。彼女は光合成できるから何とかなるだろうけど、オイラは食べるしかないからねぇ……」
「なぁんだ、そんなことか」
彼はムッとした顔を向ける。
「そんなことってなんだい。こっちは本気で悩んでいるのにさ」
「そうカッカしなさんな。……やれやれ、まさか言ったそばから手伝う羽目になるとは!」
どかりと隣に座るマフォクシー。ベロベルトは目を丸くする。
「えっ、何か秘策でもあるの、レナードさん?」
マフォクシーの顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「もちろん! 熱い夢を聞かせてくれた礼だ。お前さんに美味い話を教えてやろう!」
そう言って腕の体毛の中から木の枝を取り出すも、今度は占いが目的ではなかった。上半身を屈め、手にした枝で地面に次々と曲がりくねった線を描いていくマフォクシー。何を描いているかは誰よりもベロベルトがよく知っていた。
「……いま俺達がいるのはここで、湖がこれ。で、さっきの話にあった裏山がこれだ。お前さんに伝えたいのはこの場所。見てのとおり最後は道なき道を進むことになる。歩いて行くには遠いから転がって行くといい。半日もあれば着くだろう」
一つずつ木の枝で指し示しながら説明するマフォクシー。彼がバツ印を付けたのは、ベロベルトでさえ一度も足を運んだことのない森の奥の辺鄙な場所だった。
「うぅんと……ここに秘策があるんだね?」
地図を見つめて訝しげに尋ねるベロベルト。マフォクシーは大きく首を縦に振る。
「うむ。とある商売に勤しむ一家が住んでいる屋敷があるんだ。腹を満たすのにピッタリだろう?」
「へっ……?」
ケロリとした顔で言い放つマフォクシー。喜びと興奮より先に覚えたのは動揺だった。彼は目を点にする。
「ちょ、ちょっと待って? それは……ひょっとして、オイラに屋敷の一家をゴハンにしろって意味で言っているの?」
「もちろん! 他に何がある?」
即答だった。ベロベルトは反応に困ってしまう。
「えっ、えーっと……、レナードさん? その、お肉をいっぱい食べられるワケだから、とっても嬉しいのは嬉しいんだけど……いくらなんでもノリが軽すぎやしないかい? 商売に勤しんでいるってことは、野生の個体じゃないんでしょ? だから広い意味ではレナードさんの仲間にあたると思うんだけど、それを餌扱いって……ちょっとマズくない? 本当に行って食べちゃっていいの?」
「構わん。あんな奴らが俺の仲間なものか。遠慮なくウンコにしてしまえ」
「えぇ……」
返ってきたのは身も蓋もない言葉だった。ベロベルトの全身からドッと脂汗が噴き出す。
「ぼっ、ボロクソすぎて引いちゃうんだけど……その一家に何か酷いことでもされたの?」
でなければ付き合い方を考え直すしかなかった。ベロベルトは恐る恐る尋ねる。
「あぁ、されたとも……!」
握りしめた拳を震わせるマフォクシー。その顔は激しい怒りで歪んでいた。もう片方の手に持つ木の枝の先端が自然に燃え上がる。
「こいつらは違法伐採者だ」
「イホウ……バッサイシャ……?」
不穏な響きしかない言葉だった。ベロベルトの頬を冷たい汗が流れ落ちる。
「誰の許可も得ずに切った木を売り捌いて荒稼ぎしている連中のことだ。林の一つや二つくらい序の口で、森なんかも平気で全部切り倒して金に換えちまう。とんでもない奴らさ」
「もっ……森を全部だってぇ!?」
開いた口が塞がらなかった。彼は危うく顎を外しそうになる。
「こっ、困るよ、そんなの! オイラ達の住む場所と食べ物がなくなっちゃうじゃないか!」
頬を膨らませて不満を露わにするベロベルト。下を向いたマフォクシーは深い溜め息を吐く。
「お前さんたちのことが少しでも頭にあったら、こんな恐ろしい所業に手を染めたりせんよ。自分たちさえ良ければ、他の連中がどうなろうと知ったことではないのだろうさ」
「なっ、なんて奴らだ、許せない……!」
少しでも可哀想に思ってしまった自分が馬鹿らしかった。地面のバツ印を睨んだ彼は、全身をプルプルと戦慄かせる。
「怒って当然だ。こいつらにどれだけ街の住民を殺されたことか……!」
文字どおり憤怒の炎を燃えたぎらせるマフォクシー。彼は驚いた表情を向ける。
「えっ、どういうこと? なんで街に住んでいる子が死んじゃうのさ? 街は関係なくない?」
「それが関係あるのさ。去年の秋前に大陸を襲った嵐を覚えているか?」
「うん、それは覚えているけど……?」
果樹園の収穫を根こそぎ奪い去っていった嵐である。忘れる筈がなかった。ベロベルトは即座に頷く。
「その嵐が去った翌朝に街を鉄砲水が襲ったんだ。突然の出来事だったから逃げる暇もなかったんだろう。川の近くに住んでいた奴らが何匹も流されてしまってなぁ。住民総出で探しはしたが……生きて助けられたのは俺の両手で数えられるほど。他の奴らは見つからずじまい。もう海の底でサメハダーの餌になった後だろう」
あまりのショッキングさに硬直してしまうベロベルト。そこまで話し終えたマフォクシーはベロベルトの顔を見つめる。
「さて、ここで一つ質問だ。確かに大きな嵐だったが、実を言うと、あの程度の嵐なら街は何度も経験している。しかし、鉄砲水が街に押し寄せたのは今回が初めてだった。どうしてだと思う?」
手の甲に顎を乗せながら意味深な視線を送るマフォクシー。話の流れから考えて答えは一つだった。
「まっ、まさか……」
息を呑むベロベルト。マフォクシーは大きく頷いてみせる。
「そう、そのまさかだった。どう考えても変だということで、街を流れる川の上流に探検隊を送って調べさせたら……案の定だった。奴らめ、川の源流がある山の一つを禿山に変えてやがった。街を水害から守ってくれていた天然のダムを根こそぎ切り倒して売り飛ばしていたんだ。それも誰の断りも得ることなく!」
ここでも地図が大活躍だった。彼は問題の現場を枝の炎で明るく照らし出す。
「酷い……。こんなの酷すぎるよ……」
「そういうことだ。……どうだい、気は変わったか?」
グッと顔を近づけて耳元で囁くマフォクシー。もはや迷いはなかった。ベロベルトは違法伐採者の一家を捕食することを決意する。
「もちろん! 一匹残らずウンチにしてやるんだから! ……貴重な情報をありがとう、レナードさん!」
差し出された手を握り返したマフォクシーの顔に会心の笑みが浮かぶ。
「ふふっ、決まりだな! とびっきり臭いウンコにして尻穴からひり出してやれ! ……そして、どういたしまして! 今すぐ行っても構わんが、次の満月の日の夕方に行くといい。豪華な料理を作ってパーティを開くつもりでいるようだからな」
これくらい枝の炎の力を借りれば朝飯前だった。自信たっぷりに話すマフォクシー。ベロベルトは歓声を上げる。
「わぁ、そりゃ楽しみ! 一度で二度おいしくって最高じゃないか! 次の満月の日ということは……来週の今日だね! よし、覚えたぞ!」
西の空に沈みつつあった上弦の月を見つめるベロベルト。そこで彼は肝心なことを思い出す。
「あ、そうだ。……ねぇねぇ、レナードさん。その一家って美味しそうな子ばかりなの? もし知っていたら教えてくれない? お願い! このとおり!」
両手を合わせて頭を下げるベロベルト。マフォクシーはふふんと鼻を鳴らす。
「おや、気になるか。それは行ってみてのお楽しみ……と言いたいところだが、今回は特別に教えてやろう。よく見ておけ!」
本領発揮だった。燃える枝の先を見つめて集中するマフォクシー。怪しく揺らめく炎のスクリーンに一軒の家が映し出される。
「すっ、凄い……! こんなにも綺麗に見えるなんて……!」
その鮮明さに息を呑むベロベルト。彼の目の前に現れたのは、鬱蒼と生い茂る緑深い木々の中にポツンと佇む、三角屋根から飛び出したレンガの煙突が特徴的な、二階建ての立派な丸太小屋だった。
「えぇっと、中も見せてもらっていい?」
「もちろん! ……ふんっ!」
待っていたとばかりに集中力を極限まで高めるマフォクシー。その次の瞬間――丸太小屋の壁という壁が透けて屋内が丸見えになる。
