まずはお茶でも
「レナードさんからは浅い洞窟だと伺っていましたが……随分と深い洞窟なんですね。びっくりしちゃいました」
キョロキョロと辺りを見回しながら薄暗い中を進んでいくキュウコン。ユサユサと贅肉を揺らしながら前を歩いていたベロベルトは笑い声を漏らす。
「ははっ、そりゃリフォームしたからだよ! 最後にレナードさんと会った後でね! どうせ住むなら居心地のいい場所に住みたかったから、掘って掘りまくって深い洞窟に作り変えたのさ。……こっちだよ、足元に気を付けて!」
進むべき方向を指し示したベロベルトは最後の分岐を左に進む。右に行った先は三つ目の食糧倉庫。たくさんの食べ物を蓄えておけるよう、秋の収穫後の手持ち無沙汰な時間を利用して大改造していたのだった。最奥の居室から入り口まではベロの長さとほぼ同じ。洞窟に迷い込んだ獲物をペロッと食べるのに丁度いい深さに仕上げていたのだった。
やがて焚き火の炎が揺れる明るい広間に行き着く一行。洞窟の壁に背を向けたベロベルトは部屋の中央を指差す。
「お待たせ! 足場の悪い中を長々と歩かせて申し訳なかったね! まずは焚き火にあたって……」
そこまで言いかけた彼は口を噤んでしまう。
忘れていた。彼女は氷タイプなのだ。焚き火になんかあたらせて良いのだろうか? ましてや熱いお茶なんか御馳走して良いのだろうか? 焚き火の前に広げられたティーセットを見つめて考えを巡らした彼は顔を上げる。
「えっと……ごめん。コユキちゃんって暖かいのは苦手だよね? 焚き火は消して、飲み物は冷たいものを用意した方が……」
「いいえ、ちっとも! 別に寒いのが好きというワケではありませんの! 温かい飲み物だって大好物ですわ!」
笑顔で返すキュウコン。彼はホッと胸をなで下ろす。
「あぁ、よかった! 凍え死なずに済みそうで助かったよ! ちなみに……大好物の飲み物ってなんだい?」
まだまだ幼い子供のことである。渋いお茶など眼中にもないだろう。彼はそれとなく尋ねる。
「うふふっ! ココアです! 虫歯になるから控えなさいって母さんから注意されてはいるのですが……飲み出したらキリがないですわ! 濃厚で、甘くって、ほろりと苦くって……あぁ! 考えただけで涎が出てきちゃいました!」
はにかみながら答えるキュウコン。彼は心の中でガッツポーズを決める。
「あははっ! 聞いているオイラも出てきちゃった! 美味しいよね、ココア! それなら御馳走してあげるよ! 舌もとろける甘くて濃厚な練乳ココアをね!」
レナードと取り引きして秋の収穫の一部を様々な食料と交換していたのが幸いだった。缶詰の練乳と板チョコレートの存在を思い出した彼は、お座りの姿勢で両前足を頬に当てたキュウコンに微笑みかける。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「うん! すぐに作るから待っていて! お湯もあることだし……って、へっ!?」
吹きこぼれて焚き火が消えぬよう、小用に立つ前に少しだけ火から遠ざけておいたケトルを持ち上げた彼は目玉を飛び出させる。さっきまで熱湯だった筈が、すっかり湯冷ましになっていたのだった。
チョコレートはおろか練乳すら溶けてくれそうになかった。彼はケトル片手に肩を落とす。
「あの……どうされましたか?」
「いやね、さっき沸かした筈のお湯が冷え切っちゃっていてさ。ちょっと待ってもらえる? すぐ沸かし直すよ」
前足を両頬に当てたまま心配そうな顔をするキュウコン。何とも格好の悪い話だった。手でポリポリと頭を掻いた彼は伏し目がちに打ち明ける。
「あら、そんなの構いませんよ! いくらでも待ちますわ!」
「悪いね、助かるよ! そういうワケだから、のんびりしちゃって! 荷物はその辺に置いてくれて構わないからさ!」
見るほどに大きな風呂敷包みの行李だった。数少ない空きスペースの一つを指し示した彼は、足早に部屋の隅の水瓶へと向かう。
どうせ沸かすならオイラが飲む分も沸かしちゃおう。柄杓ですくっては入れを繰り返すこと数回あまり。ケトルを満杯にした彼は慎重な足取りで焚き火の前へと戻っていく。ポンと炎の上に置いたら後は沸騰するのを待つばかり。荷物を下ろして行儀よく座っていた彼女の隣にドスンと尻を落とした彼は、相手の全貌を視界に入れる。