「おっ……おほぉっ!」
露わになったのは魅惑の光景だった。ベロベルトは鼻息を荒くする。
食堂の長机の上にズラリと並ぶ贅を尽くした料理の数々。その長机を囲む椅子に座りながら宴の始まりを待ちわびるシャワーズ、リーフィア、グレイシア、ニンフィア。暖炉の前で最後の一品の焼き加減を見守るブースター。二階の寝室で昼寝をするサンダース。自身の体重と同じくらいの量の肉、それも最高の栄養価を誇る獣肉で胃袋を満たせることを知った彼は、涎を垂らさずにはいられない。
「はい、おしまい。すまんが続きは自分の目で確かめてくれ」
そこでフッと枝の火を吹き消し、枝を腕の体毛の中に戻すマフォクシー。ベロベルトは首を何度も左右に振るう。
「いやいや、もう十分! ありがとう! ……それにしても、よくこんなの見つけたね? ずっと森で暮らしているオイラですら知らなかったのに。レナードさんったら凄いよ!」
賞賛されるも素直には喜べなかった。彼は恥ずかしそうにする。
「ふふっ、実は俺が見つけたワケじゃないんだ。先週だったか。店に警察の連中が飲みにきてな。そいつらの話を盗み聞きして知ったのさ」
ピンと立った長い耳を指差してみせるマフォクシー。ベロベルトは吹き出してしまう。
「ごめん、やっぱり今のなし。レナードさんったら悪い狐だよ」
「ふふん、そんなの酔った拍子に捜査の話をする奴が悪いのさ。それも誰にでも聞こえるような大声でなぁ。お陰で聞き耳を立てるまでもなかったよ」
「わ、笑えない……」
もし悪い奴らに聞かれたらどうするつもりだったのだろう? ベロベルトの背筋を冷たいものが伝う。
「なるほどね。お巡りさんが最初に見つけたのか。ということは……マズいなぁ。先を越されたら終わりじゃないか。早く行かないと」
「心配無用だ。焦らないで次の満月の日に行くといい。先なんか越されるものか」
「ええっ? どうして言いきれるのさ?」
疑問の目を向けるベロベルト。自信たっぷりに答えたマフォクシーは呆れた顔をする。
「なんだ、気絶したら忘れてしまったのか。……言っただろう? そいつに大勢の警官が殺されたって。早い話が、奴らを簡単に捕まえてしまえる熟練の隊員が残っていないのさ」
「なるほど……」
ベロベルトは顎でしゃくられた自身の腹に視線を落とす。
「そういうこと。少なくとも経験の浅い隊員には任せない方がいい案件だ。返り討ちにされて森に埋められるのがオチだからな」
涼しい顔で言うマフォクシー。ベロベルトは青い顔をする。
「げっ、お巡りさんでも平気で殺すの、そいつら?」
「あぁ、躊躇なく殺すぞ? お前さんにとっては餌も同然の相手だろうが、油断は禁物だ。いいな?」
「わっ、分かった! 気を付けるよ!」
その言葉にマフォクシーは満足そうに頷くのだった。
「結構。用心さえしていれば大丈夫だ。食って食いまくってやれ!」
「もちろん! ……よぉし! 今度の満月の夜は食べて食べまくるぞぉ!」
舌なめずりして両拳を天に突き上げたベロベルトだったが、
「あっ……」
直後、またしても不安に襲われてしまう。表情の変化に気付いたマフォクシーの口から笑い声が漏れる。
「今度はどうした? 狐につままれたような顔しやがって。……まったく! 前にも増して無駄のない引き締まった体になったもんだ!」
お腹の分厚い贅肉をギュッと鷲掴みにされるも、気の利いたリアクションを取る余裕はなかった。たまらずマフォクシーの肩に縋りついた彼は、上ずった声で切り出す。
「ね……ねぇ、レナードさん? お巡りさんと言えばなんだけど……オイラも見つかったら捕まっちゃうんだよね?」
「は? なんのことだ?」
呆気に取られた顔をするマフォクシー。ベロベルトは困惑してしまう。
「な、なにって……森に足を踏み入れてきた子を食べることに決まっているじゃないか。それも一度や二度の話じゃないってレナードさんも知っているでしょ? 食べる瞬間は誰にも見られないよう注意しているし、食べた子は丸ごとウンチになっちゃうから証拠も残らないけど、いつかどこかで気付かれるんじゃないかと思ってさ……」
オドオドした様子で辺りを見回すベロベルト。一瞬の沈黙の後――マフォクシーは腹を抱えて大爆笑し始める。
「もぉ、なんで笑うのさ!? オイラ真剣に悩んでいるんだけど!?」
怒りを露わにされるも笑いは抑えようがなかった。三本指の黒い足をバタつかせまくるマフォクシーの目尻に涙が浮かぶ。
「……あぁ! すまん、すまん! しかし、何を言い出すかと思えば、そんなことか!」
そんなこととは失礼な。ブスッとした顔でマフォクシーを睨んだベロベルトだったが、そんな彼に驚愕の事実が告げられる。
「安心しろ。その可能性は万に一つもない。野生で暮らす者が生きるために行う活動まで罪に問えないからだ。お前さんたちに街のルールは適用されないのさ」
まるで頭を引っ叩かれたかのような衝撃だった。彼は目を見開く。
「えぇっ!? そっ、それじゃあ……いったい誰が悪いことになるの!?」
「うーむ、良いとか悪いとかの話じゃないんだが……」
ポリポリと頭を掻いたマフォクシーは複雑そうな顔をする。
「まぁ……あえて言うなら、お前さんのウンコに化けてしまった奴ら自身か。知らなかった奴は論外として、それ相応のリスクがあることを承知で森に足を踏み入れているワケだ。自己責任と言わざるを得ないだろうな」
「ということは……オイラは捕まる心配をしなくていいってこと?」
マフォクシーは首を縦に振る。
「もちろん。だから、今ここで俺をペロリと平らげてしまったとしても、お前さんは何の罪にも問われずに済むということだ。もう歳だし、おまけに痩せっぽちだから魅力の欠片もないだろうが……こんな俺でも美味しく食べてくれるか?」
両手で胸を隠して恥ずかしそうにしてみせるマフォクシー。表情を強張らせたベロベルトは何度も首を左右に振るう。
「たっ、食べないよ! なんでそんなことしなきゃいけないのさ!? レナードさんはオイラの友達じゃないか!」
それを聞いたマフォクシーの顔に晴れやかな笑みが浮かぶ。
「ははっ、ありがとう! これからも仲良くやろうな! ……って、こら、抱きつくな! あと頬擦りするな! ……まったく! 暑苦しい野郎だ!」
そう言いながらも、まんざらでもない顔をした彼は、ぎっしりと脂肪が詰まったブヨブヨの巨体に全身を預けるのだった。
やがて抱擁を解いたベロベルトは大きく伸びをする。そろそろ眠くなってくる頃だった。石の椅子から降りた彼は背中を倒して仰向けになる。
「あぁ、安心した! これで熟睡できるよ! 今日はここで寝ちゃおうっと!」
「こらこら、食べてすぐ寝るとミルタンクになっちまうぞ?」
彼は舌を出してみせる。
「べー、だ! なったことないもん! ……そう固いこと言わずにレナードさんも寝転がっちゃいなよ。とっても綺麗に見えるからさ!」
「ははっ、それなら安心だ! ……よし、なら俺も少しだけ。見えるって何が見えるんだ?」
ベロベルトの隣に寝転がるマフォクシー。彼は黙って真上を指差す。
「おぉっ、これは……!」
マフォクシーは目を輝かせる。彼の視界いっぱいに飛び込んできたのは――夜空を埋め尽くす満天の星々だった。
「こいつは凄い! 夏の星座が全て見えるなんて!」
驚嘆の声を上げるマフォクシー。ベロベルトは得意げに笑う。
「そういうこと! 夜も明るい街じゃ見えないでしょ?」
「あぁ、ここまで美しい星空は初めて見る……!」
畏敬の念すら覚える光景だった。彼は興奮しきった声で呟く。
「ねっ? こんな綺麗な夜空だって独り占めできちゃうんだ。野生の世界も魅力的でしょ? だから……街での生活に疲れちゃったら、レナードさんもおいでよ。そして一緒に暮らそう。オイラ、彼女、そしてレナードさん。きっと最高のトリオになれる筈さ!」
ずっと秘めていた胸の内を打ち明けるベロベルト。なにしろ大勢の仲間を失ってしまったのである。その想いはひとしおだった。
「ははっ、揺さぶってくれるじゃないか。お前さんたちと一緒に、なぁ……」