「ねぇ、コユキちゃん。一つ聞いてもいい?」
半年越しの疑問だった。彼は改まった口調で問いかける。
「うふふっ、なんでも聞いてくださいな! どんな質問も大歓迎ですわ!」
九本の尻尾をフリフリと嬉しそうに振るキュウコン。すっかり心を許している証拠だった。
「コユキちゃんってロコン……じゃなかった。キュウコンで合っているよね? オイラの知っているキュウコンと少し違うんだけど?」
思ったとおりの質問だった。彼女は縦に首を振る。
「うふふっ! キュウコンで合っていますよ! この地方では見慣れない姿ですから驚いちゃいますよね!」
前足で口元を隠しながら笑うキュウコン。次なる疑問を抱いた彼は更に尋ねる。
「この地方って……コユキちゃんはどこから来たの?」
「ここから遥か南の海に浮かぶ島ですわ! そこで二年前まで暮らしていましたの!」
どこかで聞いたことのある話だった。ラプラスに乗って何日間も海を南に進み続けた先に、島全体がフルーツの木で覆われた常夏の楽園があると――。風の噂は本当だったのだ。彼は大きな興奮に包まれる。
「あれ……ちょっと待てよ?」
同時に新たな疑問を芽生えさせるベロベルト。腕組みをした彼は視線を宙に泳がせる。
「その島って一年中が夏なんでしょ? そんな暑い場所で氷タイプになっちゃうのは何故なんだい? というか……氷タイプで間違いないよね、コユキちゃん?」
相手の体表に両手をかざすベロベルト。ひんやりとした冷気が焚き火の前でも伝わってくる。
そのとおりだった。彼女は大きく頷いてみせる。
「えぇ、合っていますわ! ……氷タイプになったのは、万年雪が積もる山で長らく暮らす中で独自の進化を遂げたからだと言われています。意外に思われるかもしれませんが、ここから北に行ったところに聳える山と同じで、たとえ常夏の島でも、高い山の頂上近くは雪と氷に閉ざされた世界になってしまうんです」
「へぇ、そういう進化もあるんだ! 面白いなぁ!」
驚きの連続だった。ベロベルトは思わず舌を巻く。
「なるほどね。で、そこでコユキちゃんも暮らしていたんだ?」
キュウコンは再び首を縦に振る。
「えぇ、もちろん! 私の家族もそうですし、ご先祖様もそうです! おとぎ話に登場するキュウコンが生まれるより前から雪山で暮らし続けてきたと言われているんですよ!」
一族が誇る悠久の歴史だった。彼女はエヘンと胸を張る。
「ちょっ、ちょっと待って!? それって……千年以上も前からってこと!?」
指折り数えようにも手が二本では足りなさすぎた。彼は両手を見つめたまま固まってしまう。
「うふふっ! それ以外にあります?」
得意そうにするキュウコン。自信満々の様子だった。
「えぇっと……じゃあ、それより前の時代はどうだったの?」
「それより前は誰もいませんわ! 遥か大昔にこの地方から海を渡って島に移り住んだ番のキュウコンが私たちのご先祖様ですもの!」
「う、うーん……?」
いよいよ限界だった。彼は怪訝そうな表情を隠せない。
「あっ! さては信じていませんね!? 顔に書いてありますよ!?」
プクッと頬を膨らませるキュウコン。胸の内を見透かされた彼は、決まり悪そうに手を頭の後ろへ回す。
「うん、ごめん! この手の話になるとちょっとね。別に疑うつもりはないんだけど……最後のくだりは流石に眉唾なんじゃないの? その時の出来事なんて誰も見ていないんでしょ? おまけに元から住んでいた可能性だってゼロじゃないワケだ。何か証拠でもあるのかい?」
そこまで言った彼は胸の高さまで舌を垂らす。
「それはそうと、コユキちゃん! 君はベロだけで眉に唾を付けられるかな? ……ほぉら、オイラはこのとおり! もっとも、頭から爪先までツルッパゲのオイラに眉なんてないんだけどね! あははっ!」
ベロリ、ベロリと左右の目の上を舐めてみせるベロベルト。自慢の技を披露し終えた彼は、クルクルと舌を巻き取って口の中に仕舞う。
「きゃっ、凄い! 進化してもベロは長いままなんですね! びっくりしちゃいました!」
歓声を漏らすキュウコン。ベロベルトの大きな口から笑い声が上がる。