両手を枕にし、足を組みながら思案するマフォクシー。仕事と趣味に没頭するあまり、家庭を疎かにしすぎた結果、妻子から三行半を突き付けられてしまった苦い過去を持つ彼にとっては悪くない話だった。しかし――
「分かった、よく考えておくよ。素敵な提案をありがとう!」
身を粉にして働いてくれている店の従業員たち、そして誰よりも、藁にも縋る思いで街に助けを求めてやって来る避難者たちを見捨てる訳にはいかないのである。喉まで出かかった本音を飲み込んだ彼は、そう言って回答を保留するのだった。
再び満点の星空に目をやる二匹。大パノラマに圧倒されたマフォクシーは思わず息を呑む。
「これぞ絶景だな。いつまでも見ていられるよ」
「うん、絶景だ……!」
彼にとっても決して見飽きることのない光景だった。大きく頷くベロベルト。その次の瞬間、マフォクシーは夜空の一点を指差す。
「おっ、流れ星だ!」
「えっ!? どこだい!?」
その方向に目をやるも時すでに遅し。とうに消え去ってしまった後だった。マフォクシーの白けた視線が突き刺さる。
「こら、お前さんが見落としてどうする。この森を果樹園に変えるという願い事があるんだろう? ボーっとするな、ボーっと!」
「えへへっ、ごめーん!」
ベロベルトはバツが悪そうに舌を出すのだった。
一心不乱に夜空を見つめるベロベルト。その瞬間は間もなく訪れる。
「あっ、見えた!」
闇夜を切り裂く一閃の光。目の錯覚などではなかった。彼は今度こそ流れ星を目撃する。
「おぉっ! また一つ!」
そして三本目。歓声を上げるマフォクシー。立て続けに四本目、五本目、六本目。もう数え切れなかった。快晴の夜空を流れ星が埋め尽くす。
「ははっ、傑作だ! これで俺たちの将来も安泰だろう。……なぁ!」
興奮のあまり上体を起こしたマフォクシーの目に飛び込んできたのは――大きな鼻提灯だった。たちまち彼は目を点にする。
「まったく! せっかくの感動が台無しじゃないか! どこまでマイペースな野郎なんだ!?」
その場に胡坐をかいて座り、腕組みをして、安らかな寝顔に向かって毒を吐くマフォクシー。が、それも束の間だった。彼の口元がフッと緩む。
「ま、それがお前さんの魅力でもあるんだけどな。つくづく憎めない奴だよ」
舌を出したまま爆睡するベロベルトの頭を撫でたマフォクシーは、残り少なくなった小瓶を手に取り、
「……大自然に乾杯!」
そして一気に飲み干す。程なくして酩酊状態に陥った彼は、空瓶を放り出して大の字で寝転がる。
「……げぇぇっぷ。あぁ、食いすぎた上に飲みすぎちまった。このまま俺も寝るとするかぁ。今日くらい物臭をしても罰は当たらないだろう!」
ゲップを漏らした彼は満天の星空に微笑みかけるのだった。
街の仲間と感動を共有するべく、その光景を確と目に焼き付けようとした彼だったが、落ちていく瞼には抗いようがなかった。それから数分後、彼もまた食いしん坊の怪獣の隣で大いびきをかき始めるのだった。
お尋ね者、生死を問わず、賞金一千万ポケドル、不死身の暴君――。街中の至る所に貼られていたものだから、かえって頭に残らなかったのかもしれない。その重要な一節を忘れたまま、彼はオーダイルが倒されたことを証明する物の何もかもを胃袋の中で溶かしてしまうのだった。
鼻の穴をひくつかせるベロベルト。彼の目を覚まさせたのは、どこからともなく漂ってきた美味しそうな香りだった。
「んぁ……あれっ? どうして仰向けになって……?」
匂いのする方を向こうとして気付いたのは、冷たい地面の感触だった。記憶の断片を繋ぎ合わせ始めるベロベルト。やがて彼は事の顛末を思い出す。
「そうだ、気持ち悪くなって気絶しちゃったんだっけ……」
一緒に倒れたジャローダの彼女、手伝う予定だったマフォクシーの猟夫のことが気がかりではあったが、まずは体を起こさねばならなかった。寝ぼけ眼を擦りながら大あくびするベロベルト。長座になって瞼を開けた瞬間に目に飛び込んできたのは――驚くべき光景だった。
「……へっ!? 嘘でしょ!? すっかり暗くなってる!?」
ポカンと口を開けて空を見上げるベロベルト。さっきまで空高く輝いていた筈の太陽は月に取って代わられ、すっかり夜の帳に包まれていたのである。
「にっ、二匹は!? まさか置いてきぼりにされて……?」
だとしても不思議ではないほどの時間が経過していた。彼は慌てて立ち上がって周囲を見回す。
「ううっ、暗くてよく見えないよ。というか、こんな場所で倒れた記憶ないぞ……?」
薄暗い中で目を凝らすも、見えてくるのは鬱蒼と生い茂る木々ばかり。熱中症になってしまうのを心配したマフォクシーが涼しい森の中まで運び込んだのが真相だったが、失神していた彼が覚えている筈もなかった。
「どっ、どうしよう……?」
頭を抱えてしゃがみ込んでしまうベロベルト。そんな彼の鼻孔を――
「うん? これは……?」
またしても良い匂いがくすぐる。肉の焼ける香ばしい匂いだった。同時に発生源まで突き止めた彼はすっくと立ち上がる。
「よし! こっちだ!」
安心した顔で一直線に歩き始めるベロベルト。雑草やら低木やらを大きな足で踏み潰し、邪魔な枝を長いベロで薙ぎ払い続けた先に見つけたのは――湖畔の一画で焚き火をするマフォクシーの姿だった。接近に気付いた彼は驚いた様子で立ち上がる。
「おぉ! 目を覚ましたか! 起こしに行く手間が省けたよ!」
「ごめんね、レナードさん。爆睡しちゃっていたみたいで……」
「なに、気にするな。俺ものんびりしていたところさ」
ペコリと頭を下げるもマフォクシーは笑顔だった。彼は褐色の液体が詰まった小瓶を揺らしてみせる。
「さぁ、立っていないで座ってくれ! もう焼き上がる頃だぞ!」
「うわぁぁぁ……!」
促されるまま石の椅子に腰かけるベロベルト。そこにあったのは夢のような光景だった。大きな葉っぱの上に山のように積み上げられた生肉。焚き火の周りで美味しそうな煙を上げる串刺しの細切れ肉。石を組んで作られたロースターの上でジュウジュウと音を立てる骨付き肉。食いしん坊の怪獣は目を輝かせずにはいられない。
「レッ、レナードさん!? これ……全部オイラが食べちゃっていいの!?」
「もちろんだ。お前さんが最後だからな。好きなだけ食え!」
肉の世話をしながら大きく頷いてみせるマフォクシー。最後と言われて思い出したのはジャローダの存在だった。ベロベルトは辺りをキョロキョロと見回す。
「そうだ、彼女は?」
「あそこだ。よく見てみろ」
マフォクシーは近くの木の上を指差す。
「えっ、どこ……って、あっ! いた!」
ほぼ完全な保護色だった。探すこと数秒あまり。彼は腹をパンパンに膨らませたジャローダの姿を発見する。久しぶりに満腹して不安も悩みも吹き飛んだのだろう。木の枝に全身を巻き付けて、静かに寝息を立てている最中だった。
「よかった。どこに行ったのかと!」
一安心するベロベルト。そんな彼に最初の一皿が差し出される。
「はいよ、お待ちどおさま! 焼き加減に不満があったら言ってくれ!」
「ひゃあ! こりゃ凄い!」
驚きのあまりに皿を取り落としそうになるベロベルト。皿の上に乗っていたのは、ミディアムレアに焼き上がった肉汁の滴る骨付き肉だった。
「少し待て、いまナイフとフォークを……」
「いっただっきまぁぁす!」
言いかけるも時すでに遅かった。ぐるりと長い舌で一巻きにして口の中に引きずり込んでしまうベロベルト。昨日までなら食べるのに四苦八苦したであろう巨大な肉の塊も一口だった。
用意する必要はなかったな。伸ばしかけた手を引っ込めたマフォクシーの顔に呆れ笑いが浮かぶ。
「……んんっ! んんんっ!」
口いっぱいに頬張った御馳走をクチャクチャと咀嚼しながら恍惚の表情を浮かべるベロベルト。さっきまで筋肉の塊の一部だったとは思えないほどの柔らかさとジューシーさだった。舌の上で転がせばホロリと繊維がほぐれ、凝縮された旨味が口の中いっぱいに溢れ出す。心ゆくまで堪能して――
ゴックン!