「もぉ、馬鹿にしちゃって! 長いに決まっているじゃないか! そりゃぁ、なめまわしポケモンだもん! これで短かったら単なるデブになっちゃうよ!」
彼は巻物のように幾重にもロールされた分厚い舌をニュッと突き出してみせるのだった。
「……んむむっ、駄目です! これ以上は無理ですわ!」
プルプルと震える薄べったい舌の先で頬をなぞり続けるキュウコン。変顔になりながら奮闘するも、目の上はおろか、瞼の下にすら届かないのだった。やがて完全に諦めてしまった彼女は、残念そうに首を左右に振るう。
「私の場合は前足を使うしかありませんね。こうやって唾を付けて……」
軽く目を閉じてペロペロと交互に足先を舐めた彼女は、両方の前足を目の上に押し当てる。
「ぺとり! これが私流の眉唾です! ……うふふっ! 懐かしいですわ! 雪山で暮らしていた時分は、他の群れのキュウコンに化かされないよう、こんな感じでよく唾を塗りたくったものです! 子供騙しのように見えて、意外と効き目があるんですって、これ!」
「えっ? あっ……あぁ、そうなんだ?」
ベロベルトはつとめて平静を装いながら相槌を打つ。
なんだかマズイことを聞いちゃったかもしれないぞ。仲間同士で対立していたということなのだろうか? 気にはなるものの、これ以上も話の腰を折るべきではなかった。疑問をグッと堪えた彼は話を元に戻しにかかる。
「おっと、ごめんよ! えぇっと……何の話だったっけ? 脱線させたオイラが忘れちゃったよ」
「私たちのご先祖様がこの地方から移り住んだ証拠を見せてほしい、という話でしたね! ありますよ! 証拠でしたらここに!」
即答するキュウコン。額に手を当てた彼の顔に明るい表情が戻る。
「あぁ、それそれ! ……って、へっ? どっ、どこにあるんだい?」
指差したままキョロキョロし始めるベロベルト。キュウコンはにっこりと微笑んでみせる。
「こうして普通に会話できていることが何よりの証拠じゃないですか! 海外からやって来たんですよ、わたし!」
「え……」
頭の中が真っ白になる感覚に襲われるベロベルト。やがてハッと気づかされた彼は大きく息を呑む。
「ほっ、ホントだ……! 二年そこらで完璧に覚えられるワケないじゃないか! ということは、この地方の言葉を最初から喋っていた……!?」
狐に化かされた気分だった。真っ白いキュウコンは満足した様子で首を縦に振る。
「えぇ! もちろん、私の兄弟姉妹も父さん母さんだって同じです! これって、私たちのご先祖様がこの地方から島に移り住んだ以外に説明のしようがないんですね!」
「ごめん、コユキちゃん! 眉唾だなんて言って悪かった! 謝るよ!」
両手を床について深々と頭を下げるベロベルト。彼女は再び両前足を目の上に押し当てる。
「別に構いませんわ! 誰だって疑問に感じるハズですもの! ……うふふっ! 眉唾ですね!」
ヌリヌリと楽しげに円を描きつつ、彼女はペロリと舌を出してみせるのだった。
「それはそうと……君のご先祖様も損な選択をしたもんだね? その島の大部分って一年中フルーツ食べ放題なんでしょ? 雪山なんかに住み着いたって不便なだけじゃないか」
他所事ながら不満に思えてならなかった。彼はブスッとした顔つきで尋ねる。
「あっ! とっても良い質問です、それ! ぜひ説明させてくださいな!」
「おっ、そうなの!? それじゃあ、お願いするよ!」
元気よく片方の前足を挙げるキュウコン。胡坐をかき直した彼は耳を澄ます。
「その理由ですが、他の誰かの生活圏を侵すことを良く思わなかったからだと言われています。ご先祖様が海を渡った時代には、既に別の種族のポケモンたちが島中に住み着いていたんですね。それで、他のポケモンたちの迷惑にならない場所を探しに探した結果、雪山に行き着いたというワケです」
「……なるほど! そういうことなら仕方ないよね! うん、納得! 分かりやすい説明をありがとう、コユキちゃん!」
いくらか脚色が入っているな。拍手喝采を送りつつも、弱肉強食の世界を生き延びてきた彼は冷静な視線を忘れない。
誰もが羨む理想郷である。コユキちゃんのご先祖様が争奪戦に身を投じなかったとは考えにくい。雪山で暮らすようになったのは、在来種との縄張り争いに負けてしまい、島の隅へと追いやられてしまった結果と見るべきだろう。彼はキュウコン一族の苦難の歴史に思いを馳せるのだった。
「あら、どうなされました? 何か考え事でも?」
我に返った彼は傍らのキュウコンに微笑みかける。
「いや、コユキちゃんのご先祖様は心優しいキュウコンだったんだろうなって思ってさ!」
「うふふっ! ありがとうございます! 私もご先祖様のように心優しいキュウコンになりたいものですわ!」
決意を新たにした彼女に何度も頷いてみせるベロベルト。彼は少し複雑な気持ちになってしまうのだった。
「なれるといいね! でも……コユキちゃんの場合は特に意識しなくても大丈夫だと思うよ? 明るいし、活発だから、お友達を大切にするだけで十分じゃないかな? 街では皆と楽しく過ごせているかい?」
悪い意味で活発な面は直してね……。初めて出会った日のことを思い出した彼は心の中で付け加える。
その質問を待っていたところだった。キュウコンは満面の笑顔で首を縦に振る。
「はい! ブルースとは勿論のこと、みんなと仲良く暮らしています! ご飯だって温かくて栄養のあるものを一日三食お腹いっぱい食べられますので……毎日が天国みたいです! 雪山で少ない食べ物を分け合って暮らしていた時とは大違いですわ!」
ふくよかな体つきをしている訳である。ベロベルトは大いに納得する。
「あぁ、お腹いっぱい食べられるのは大きいね! 野生じゃ難しいもんなぁ!」
まぁ……毎日たらふく食べて、ブクブク太ってばかりのだらしない野生のポケモンが約一匹、君の目の前にいるんだけどね! 分厚い腹周りの贅肉にブニュリと両腕をめり込ました彼は、小さなゲップを漏らすのだった。
「そうだ、ブルース君はどうしているんだい? 今でも一緒に冒険しに行ったりするの?」
あれだけの腕白坊主である。きっと街の住民を振り回しまくっていることだろう。彼は皮肉交じりに質問する。
「彼ですが、今は街の警察学校に通っていて、お巡りさんになるための訓練を受けているところです。毎日ヘロヘロになって帰ってきますので、一緒に遊びに行く機会はめっきり減ってしまいましたね……」
キュウコンは少し寂しそうな顔をする。
「えっ!? おっ……お巡りさんだって!?」
予想の斜め上すぎた。彼は声を裏返してしまう。
「えぇ! 私も聞いた時はびっくりしましたわ! 彼ですが、例の一件で為す術もなく逃げ回るしかなかったのが本当に悔しかったそうで……悪い奴らに負けたくない気持ちから門を叩いたんです。今までに犯した罪を償う目的もあると話していましたわ」
「あははっ、罪だなんて大袈裟な! あれくらい腕白じゃなきゃ子供は務まらないよ!」
「いえ、そうじゃないんです」
首を左右に振った彼女は硬い表情を浮かべる。
「彼ですが……施設に移ってくる前はスリと掻っ払いの常習犯だったんです。失敗して捕まりそうになった時に大暴れして傷害沙汰に発展させたこともあるとかないとか……」
途端にベロベルトの顔から笑みが消える。
「うーん……それは良くないね。なんでもありの野生の世界じゃないんだから、最低限のルールは守って暮らさなきゃ。どうしてそんな真似を?」
腕組みをした彼は首をひねる。
「貧しく身寄りもなかったのが原因でしょう。聞くに聞けないので詳しい事情は知りませんが……どうも彼は捨て子だったらしく、ほんの数年前まで街の路上で盗みを働きながら暮らしていたそうなんです。話は変わりますが……下水道って知ってます?」
キュウコンは声を落として尋ねる。
「あっ、知ってるよ! 街の地下深くに張り巡らされているウンチとオシッコの流れ道のことでしょ? 街のトイレは全部そこに繋がっていて……最後は海に流れ込むんだよね?」
「あら、よくご存じで! ひょっとして……街での生活に興味おありで?」
目を丸くするキュウコン。両前足を鼻に当てた彼女は首を傾げてみせる。
「うん、そりゃもちろん! 安全な家の中で落ち着いてトイレできる生活なんて羨ましい限りだもの! お花摘みの最中に襲われてそのまま……なんて話、野生じゃ日常茶飯事だからねぇ……」
まさかウンチした直後にウンチにされるとは夢にも思っていなかっただろうなぁ……。彼は数年前に食した獲物の心境に思いを馳せる。