呑み下したら夢心地だった。感嘆の呻き声を漏らした彼は両頬に手を当てる。
「おっ、おいしぃぃぃぃぃぃっ! ……レナードさん、これって本当にアイツの肉かい!? なにか特別な下ごしらえでもした!?」
「いいや。筋を切って、味付けに塩をまぶしたくらいだ。なにか気になることでも?」
ロースターの肉をひっくり返しながら答えるマフォクシー。ベロベルトは自分の口を指差す。
「ベロの上で溶けてなくなっちゃったんだ! こんな食感は初めてだよ!」
マフォクシーは拍子抜けした顔をする。
「なんだ、そういうことか。……そいつは下ごしらえ云々の話じゃない。お前さんの唾液の話だ」
「えっ? 唾液だって?」
驚いた顔で舌を垂らすベロベルト。同じポーズをしたマフォクシーは小さく頷く。
「そう、唾液だ。お前さんの唾液は強力な溶解液でなぁ。どんな物でも溶かしてしまうのさ。硬い岩ですら溶かしてしまうんだから、食べ物なんかイチコロだろう。綿菓子かチョコレートみたく溶けちまったんじゃないか?」
まさに言われたとおりの感覚だった。真顔で何度も頷くベロベルト。マフォクシーは呆れ笑いを浮かべる。
「ははっ、なんでお前さんが知らないんだ。……まぁいい。覚えておいて損はないから覚えておけ。丸呑みできない大きさの獲物も舐め溶かして胃袋に収めてしまえるから便利だぞ!?」
ペロペロキャンディを舐める仕草をするマフォクシー。目から鱗が落ちる思いだった。ベロベルトはポンと手を叩く。
「おぉっ、本当だ! そんなこともできちゃうのか! レナードさんったら頭いい!」
それと体の何倍もの長さまで伸びるベロがあれば怖いものなし。彼は大物との勝負に胸を躍らせるのだった。
「さぁ、お喋りは終わりだ! 肉が焦げちまう! どんどん食っていけ!」
「えへへっ! それじゃあ、遠慮なく! ……ベロォォォォォン!」
至福の時間の幕開けだった。会話を切り上げ、すっかり焼き上がった肉の塊を次々と皿に乗せていくマフォクシー。それをベロベルトは次々と舌で絡め取っては口の中に放り込んでいき、クチャクチャと咀嚼しては呑み下していく。
肉は当然のこと、一瞥しただけで失神してしまったモツも頬が落ちるほどの美味だった。それをどれだけ繰り返しただろうか。とうとう肉の山を平らげてしまった彼の元に、最後の一皿が運ばれてくる。
「ほれ、これで最後だ! 心して食うがいい!」
「ありゃ? まだあったんだ。……って、げぇっ!?」
たくさん食べてウトウトしていた彼の眠気を吹き飛ばすには十分すぎるインパクトだった。ベロベルトはひっくり返りそうになってしまう。
こんがり火が通っていても一目で分かった。三連のトサカ、大きな顎に鋭い牙。皿の上に乗っていたのは――オーダイルの頭の丸焼きだった。
「あぁ、びっくりした! 心臓が止まるかと思ったよ!」
「ははっ、だから言っただろう!? 心して食え、と!」
こりゃ一本取られたな。ベロベルトは天を仰ぐ。
「……うーん、こうして見ると大きいなぁ! おっ、流石はレナードさん! ちゃんとリンゴも咥えさせてある!」
皿ごと持ち上げて観察し始めるベロベルト。最初こそ驚きはしたが、こうして食べ物になってしまえばグロテスクともなんとも思わなかった。かぐわしい香りに食欲を刺激された彼は、ゴクンと生唾を飲み込む。
「それじゃあ……心して食べちゃおうか」
名残惜しさなど微塵も感じなかった。早々に観察を止めた彼は、丸焼きの頭を長い舌でグルグル巻きにし、
「じゃあね、バイバイ!」
バクンッ!
別れの挨拶を述べると同時に大口の中へ引きずり込み、舌の上で飴玉のように転がし始める。このまま舐め溶かすか、それとも丸呑みにするか。悩んだ末に選ばれたのは後者だった。ピタリと舌の動きを止めた彼は顔を上向け――
ゴックンチョ!
ネバネバの唾液でベトベトになったオーダイルの頭を呑み下す。ヌルリと食道を滑り降りた先にあったのは消化液の大海原。その中にドボンと落っこちたオーダイルの頭は、ボコボコと激しく泡立ちながら沈んでいき――あっという間に溶け尽くしてしまうのだった。
「……ゴェェェェェップ! あぁ、美味しかった! ごちそうさまでした!」
「その台詞はまだ早いぞ! そら、デザートだ!」
丸々と膨れ上がった腹を抱えて大きなゲップを漏らすベロベルト。そんな彼に無数の白い塊が突き刺さった木の枝が手渡される。
「やったぁ! マシュマロだ!」
狂喜乱舞するベロベルト。受け取るなり彼は焚き火で炙り始める。
「おっと、この前みたく台無しにするんじゃないぞ!」
「ははっ、大丈夫さ! 同じ轍は踏まないよ!」
焦がして炭にした経験から学んだだけあって慣れた手つきだった。炎の上でクルクルと枝を回した彼は、全てのマシュマロをキツネ色に焼き上げる。
「うん! 上手に焼けました!」
高々と掲げて叫んだら後は食べるだけ。ベロンと一舐めにすれば、濃厚な甘さが舌の上で糸を引く。
「ふわぁっ……! ベロが溶けちゃうぅ……!」
これぞ焚き火の醍醐味。ねっとりと粘る魔性の味に彼は頭をクラクラさせるのだった。
これにて今度こそ晩餐は終了。口周りの食べカスを長い舌で舐め取った彼は、マフォクシーに微笑みかける。
「レナードさん、ありがとう! ごちそうさまでした!」
「あぁ、おそまつさま! 満足いただけたようで何よりだ!」
食後の挨拶を交わし合えば長い夜が幕を開けた。マフォクシーは飲みかけの小瓶を、ベロベルトは食事中に何度もおかわりした木の実ジュースのカップを傾けつつ、闇夜に揺れる炎をじっと見つめ始める。
先に静寂を破ったのはマフォクシーだった。景気付けに小瓶の中身を呷った彼は重い口を開く。
「事情は全て彼女から聞かせてもらった。なんと言ってよいやら……本当に申し訳ないことをした。せめて、せめて時々でも様子を見に来てさえいれば、こんなことには……」
両手で頭を抱えるマフォクシー。ベロベルトは怒ったような表情を浮かべる。
「なんで謝るのさ。レナードさんは何も悪いことしてないじゃないか」
手を降ろしたマフォクシーは小さく頷く。
「……ありがとう。実を言うと、お前さんたちと最後に会った後で空き巣に遭ってしまってなぁ。ほぼ全財産を盗まれてしまったんだ。店の経営も傾いてしまって、それこそ寝る間も惜しんで働かねば従業員の給料すら払えない有様だったから、お前さんたちどころではなくなってしまっていたんだ。どうか許してくれ」
「そっか、レナードさんも大変だったんだね……」
どうりで長らく見かけなかった訳である。深くうなだれるベロベルト。マフォクシーは何度も首を左右に振る。
「とんでもない。お前さんたちが味わった苦労に比べたら屁みたいなものだ。少し話が逸れたが……これだけは言わせてくれ」
そこで言葉を切った彼はベロベルトの背中に手を回し、
「よくぞ生き延びてくれた! お前さんたちと生きて再会できて嬉しいよ!」
肩に顔を埋めて力の限り抱きしめる。何もかもを暖かく包み込んでしまうフサフサの炎の体、そこはかとなく獣臭い毛皮の匂い。ベロベルトの涙腺が一気に緩む。
「うっ、ううっ……!」
ジャローダと交わした約束は早くも破られてしまうのだった。短い両腕で抱きしめ返した彼の頬を熱いものが伝い落ち始める。
「うん……! 生き延びたよ! 頑張って生き延びたんだ! 辛かった、ひもじかった……! 狩り場なんか滅茶苦茶にされて、持っている食べ物まで奪われて……!」
その先は言葉にならなかった。マフォクシーも同様に声を震わせる。
「あぁ、頑張ったとも! そんな逆境の中で進化したのが何よりの証拠だ! お前さんは世界で誰より逞しい男だよ!」
何度も頷くマフォクシー。やがて抱擁を解いた二匹は、涙の残る顔で笑い合うのだった。
再び優雅な時間を過ごし始めるベロベルト。何気なくカップを口に運んだ彼は、ふとマフォクシーの言葉を思い出す。
よくよく考えてみると、進化した理由が分からないままだった。毎日を頑張って生きてきたのは間違いなかったが、どの頑張りが進化に繋がったのか、オーダイルに支配されていなければ頑張るまでもなく進化できたのか、見当もつかないのである。
「ねぇ、レナードさん。ちょっと教えて欲しいんだけど」
「うん? なんだ?」
聞かぬは一生のなんとやら。彼は隣でちびちびと褐色の液体を飲んでいたマフォクシーに尋ねる。
「さっきの話だけど……オイラって食べ物が少ない環境だと進化するのが難しいの?」
「は……?」
今更にも程がある質問だった。目をパチクリさせたマフォクシーは怪訝そうな顔をする。
「いや、難しいもなにもだなぁ……お前さんが進化しようと思えば、転がるのに適した丸々と太った体になるしかないだろう? そのためには食って食いまくって脂肪をたっぷりと蓄えるしかないワケで、それを奴に支配されている状況で達成したから凄いって話になるんじゃないか」