「それとあれでしょ? 街のトイレでは便器に腰掛けながら用を足せちゃうんだってね? 汚い話で申し訳ないけど……オイラって見てのとおりのデブだから、しゃがんでウンチしていると膝が痛くって仕方なくてさ。いつか使ってみたいなぁって思いながら花を摘み続ける毎日だよ。……寒風吹きすさぶ空の下でね」
両腕を胸の前で交差させた彼は、全身を小刻みに震わせるのだった。
「うふふっ! 四本足の私は慣れるまで時間が掛かりましたが……いったん慣れてしまえば最高に快適ですわよ、あれ! 街へいらした折には是非とも体験していって下さいな!」
踏ん張るポーズをしてみせた彼女は笑顔で応じるのだった。
「ありがとう! いつか体験させてもらうよ!」
固く心に決めるベロベルト。そこまで言い終えたところで、彼は話を大幅に脱線させていたことを思い出す。
「えぇっと……ごめん。話を元に戻そうか。今度は覚えているよ。ブルース君の話をしていたら、いきなり下水道の話に切り替わったんだよね? この二つに何か関係が?」
「あります。大ありですわ」
彼女は再び表情を硬くする。
「そこが……施設に移ってくるまでの彼の住処だったんです」
「えっ……!? すっ、住処って……!?」
トイレ談議に花を咲かせた直後だけあって衝撃はひとしおだった。彼は絶句してしまう。
「うーんと……うん。少なくともオイラたちが住むような場所じゃないよね? なんたって……ねぇ?」
言葉にするだけ野暮だった。彼はキュウコンの青い瞳を真っ直ぐに見据える。
「そのとおりです。でも……雨風は凌げます。おまけに中は暖かいので、特に今の時期は凍えてしまう心配もありません。道端で寝泊まりするよりかはマシなんです」
「……やけに詳しいね? ひょっとして行ったことあるの?」
声を潜めるベロベルト。彼女は小さく首を縦に振る。
「ブルースに連れられて一度だけ。暗くて、狭くて、生暖かくて、ジメジメしていて……足の踏み場もないほどのヘドロで溢れ返った不潔な場所でした。彼は慣れっこみたいでしたが、私は翌朝まで嗅覚が戻りませんでしたわ……」
やっぱり臭いのか……。彼は鼻孔をひくつかせる。
「当時をよく知るベトベターたちが教えてくれました。今は一匹もいないけれども、夜な夜なブルースと似たような境遇の子供たちがゾロゾロと集まってきて、そこら中に折り重なるようにして眠っていた、と。寝床を巡っての喧嘩もしょっちゅうだったそうですわ……」
そんな負の姿が街にあったとは……。信じられなかったし、信じたくなかった。彼は暗澹とした気持ちになってしまう。
「ごめんなさい、また話が逸れましたね。そして何より……盗みを生業にしていた彼にとって下水道は都合の良い場所だったんです」
「ふむふむ。というと?」
相槌を打った彼は次の言葉に神経を集中する。
「彼を庇う気はありませんが……盗むのはせいぜい自分用の食べ物くらいだったそうです。そんなコソ泥を臭くて汚い洞窟の中まで追い掛けようと思うかといえば……」
「なるほど、そりゃ思わないよね。大泥棒だったら話は別だろうけど!」
キュウコンは小さく頷いてみせる。
「そういうことです。子供しか入れないような狭い水路も数多くあるそうで、中まで追跡されても振り切るのは簡単だったと聞きました。あとは……その繰り返しです。迷路のような下水道の中を縦横無尽に駆け回りながら、街のあちこちで盗みを重ねていったというワケです」
「でも、結局は捕まったんでしょ? でなきゃ友達になれていないもんね?」
両手を広げてみせるベロベルト。彼女は再び首を縦に振る。
「そうです。街の皆が迷惑していることを知ったベトベターたちに沈殿池……平たく言えば、下水道の奥底にあるヘドロの沼ですね。そこに他の悪い子供たちと一緒に追い詰められ、一族の長であるベトベトンから直々にお仕置きされて施設に送られたんです」
「お仕置きって……具体的にどんな?」
「えっ!? 聞いちゃいます、それ?」
両前足を頬に当てた彼女は顔を赤らめる。
「うん、だって気になるもん!」
「うふふっ! 分かりました! お話ししちゃいましょう!」