溜め息を吐くマフォクシー。彼にとっては説明するのも馬鹿らしい内容だったが、
「……あぁっ! そういうことだったのか!」
ベロベルトにとっては違った。彼は目を見開く。
転がり移動を覚えること。それが進化の条件だったのである。山道を転がり落ちた時の記憶を蘇らせた彼は確信する。
「ちょ、ちょっと待て!? お前さん……まさか進化する方法を知らなかったとは言うまいな!?」
今度はマフォクシーが驚く番だった。彼が震える手でベロベルトを指差すと、
「うん、そのまさかだよ。実はワケも分からないまま進化しちゃったんだ。進化したのも今日だったりして!」
「はっ……はぁぁぁぁああああ!?」
頭の後ろに手を回したベロベルトは恥ずかしそうに舌を出すのだった。マフォクシーの絶叫が夜空に響き渡る。
「あぁっ、駄目だよ! そんな大きな声を出しちゃ! 彼女が起きちゃうじゃないか!」
「バカモン! 出さずにいられるか!」
口を塞ぎにきたベロベルトの手を払いのけて一喝するマフォクシー。どうやら深い眠りに落ちているらしい。幸いにもジャローダが目を覚ますことはなかった。
「食うにも困る状況だったのみならず、偶然に進化しただと? で、それが今日だっただと? ……ふん、どこの三流脚本家が書いたストーリーだ? お前さん、さては色々と盛っているな?」
「うーん、そう言われても……」
不幸なことに全て事実なので弁解の余地がなかった。鼻で笑われて渋い顔をするベロベルトだったが、
「うぅむ……かといって嘘を吐いているようにも見えんから弱ったものだ。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだな……」
それ以上に困ってしまったのは彼の方だった。両手で頭を抱え込むマフォクシー。しばらく悩んだ末、彼は最後の手段に訴えることを決意する。
「……えぇい! こうなったら奥の手だ!」
そう言って彼が腕の体毛の中から引っ張り出したのは、一本の木の枝だった。取り出すなり先端を手で擦って着火させた彼は、枝の炎をベロベルトの目の前に持っていく。
「えぇっと、レナードさん? 奥の手って……なにするつもり?」
「あぁ。これでお前さんの近況を見せてもらおうと思ってな。疑って悪いが協力してくれ。どうにも腑に落ちないんだ」
「あっ、なるほど……」
杖の先端で燃える炎を見つめて精神統一すると未来の出来事を見通せる――。それを聞いてマフォクシーの能力について思い出したベロベルトだったが、
「うん? 未来……?」
やがて首を傾げてしまう。彼の言葉の矛盾に気が付いたのだった。
「ちょっと待って? 近況ってことはオイラの過去だよね? 未来が見えたって仕方ないんじゃ?」
マフォクシーが待っていたのはその一言だった。彼はニッと白い歯を見せる。
「ふふっ、よくぞ覚えていてくれた! いい質問だ!」
枝の炎に手をかざすマフォクシー。彼はこう続ける。
「……やはり俺も狐だったワケだ。どうも歳を重ねる毎に妖力が増すようでなぁ。最近になって気が付いたんだが、未来に限らず、過去の出来事も見通せるようになっていたのさ」
「えっ、そりゃ凄い! どれくらい前までなら見えるの!?」
興味津々で尋ねるベロベルト。マフォクシーは視線を宙に泳がせる。
「そうだな……まぁ、三日前までってところか」
十分だった。ベロベルトは大きく頷く。
「うん、バッチリだ! ……さぁ、そういうことなら早く! オイラが本当のことしか言っていないって分かるだろうからさ!」
自分自身を指差すベロベルト、
「よし! では見せてもらおう!」
そして静かに集中力を高めていくマフォクシー。彼の脳裏にベロベルトが見聞きした光景が次々と映し出されていく。
さながら相手の記憶が頭の中に流れ込んでくるかのような感覚だった。ものの数秒で追体験を終えた彼は、満ち足りた表情で枝の炎を吹き消す。
「……こいつは疑って悪かった! 二度と嘘つき呼ばわりしないと誓うよ!」
「あぁ、よかった! 信じてもらえた!」
ホッと息を吐くベロベルト。木の枝を腕の体毛の中に戻したマフォクシーの顔に意地悪な笑みが浮かぶ。
「お前さんより一回りも若い夫婦をウンコにするとは粋なことをしたもんだ! この薄情者め!」
「もぉ、言わないでよ……。わざとやったワケじゃないんだからさぁ……」
脇腹を肘で小突かれたベロベルトは恥ずかしそうにする。
「ははっ、冗談だ! ……で、どうだった? 食べてみての感想は?」
小声で尋ねるマフォクシー。ベロベルトはポンポンと腹を叩く。
「むふふっ! とっても柔らかくって最高でした! ボリュームも満点で文句なし! ベロベルトになれたワケだよ!」
「ははっ、そりゃ違いない! ……改めてお祝いの言葉を述べさせてもらうよ! 進化おめでとう!」
割れんばかりの拍手を送るマフォクシー。ベロベルトは照れ臭そうに笑うのだった。
もう一つ重要な情報があった。マフォクシーは話題を転換する。
「……それはそうと、だ。まさか奴の魔の手から近所の子供たちまで救い出してくれていたとは。お前さんには本当に頭が上がらないよ」
「えっ、近所だって? もしかして二匹のこと知っているの?」
二匹とはリオルと真っ白いロコンのことだった。目をパチクリさせるベロベルト。マフォクシーは胸の前で手を広げてみせる。
「知っているもなにも。俺の店の斜向かいにある施設で暮らしている子供たちさ。炊き出しで料理を振る舞いに行く度に会うから顔はよく知っているよ。……ここまで聞いていれば察しは付くだろうが、いわゆる恵まれない子供たちでなぁ。真っ白いロコンに関して言えば、野生での暮らしに耐えかねて街へ移り住んできた面々の一匹だったのさ」
「えっ、ちょっと待って? 一匹って……そんな子が他にもいるってこと?」
マフォクシーの顔に落ち込んだ表情が浮かぶ。
「……あぁ、残念ながら。それも大勢いる。少し前までは考えられなかったんだがなぁ」
小瓶を口に運びつつ深い溜息を漏らすマフォクシー。かなり酔いが回ってきているらしい。独特の芳香がベロベルトの鼻を突く。
「そんな、どうして……」
数もさることながら、野生で暮らす一匹として嘆かわしく思わずにはいられなかった。ベロベルトは項垂れてしまう。
「色々あるようだが、最大の理由は自然災害だ。ここ最近、どこもかしこも干ばつだの大雨だの洪水だの暴風だの、異常気象だらけでな。それで住処を失って生活が成り立たなくなってしまう奴らが後を絶たないのさ」
「それで助けを求めて街まで逃げてくるんだね?」
「そうだ。少なくとも身の安全は保障されるからな。誰だって命は惜しいさ」
焚き火の世話をしながら淡々と返すマフォクシー。真っ赤になった枝を素手で掴んでも涼しい顔だった。
「あーあ、みんな甘っちょろいなぁ。オイラの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい気分だよ」
頭の後ろで手を組んだベロベルトは軽蔑の表情を浮かべる。
「……ふぅん? そうか、分かった。これからは仮にお前さんが目の前でくたばりかけていたとしても、なにもせず野垂れ死ぬままにしてやろう。親友を見捨てるのは心苦しいが、お前さんの意思だ。尊重せねばなるまい?」
「えっ、それは流石にちょっと……」
注がれたのは冷たい視線だった。思わぬ形で急所を突かれた彼は返答に窮してしまう。
「ほれみろ、結局そうなるだろう? ……お前さんが言いかけたことが全てだ。彼らを咎める資格なんて誰にもないのさ」
ベロベルトの鼻を指差して諭すように言うマフォクシー。ちょっと己惚れが過ぎていたかもしれない。この三日間を振り返った彼は素直に反省するのだった。
「ねぇ、レナードさん。話の続きだけど……その子たちって今どんな感じなの? みんな幸せに過ごせているのかい?」
万一の場合に備えて知っておきたかった。ベロベルトは質問する。
「そうだ……と言いたいところだが、言えないのが現状だ。食う寝るところに住むところの確保が一段落して、今は街で生活するのに必要な知識や技能を伝授していっているところなんだが……一朝一夕で身につくようなものじゃないし、全員を広場に集めてレクチャーできるようなものでもない。となると順番待ちになるワケだが、その間に何かする事があるかと言えば何もない。あるとすれば、ただ起きて、食べて、寝るだけ。何をするでもない日々が続いてしまっているんだ」
野生の習慣が抜けきっていない連中を外出させるワケにもいかんからな。心の中で付け加えた彼は、浮かない表情で小瓶の中身を口に含む。
「わぁ、いいなぁ! 起きて、食べて、寝るだけなんて最高じゃないか!」
怠惰の権化にとっては極楽も同然の毎日だった。羨望の念を隠さないベロベルト。そんな彼にマフォクシーの冷ややかな視線が突き刺さる。
「たわけ、お前さんと一緒にするな。……それが大多数にとってはストレス以外の何物でもないんだ。先行きは見えず、出口も分からず、ただ時間だけが過ぎていく。想像を絶する苦痛だよ。それが原因で精神を病んでしまう奴も後を絶たなくてなぁ。対応に苦慮しているんだ」
「うーん、色々と大変なんだねぇ……」
そう言われては考えを改めざるを得なかった。腕組みをしたベロベルトの眉間に深い皺が刻まれる。
「あぁ、歯痒い話ばかりさ。なにしろ数が数だ。とてもじゃないが手が回らんよ」
苛立った様子で本音を吐露するマフォクシー。受け入れる側にも限界があるのだった。
「ゆくゆくは自立してもらいたいところだが、この調子だと相当な時間が掛かるだろう。それまで誰の負担で養うことになるかといえば街の住民だ。それに不満を抱く住民も増えている。外から避難者が入ってこられないよう、街全体を壁で囲ってしまえと言い出す連中まで現れる始末さ」
そう口にして真っ先に思い浮かぶのは、街の有力者の一匹であるデカグースの顔だった。土地転がしで莫大な富を築き上げた彼だったが、持っていた土地の多くを避難者の居住地として供出させられたのが気に食わなかったらしい。その日を境に避難者の受け入れに強く反発するようになり、遂には壁の建設まで主張するに至ったのだった。そんな彼のルーツを辿ると、野生での暮らしに嫌気がさして街へ転がり込んできた祖先に行き着くというのは皮肉でしかなかった。
「はっきり言って彼らを取り巻く環境は厳しい。俺たちが万歳するのが先か、彼らが街に馴染むのが先か……こればかりは占う気が起こらないよ」
傍らに積んであった枝の一本を手に取ったマフォクシーは、その先端に火を灯すことなく、燃え盛る焚き火の中へと放り込む。
苦難から逃げ出しても別の苦難が待ち受けるだけ。ベロベルトは厳しい現実を思い知らされるのだった。
「この辺にしておこう。辛気臭い話ですまなかった。……ほれ、そんな景気の悪い顔をしている暇があったら飲め」
木の実ジュースで満たされたカップを顎でしゃくるマフォクシー。なぜか無性に喉が渇いてならなかった。促されるままカップを手に取ったベロベルトは、それを一口で飲み干してしまう。
「詳しく教えてくれてありがとう。……そっかぁ、険しい道のりなんだねぇ。こうしちゃいられない、オイラも頑張らないと!」
星空を見上げて決意を新たにするベロベルト。横で見ていたマフォクシーは呆れ笑いを浮かべずにいられない。
「おいおい、そりゃ俺のセリフだ。お前さんは何も余計な心配をせず伸び伸びと暮らしていれば良いのさ。それこそ野生に生きる者の本来あるべき姿なんだからな」
真に理想的な解決策は元どおりの生活を取り戻してもらうこと。長らく避難者に寄り添い続けてきた彼が最終的に行き着いた唯一の結論だった。
「えぇっと……うん。まぁ、そりゃそうなんだろうけど、そういう意味で言ったんじゃなくってね」
そういえばレナードさんには話していなかったっけ。彼は気恥ずかしそうに続ける。
「オイラには……夢があるんだ」
マフォクシーの大きな耳がピクリと揺れる。
「夢……? どんな夢だ? よかったら聞かせてくれないか?」
望むところだった。はにかみながらも大きく頷いた彼は、意気揚々と語り始める。
「オイラ、いま住んでいる洞窟の裏山に果樹園を作っているんだ。あの時みたく、冬の蓄えに困って苦しむことが二度とないように、実のなる木の種を色々と植えては育てているのさ」
あの時――大凶作で冬の只中に蓄えが底をつき、飢えと寒さで動けなくなっていたところを目の前のマフォクシーに助けてもらった時だった。ベロベルトは恥ずかしそうに笑う。
「ふふん、それは殊勝な心がけだな。しかし、こんな痩せた土じゃ大変だろう。肥料は何を使っている?」
鼻を鳴らすマフォクシー。もう答えは分かっているようだった。目を伏せた彼はポッと頬を赤らめる。
「えへへっ、もちろんオイラのウンチさ!」
「なるほど。大きく育つこと請け合いだな!」
「うん、まぁね! ……その果樹園を広げていきたい。野を越え、山を越え、谷を越えて……いつかは実のなる木で森を埋め尽くすんだ。食べ物を求めて放浪することも、空腹で倒れることもない、誰もがお腹いっぱい食べられて幸せに過ごせる世界を作り上げるんだ!」
気付けば腰を上げて拳を掲げていた。過酷な弱肉強食の世界を生き抜いてきた彼が望むのは――誰もが満腹して心安らかに暮らせる理想郷だった。
「レナードさんの話を聞いてイメージが膨らんだよ。街に逃れてきた子たちだけど、オイラの夢が軌道に乗ったら森に移り住めばいいのさ。その頃にはオイラ一匹じゃ世話しきれないほど広い果樹園になっているだろうからね。一緒に汗を流して、美味しいご飯を食べて、見渡す限りの大自然の中で暮らすんだ。街で肩身の狭い思いをしながら生活するより楽しいに決まっているよ。街の住民だって迷惑しなくて済む。いいことだらけさ!」
演説を終えて拳を下ろすベロベルト。後ろを振り返った彼は口笛と拍手で迎えられる。
「素晴らしい! 名案中の名案だ! これなら街の住民と避難者の間に軋轢も生まずに済む!」
マフォクシーは思わず立ち上がる。
「気に入った! 立派な夢じゃないか! 何か手伝えることがあったら言ってくれ! 全力で応援させてもらうよ!」
ベロベルトの両手を取るマフォクシー。嬉しい言葉の数々に喜びを爆発させた彼は、マフォクシーの手を握ったまま小躍りを始める。
「やったぁ! レナードさんが仲間になってくれた! ありがとう! 次に会う時までに考えておくよ!」
今からでも取り組めることがあるかもしれない。言うなり頭を働かせ始めた彼だったが――すぐに目の前に立ちはだかる高い壁の存在に気付かされる。
「うっ……」
表情を曇らせるベロベルト。さながら風船から空気が抜けたようだった。みるみるうちに元気を失っていった彼は、元座っていた石の椅子に崩れ落ちるかのように腰を下ろす。
「ははっ、どうした。急に情けない顔して。それじゃ夢に逃げられちまうぞ?」
呆れ笑いを浮かべるマフォクシー。丸々と膨らんだお腹に視線を落としたベロベルトは深い溜め息を漏らす。
「いやね、どうやって収穫の秋まで食い繋ごうかと思ってさ。こんな巨体になっちゃったんだ。今までの数倍は食べなきゃ足りないに違いないよ。彼女は光合成できるから何とかなるだろうけど、オイラは食べるしかないからねぇ……」
「なぁんだ、そんなことか」
彼はムッとした顔を向ける。
「そんなことってなんだい。こっちは本気で悩んでいるのにさ」
「そうカッカしなさんな。……やれやれ、まさか言ったそばから手伝う羽目になるとは!」
どかりと隣に座るマフォクシー。ベロベルトは目を丸くする。
「えっ、何か秘策でもあるの、レナードさん?」
マフォクシーの顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「もちろん! 熱い夢を聞かせてくれた礼だ。お前さんに美味い話を教えてやろう!」
そう言って腕の体毛の中から木の枝を取り出すも、今度は占いが目的ではなかった。上半身を屈め、手にした枝で地面に次々と曲がりくねった線を描いていくマフォクシー。何を描いているかは誰よりもベロベルトがよく知っていた。
「……いま俺達がいるのはここで、湖がこれ。で、さっきの話にあった裏山がこれだ。お前さんに伝えたいのはこの場所。見てのとおり最後は道なき道を進むことになる。歩いて行くには遠いから転がって行くといい。半日もあれば着くだろう」
一つずつ木の枝で指し示しながら説明するマフォクシー。彼がバツ印を付けたのは、ベロベルトでさえ一度も足を運んだことのない森の奥の辺鄙な場所だった。
「うぅんと……ここに秘策があるんだね?」
地図を見つめて訝しげに尋ねるベロベルト。マフォクシーは大きく首を縦に振る。
「うむ。とある商売に勤しむ一家が住んでいる屋敷があるんだ。腹を満たすのにピッタリだろう?」
「へっ……?」
ケロリとした顔で言い放つマフォクシー。喜びと興奮より先に覚えたのは動揺だった。彼は目を点にする。
「ちょ、ちょっと待って? それは……ひょっとして、オイラに屋敷の一家をゴハンにしろって意味で言っているの?」
「もちろん! 他に何がある?」
即答だった。ベロベルトは反応に困ってしまう。