悪戯っぽい笑みを顔いっぱいに浮かべるキュウコン。きっと屈辱的なお仕置きだったんだろうな……。彼は大体の見当をつける。
「彼ですが……チューインガムにされちゃったんです」
「チュ、チューインガムだってぇ?」
「そうです。食べたことあります? チューインガム?」
突拍子もない発言に面食らってしまうベロベルト。彼はおずおずと首を縦に振る。
「う……うん。何度かレナードさんに分けてもらったことがあるよ。いくら噛んでもなくならない不思議なお菓子のことでしょ? もっとも、オイラは噛む力が弱いから、ベロで捏ねくり返して食べるんだけどね」
モゴモゴと口の中で舌を動かした彼は、最後にペッと吐き出す真似をする。
「はい! そこまでご存知でしたら十分ですわ! どんなお仕置きだったか……想像してみて下さい!」
「あ……あぁ……!」
クチャクチャとガムを噛む仕草をしながら意味深な視線を送るキュウコン。全てを理解した彼はブルリと身を震わせる。
「うふふっ! そういうことです! きっと鼻が曲がったことでしょう!」
「うーん……ベトベトンの口の中かぁ。さぞかし良い匂いだっただろうなぁ……」
遠くを見る目になるベロベルト。因果応報とはいえ同情せずにはいられなかった。
「彼いわく……ブルースは断トツで美味しかったそうです! そりゃそうでしょう。お風呂にも入れずに汗と垢に塗れた体のままずっと過ごしていたのですから! とっても味わい深いチューインガムだったそうですわ!」
「うげぇぇぇ……コユキちゃん、ストップ、ストップ! 気持ち悪くなってきちゃったよ……」
しかめ面で舌を垂らすベロベルト。手で制された彼女はハッとした表情を浮かべる。
「きゃっ、ごめんなさい! 調子に乗りすぎちゃいました! この話はこれくらいで!」
「ごめんよ。聞くだけ聞いておいてからにね」
ベロを口の中に戻した彼は小さな溜め息を吐くのだった。
「そのベトベトンとは知り合いなのかい? やけに生々しい話だったけど……?」
彼女は少し難しそうな顔をする。
「知り合いと言いますか、なんと言いますか……彼は私たちが住まわせてもらっている施設のオーナーさんなんです。なんなら昨日もお会いしたばかりですわ。必ず週に一度は私たちの様子を見に来てくれますの!」
「えっ、オーナーだって? お金持ちなのかい、そのベトベトン?」
目を丸くするベロベルト。それ以上に驚いたのは彼女の方だった。真っ白いキュウコンの顔に困惑の色が浮かぶ。
「ちょっ……ちょっと待って下さい。ご存知ないんですか? てっきり知っているものかと……」
「うん、ごめん! ご存知ないから教えて!」
潔く手を合わせるベロベルト。軽い脱力感に襲われた彼女は小さく息を吐く。
「お金持ちもなにも……街で一番の大富豪ですわ。下水道を復活させたのも彼の一族なんですよ?」
「待った! 一つずつ整理させて? 復活させたってことは……そのベトベトンたちが造ったワケじゃないってこと?」
溜め息の連続だった。彼女は大きく息を吸い込む。
「……その辺りもご存知ないんですね。元はニンゲンが大昔に造ったものなんです。で、誰にも使われることなく土砂に埋もれてしまっていたのを掃除して、壊れていた部分を修理して再び使えるようにしたのが今の下水道です。あれを今の技術で一から造るなら数百年はかかると聞いたことがありますわ」
「へぇ、ニンゲンが造ったものだったんだ……」
ニンゲンかぁ。いつか食べてみたいなぁ。でも、もうどこにも生き残っていないんだろうなぁ……。ベロベルトは欲求不満を募らせる。
失われた文明を復活させるべく、様々な方面から研究が進められている謎多き存在ながら、もっぱらの彼の関心は味だった。究極の美味との噂を思い出した彼は、ジュルリと舌なめずりをするのだった。
「……続けますわね? で、使用料を取って運営するワケです。どれだけの街の住民が使うと思います?」
考えずとも答えは出た。彼は即座に口を開く。
「それって……ほぼ全員だよね? 水を使わない子なんていないでしょ?」
使わない子もいるにはいるんだろうけど……。彼は心の中で付け加える。
「正解です。街のほぼ全ての住民が使っていますわ。ちなみに……ごく普通の食堂で、お昼ごはんをお腹いっぱい食べた時の代金が、おおよそ月々の使用料に相当します。……掛け算はレナードさんから教わったと聞きました。計算できますよね?」