「えっ、えーっと……、レナードさん? その、お肉をいっぱい食べられるワケだから、とっても嬉しいのは嬉しいんだけど……いくらなんでもノリが軽すぎやしないかい? 商売に勤しんでいるってことは、野生の個体じゃないんでしょ? だから広い意味ではレナードさんの仲間にあたると思うんだけど、それを餌扱いって……ちょっとマズくない? 本当に行って食べちゃっていいの?」
「構わん。あんな奴らが俺の仲間なものか。遠慮なくウンコにしてしまえ」
「えぇ……」
返ってきたのは身も蓋もない言葉だった。ベロベルトの全身からドッと脂汗が噴き出す。
「ぼっ、ボロクソすぎて引いちゃうんだけど……その一家に何か酷いことでもされたの?」
でなければ付き合い方を考え直すしかなかった。ベロベルトは恐る恐る尋ねる。
「あぁ、されたとも……!」
握りしめた拳を震わせるマフォクシー。その顔は激しい怒りで歪んでいた。もう片方の手に持つ木の枝の先端が自然に燃え上がる。
「こいつらは違法伐採者だ」
「イホウ……バッサイシャ……?」
不穏な響きしかない言葉だった。ベロベルトの頬を冷たい汗が流れ落ちる。
「誰の許可も得ずに切った木を売り捌いて荒稼ぎしている連中のことだ。林の一つや二つくらい序の口で、森なんかも平気で全部切り倒して金に換えちまう。とんでもない奴らさ」
「もっ……森を全部だってぇ!?」
開いた口が塞がらなかった。彼は危うく顎を外しそうになる。
「こっ、困るよ、そんなの! オイラ達の住む場所と食べ物がなくなっちゃうじゃないか!」
頬を膨らませて不満を露わにするベロベルト。下を向いたマフォクシーは深い溜め息を吐く。
「お前さんたちのことが少しでも頭にあったら、こんな恐ろしい所業に手を染めたりせんよ。自分たちさえ良ければ、他の連中がどうなろうと知ったことではないのだろうさ」
「なっ、なんて奴らだ、許せない……!」
少しでも可哀想に思ってしまった自分が馬鹿らしかった。地面のバツ印を睨んだ彼は、全身をプルプルと戦慄かせる。
「怒って当然だ。こいつらにどれだけ街の住民を殺されたことか……!」
文字どおり憤怒の炎を燃えたぎらせるマフォクシー。彼は驚いた表情を向ける。
「えっ、どういうこと? なんで街に住んでいる子が死んじゃうのさ? 街は関係なくない?」
「それが関係あるのさ。去年の秋前に大陸を襲った嵐を覚えているか?」
「うん、それは覚えているけど……?」
果樹園の収穫を根こそぎ奪い去っていった嵐である。忘れる筈がなかった。ベロベルトは即座に頷く。
「その嵐が去った翌朝に街を鉄砲水が襲ったんだ。突然の出来事だったから逃げる暇もなかったんだろう。川の近くに住んでいた奴らが何匹も流されてしまってなぁ。住民総出で探しはしたが……生きて助けられたのは俺の両手で数えられるほど。他の奴らは見つからずじまい。もう海の底でサメハダーの餌になった後だろう」
あまりのショッキングさに硬直してしまうベロベルト。そこまで話し終えたマフォクシーはベロベルトの顔を見つめる。
「さて、ここで一つ質問だ。確かに大きな嵐だったが、実を言うと、あの程度の嵐なら街は何度も経験している。しかし、鉄砲水が街に押し寄せたのは今回が初めてだった。どうしてだと思う?」
手の甲に顎を乗せながら意味深な視線を送るマフォクシー。話の流れから考えて答えは一つだった。
「まっ、まさか……」
息を呑むベロベルト。マフォクシーは大きく頷いてみせる。
「そう、そのまさかだった。どう考えても変だということで、街を流れる川の上流に探検隊を送って調べさせたら……案の定だった。奴らめ、川の源流がある山の一つを禿山に変えてやがった。街を水害から守ってくれていた天然のダムを根こそぎ切り倒して売り飛ばしていたんだ。それも誰の断りも得ることなく!」
ここでも地図が大活躍だった。彼は問題の現場を枝の炎で明るく照らし出す。
「酷い……。こんなの酷すぎるよ……」
「そういうことだ。……どうだい、気は変わったか?」
グッと顔を近づけて耳元で囁くマフォクシー。もはや迷いはなかった。ベロベルトは違法伐採者の一家を捕食することを決意する。
「もちろん! 一匹残らずウンチにしてやるんだから! ……貴重な情報をありがとう、レナードさん!」
差し出された手を握り返したマフォクシーの顔に会心の笑みが浮かぶ。
「ふふっ、決まりだな! とびっきり臭いウンコにして尻穴からひり出してやれ! ……そして、どういたしまして! 今すぐ行っても構わんが、次の満月の日の夕方に行くといい。豪華な料理を作ってパーティを開くつもりでいるようだからな」
これくらい枝の炎の力を借りれば朝飯前だった。自信たっぷりに話すマフォクシー。ベロベルトは歓声を上げる。
「わぁ、そりゃ楽しみ! 一度で二度おいしくって最高じゃないか! 次の満月の日ということは……来週の今日だね! よし、覚えたぞ!」
西の空に沈みつつあった上弦の月を見つめるベロベルト。そこで彼は肝心なことを思い出す。
「あ、そうだ。……ねぇねぇ、レナードさん。その一家って美味しそうな子ばかりなの? もし知っていたら教えてくれない? お願い! このとおり!」
両手を合わせて頭を下げるベロベルト。マフォクシーはふふんと鼻を鳴らす。
「おや、気になるか。それは行ってみてのお楽しみ……と言いたいところだが、今回は特別に教えてやろう。よく見ておけ!」
本領発揮だった。燃える枝の先を見つめて集中するマフォクシー。怪しく揺らめく炎のスクリーンに一軒の家が映し出される。
「すっ、凄い……! こんなにも綺麗に見えるなんて……!」
その鮮明さに息を呑むベロベルト。彼の目の前に現れたのは、鬱蒼と生い茂る緑深い木々の中にポツンと佇む、三角屋根から飛び出したレンガの煙突が特徴的な、二階建ての立派な丸太小屋だった。
「えぇっと、中も見せてもらっていい?」
「もちろん! ……ふんっ!」
待っていたとばかりに集中力を極限まで高めるマフォクシー。その次の瞬間――丸太小屋の壁という壁が透けて屋内が丸見えになる。
「おっ……おほぉっ!」
露わになったのは魅惑の光景だった。ベロベルトは鼻息を荒くする。
食堂の長机の上にズラリと並ぶ贅を尽くした料理の数々。その長机を囲む椅子に座りながら宴の始まりを待ちわびるシャワーズ、リーフィア、グレイシア、ニンフィア。暖炉の前で最後の一品の焼き加減を見守るブースター。二階の寝室で昼寝をするサンダース。自身の体重と同じくらいの量の肉、それも最高の栄養価を誇る獣肉で胃袋を満たせることを知った彼は、涎を垂らさずにはいられない。
「はい、おしまい。すまんが続きは自分の目で確かめてくれ」
そこでフッと枝の火を吹き消し、枝を腕の体毛の中に戻すマフォクシー。ベロベルトは首を何度も左右に振るう。
「いやいや、もう十分! ありがとう! ……それにしても、よくこんなの見つけたね? ずっと森で暮らしているオイラですら知らなかったのに。レナードさんったら凄いよ!」
賞賛されるも素直には喜べなかった。彼は恥ずかしそうにする。
「ふふっ、実は俺が見つけたワケじゃないんだ。先週だったか。店に警察の連中が飲みにきてな。そいつらの話を盗み聞きして知ったのさ」
ピンと立った長い耳を指差してみせるマフォクシー。ベロベルトは吹き出してしまう。
「ごめん、やっぱり今のなし。レナードさんったら悪い狐だよ」
「ふふん、そんなの酔った拍子に捜査の話をする奴が悪いのさ。それも誰にでも聞こえるような大声でなぁ。お陰で聞き耳を立てるまでもなかったよ」
「わ、笑えない……」
もし悪い奴らに聞かれたらどうするつもりだったのだろう? ベロベルトの背筋を冷たいものが伝う。
「なるほどね。お巡りさんが最初に見つけたのか。ということは……マズいなぁ。先を越されたら終わりじゃないか。早く行かないと」
「心配無用だ。焦らないで次の満月の日に行くといい。先なんか越されるものか」
「ええっ? どうして言いきれるのさ?」
疑問の目を向けるベロベルト。自信たっぷりに答えたマフォクシーは呆れた顔をする。
「なんだ、気絶したら忘れてしまったのか。……言っただろう? そいつに大勢の警官が殺されたって。早い話が、奴らを簡単に捕まえてしまえる熟練の隊員が残っていないのさ」
「なるほど……」
ベロベルトは顎でしゃくられた自身の腹に視線を落とす。
「そういうこと。少なくとも経験の浅い隊員には任せない方がいい案件だ。返り討ちにされて森に埋められるのがオチだからな」
涼しい顔で言うマフォクシー。ベロベルトは青い顔をする。
「げっ、お巡りさんでも平気で殺すの、そいつら?」
「あぁ、躊躇なく殺すぞ? お前さんにとっては餌も同然の相手だろうが、油断は禁物だ。いいな?」