「……待った。お腹いっぱいの基準はオイラの胃袋でいいのかい? これを満杯にしようと思ったら相当だよ?」
「そこは私の胃袋でお願いします! とんでもない額になってしまいますので!」
モミモミと腹周りの贅肉を揉みながら意地悪な質問をぶつけるベロベルト。キュウコンは呆れた表情で補足する。
街の住民の数、お昼ごはん一食分の代金、それが毎月……。天文学的数字とはこのことだった。計算を終えた彼の口から悲鳴が上がる。
「お分かりいただけましたでしょうか? 大富豪になるのも頷けるでしょう?」
「よく分かったけど……使っても使いきれない金額じゃないか。そんなに儲けてどうしようっていうのさ……」
羨ましいを通り越して妬ましかった。顎に手を当てた彼は不満そうに呟く。
「ですから余ったお金を街のために使ってくれているんです。私たちへの支援もその一環ですわ。汚い話になっちゃいますが……たくさんの生ゴミが出され、たっぷりと用が足される活気に満ちた街こそ、彼らにとっての理想郷ですからね」
「なるほど、そういうことか。とどのつまり……コユキちゃんたちは利用されているに過ぎないワケだ。これをどっさりと産み落としてもらうためにね」
伸ばしたベロで三段の蜷局を巻いてみせるベロベルト。彼女の顔に恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。
「うふふっ、鋭いご指摘で! 毎食お腹いっぱい食べさせてもらえる理由も、その辺りにあるんでしょうね、きっと! でも……これ以上ないほど充実した生活を送らせてもらっているのですから、別に悪い気はしませんわ! とっても心優しい方ですし!」
「えぇっと……そう言い切れちゃうワケは?」
何か他にも裏があるのではないか。ベロを戻した彼は冷めた口調で質問する。
「簡単な理由ですわ! ゴミの収集と処理も生業にしている彼らですが、ただ自分たちが繁栄したいだけなら、下水道も復活させずに何もしないで、街がゴミと汚物で溢れ返るままにしておけば良い筈ですもの!」
「……本当だ。臭くて汚い街にしちゃえば済むもんね」
視線を宙に泳がせた彼は小さく首を縦に振る。
「えぇ、そのとおりですわ! とんでもない場所だったと聞きますもの! 彼ら一族が立ち上がる前の街は!」
「……だろうね。黄金に光り輝く街並みが目に浮かぶよ」
目を細めて腕組みをするベロベルト。想像するだけで悪臭が漂ってきそうな光景だった。
「あら、想像力が逞しいのですね! 私の目には何も! ……当然、恐ろしい病気も流行していたそうですわ。下水道とゴミ収集の事業を立ち上げたのは、住民たちが病に苦しむ姿を見るに見かねたからなんですって」
彼女は施設で働く最年長の職員から聞かされた話を思い出すのだった。
「へぇ、綺麗な心の持ち主じゃないか。ちょっと感動しちゃったよ。あーあ、オイラには真似できっこないなぁ……」
何もかも敵わなかった。頭の後ろで両手を組んだ彼は洞窟の壁に背中を預ける。
「まさに言い得て妙です! でも……汗の臭いは強烈ですわよ! 普段は殆ど気になりませんが、たくさん汗をかく夏の暑い時期なんかは……うふふっ! これ以上は私の口からはとても!」
両前足の指を鼻の穴に突っ込んでみせるキュウコン。そんな彼女にベロベルトは不快そうな視線を向ける。
「駄目だよ、コユキちゃん? 間違っても面と向かって態度に出したりしたら……。彼も気にしているだろうからね」
「うふふっ! そこは弁えていますわ! その程度で目くじらを立てるような方でもありませんし!」
嫌われがちな存在なので気になって仕方なかった。彼はホッと胸をなで下ろす。
「いや、ならいいんだけどね。まさかバイ菌扱いしてないかと思ってさ」
目を見開いた彼女は大慌てで前足を左右に振るう。
「そんな、とんでもありません! 街の英雄をバイ菌扱いだなんて! 私は当然のこと、ブルースなんか足を向けて寝られませんわ! 彼に頭を下げて回ってもらって、やっとの思いで警察学校に入学することができたのですから!」
「えっ、下げて回ってもらったって……どうして?」