「わっ、分かった! 気を付けるよ!」
その言葉にマフォクシーは満足そうに頷くのだった。
「結構。用心さえしていれば大丈夫だ。食って食いまくってやれ!」
「もちろん! ……よぉし! 今度の満月の夜は食べて食べまくるぞぉ!」
舌なめずりして両拳を天に突き上げたベロベルトだったが、
「あっ……」
直後、またしても不安に襲われてしまう。表情の変化に気付いたマフォクシーの口から笑い声が漏れる。
「今度はどうした? 狐につままれたような顔しやがって。……まったく! 前にも増して無駄のない引き締まった体になったもんだ!」
お腹の分厚い贅肉をギュッと鷲掴みにされるも、気の利いたリアクションを取る余裕はなかった。たまらずマフォクシーの肩に縋りついた彼は、上ずった声で切り出す。
「ね……ねぇ、レナードさん? お巡りさんと言えばなんだけど……オイラも見つかったら捕まっちゃうんだよね?」
「は? なんのことだ?」
呆気に取られた顔をするマフォクシー。ベロベルトは困惑してしまう。
「な、なにって……森に足を踏み入れてきた子を食べることに決まっているじゃないか。それも一度や二度の話じゃないってレナードさんも知っているでしょ? 食べる瞬間は誰にも見られないよう注意しているし、食べた子は丸ごとウンチになっちゃうから証拠も残らないけど、いつかどこかで気付かれるんじゃないかと思ってさ……」
オドオドした様子で辺りを見回すベロベルト。一瞬の沈黙の後――マフォクシーは腹を抱えて大爆笑し始める。
「もぉ、なんで笑うのさ!? オイラ真剣に悩んでいるんだけど!?」
怒りを露わにされるも笑いは抑えようがなかった。三本指の黒い足をバタつかせまくるマフォクシーの目尻に涙が浮かぶ。
「……あぁ! すまん、すまん! しかし、何を言い出すかと思えば、そんなことか!」
そんなこととは失礼な。ブスッとした顔でマフォクシーを睨んだベロベルトだったが、そんな彼に驚愕の事実が告げられる。
「安心しろ。その可能性は万に一つもない。野生で暮らす者が生きるために行う活動まで罪に問えないからだ。お前さんたちに街のルールは適用されないのさ」
まるで頭を引っ叩かれたかのような衝撃だった。彼は目を見開く。
「えぇっ!? そっ、それじゃあ……いったい誰が悪いことになるの!?」
「うーむ、良いとか悪いとかの話じゃないんだが……」
ポリポリと頭を掻いたマフォクシーは複雑そうな顔をする。
「まぁ……あえて言うなら、お前さんのウンコに化けてしまった奴ら自身か。知らなかった奴は論外として、それ相応のリスクがあることを承知で森に足を踏み入れているワケだ。自己責任と言わざるを得ないだろうな」
「ということは……オイラは捕まる心配をしなくていいってこと?」
マフォクシーは首を縦に振る。
「もちろん。だから、今ここで俺をペロリと平らげてしまったとしても、お前さんは何の罪にも問われずに済むということだ。もう歳だし、おまけに痩せっぽちだから魅力の欠片もないだろうが……こんな俺でも美味しく食べてくれるか?」
両手で胸を隠して恥ずかしそうにしてみせるマフォクシー。表情を強張らせたベロベルトは何度も首を左右に振るう。
「たっ、食べないよ! なんでそんなことしなきゃいけないのさ!? レナードさんはオイラの友達じゃないか!」
それを聞いたマフォクシーの顔に晴れやかな笑みが浮かぶ。
「ははっ、ありがとう! これからも仲良くやろうな! ……って、こら、抱きつくな! あと頬擦りするな! ……まったく! 暑苦しい野郎だ!」
そう言いながらも、まんざらでもない顔をした彼は、ぎっしりと脂肪が詰まったブヨブヨの巨体に全身を預けるのだった。
やがて抱擁を解いたベロベルトは大きく伸びをする。そろそろ眠くなってくる頃だった。石の椅子から降りた彼は背中を倒して仰向けになる。
「あぁ、安心した! これで熟睡できるよ! 今日はここで寝ちゃおうっと!」
「こらこら、食べてすぐ寝るとミルタンクになっちまうぞ?」
彼は舌を出してみせる。
「べー、だ! なったことないもん! ……そう固いこと言わずにレナードさんも寝転がっちゃいなよ。とっても綺麗に見えるからさ!」
「ははっ、それなら安心だ! ……よし、なら俺も少しだけ。見えるって何が見えるんだ?」
ベロベルトの隣に寝転がるマフォクシー。彼は黙って真上を指差す。
「おぉっ、これは……!」
マフォクシーは目を輝かせる。彼の視界いっぱいに飛び込んできたのは――夜空を埋め尽くす満天の星々だった。
「こいつは凄い! 夏の星座が全て見えるなんて!」
驚嘆の声を上げるマフォクシー。ベロベルトは得意げに笑う。
「そういうこと! 夜も明るい街じゃ見えないでしょ?」
「あぁ、ここまで美しい星空は初めて見る……!」
畏敬の念すら覚える光景だった。彼は興奮しきった声で呟く。
「ねっ? こんな綺麗な夜空だって独り占めできちゃうんだ。野生の世界も魅力的でしょ? だから……街での生活に疲れちゃったら、レナードさんもおいでよ。そして一緒に暮らそう。オイラ、彼女、そしてレナードさん。きっと最高のトリオになれる筈さ!」
ずっと秘めていた胸の内を打ち明けるベロベルト。なにしろ大勢の仲間を失ってしまったのである。その想いはひとしおだった。
「ははっ、揺さぶってくれるじゃないか。お前さんたちと一緒に、なぁ……」
両手を枕にし、足を組みながら思案するマフォクシー。仕事と趣味に没頭するあまり、家庭を疎かにしすぎた結果、妻子から三行半を突き付けられてしまった苦い過去を持つ彼にとっては悪くない話だった。しかし――
「分かった、よく考えておくよ。素敵な提案をありがとう!」
身を粉にして働いてくれている店の従業員たち、そして誰よりも、藁にも縋る思いで街に助けを求めてやって来る避難者たちを見捨てる訳にはいかないのである。喉まで出かかった本音を飲み込んだ彼は、そう言って回答を保留するのだった。
再び満点の星空に目をやる二匹。大パノラマに圧倒されたマフォクシーは思わず息を呑む。
「これぞ絶景だな。いつまでも見ていられるよ」
「うん、絶景だ……!」
彼にとっても決して見飽きることのない光景だった。大きく頷くベロベルト。その次の瞬間、マフォクシーは夜空の一点を指差す。
「おっ、流れ星だ!」
「えっ!? どこだい!?」
その方向に目をやるも時すでに遅し。とうに消え去ってしまった後だった。マフォクシーの白けた視線が突き刺さる。
「こら、お前さんが見落としてどうする。この森を果樹園に変えるという願い事があるんだろう? ボーっとするな、ボーっと!」
「えへへっ、ごめーん!」
ベロベルトはバツが悪そうに舌を出すのだった。
一心不乱に夜空を見つめるベロベルト。その瞬間は間もなく訪れる。
「あっ、見えた!」
闇夜を切り裂く一閃の光。目の錯覚などではなかった。彼は今度こそ流れ星を目撃する。
「おぉっ! また一つ!」
そして三本目。歓声を上げるマフォクシー。立て続けに四本目、五本目、六本目。もう数え切れなかった。快晴の夜空を流れ星が埋め尽くす。
「ははっ、傑作だ! これで俺たちの将来も安泰だろう。……なぁ!」
興奮のあまり上体を起こしたマフォクシーの目に飛び込んできたのは――大きな鼻提灯だった。たちまち彼は目を点にする。
「まったく! せっかくの感動が台無しじゃないか! どこまでマイペースな野郎なんだ!?」
その場に胡坐をかいて座り、腕組みをして、安らかな寝顔に向かって毒を吐くマフォクシー。が、それも束の間だった。彼の口元がフッと緩む。
「ま、それがお前さんの魅力でもあるんだけどな。つくづく憎めない奴だよ」
舌を出したまま爆睡するベロベルトの頭を撫でたマフォクシーは、残り少なくなった小瓶を手に取り、
「……大自然に乾杯!」
そして一気に飲み干す。程なくして酩酊状態に陥った彼は、空瓶を放り出して大の字で寝転がる。
「……げぇぇっぷ。あぁ、食いすぎた上に飲みすぎちまった。このまま俺も寝るとするかぁ。今日くらい物臭をしても罰は当たらないだろう!」
ゲップを漏らした彼は満天の星空に微笑みかけるのだった。
街の仲間と感動を共有するべく、その光景を確と目に焼き付けようとした彼だったが、落ちていく瞼には抗いようがなかった。それから数分後、彼もまた食いしん坊の怪獣の隣で大いびきをかき始めるのだった。
お尋ね者、生死を問わず、賞金一千万ポケドル、不死身の暴君――。街中の至る所に貼られていたものだから、かえって頭に残らなかったのかもしれない。その重要な一節を忘れたまま、彼はオーダイルが倒されたことを証明する物の何もかもを胃袋の中で溶かしてしまうのだった。
24/08/11 07:30更新 / こまいぬ