とぼけた表情で質問するベロベルト。猛烈な脱力感に襲われた彼女はバッタリと横転してしまう。
「もぉぉ……ちゃんと聞いていましたか!? いままでの私の話!? 施設に入る前の彼が何をしていたか思い出してくださいな!」
両前足で頭を抱えながら不機嫌な声を上げるキュウコン。彼は数分前の記憶に意識を集中させる。
「あっ、ホントだ。泥棒がお巡りさんになれるワケないじゃないか。門前払いになるのがオチだよ」
ポンと手を打つベロベルト。彼は倒れたままの相手に手を差し伸べる。
「あぁ、良かった! ちゃんと覚えてくれていましたね!」
「えへへっ、ごめんよ! ズッコケさせちゃって! 別に忘れていたワケじゃないからね!?」
上体を引っ張り上げられた彼女は元の場所に腰を下ろすのだった。
「そりゃ感謝してもしきれないね。ブルース君も彼の顔に泥を塗ることがないように頑張らないと!」
ヘドロだけにね。彼は心の中で付け加えるのだった。
「えぇ、それはもう! 朝から晩まで休みなしの特別コースでメキメキと腕を上げていっていますわ! ……そうそう、言い忘れていました! 彼も進化したんです!」
「えっ!? ルカリオになったの!?」
大きく身を乗り出すベロベルト。キュウコンは笑顔で頷いてみせる。
「はい! 背が伸びて筋肉もついて逞しい体になりましたわ! そして何よりも……」
「何よりも……?」
耳打ちをするキュウコン。彼はひんやりと冷たい体に身を寄せる。
「超が三つも四つもつくイケメンになりました! もうみんなメロメロですわ!」
彼女もその内の一匹だった。真っ白いキュウコンはポッと頬を赤らめる。
「ヒューヒュー! よかったじゃない! そのまま彼氏にしちゃいなよ! 仲良しなんでしょ、君たち!?」
どれほどの美形かは彼もよく知っていた。脇腹を何度も肘でつつかれたキュウコンは一層に顔を赤くする。
「よし、決まり! 次にオイラと会う時は結婚報告だ! それ以外は認めないからね? あははっ!」
一方的に宣言するベロベルト。彼女は戸惑った表情を隠せない。
「もぅ、勘弁して下さいな! ムチャぶりにも程があるんですから! でも……きっと振り向かせられるよう頑張ります! 恋敵だって蹴散らしてやりますわ!」
視線を鋭くした彼女は宙に向かって何度もジャブを打ってみせるのだった。
「その意気だよ、コユキちゃん! 応援しているからね!」
言っているオイラも冬眠が明けたら頑張らないと! そろそろ年齢的にもまずいぞ……! 笑顔の裏で彼は焦燥感を募らせるのだった。
「……おっ」
「……あっ」
ガタガタとケトルの蓋が音を立て始めたのは次の瞬間だった。注ぎ口から湯気が噴き出るのを目にした二匹は互いに顔を見合わせる。
「待たせたね。それじゃあ……お茶にしようか!」
「えぇ、今度こそ! ちょうど喉が渇いていたところです! それと……お礼の品も紹介させていただきますわね。お茶にピッタリの品もありますので!」
言いながらキュウコンは大きな行李を手元まで引き寄せる。
「えっ、本当!? それって……お茶菓子のことを言っているのかい!?」
甘党の彼には最高の贈り物だった。キラキラと目を輝かせた彼の口から涎が溢れ出す。
「うふふっ! それは開けてみるまでのお楽しみです! まずは私にココアをご馳走して下さいな!」
風呂敷の結び目を解き始めた彼女は美味しそうな口をする。
「ははっ、そうだったね! 材料を取ってくるから少しだけ待っていて! すぐに戻るよ!」
缶詰の練乳、そして板チョコレートだ。すっくと立ち上がった彼は隣の食糧倉庫に向かって歩き始める。
「……うわぁ、何だろう!? 最高にワクワクするなぁ!」
のっしのっしと巨体を揺らしながら声を弾ませるベロベルト。待ちに待った楽しい時間の幕開けだった。
キョロキョロと辺りを見回しながら薄暗い中を進んでいくキュウコン。ユサユサと贅肉を揺らしながら前を歩いていたベロベルトは笑い声を漏らす。
「ははっ、そりゃリフォームしたからだよ! 最後にレナードさんと会った後でね! どうせ住むなら居心地のいい場所に住みたかったから、掘って掘りまくって深い洞窟に作り変えたのさ。……こっちだよ、足元に気を付けて!」
進むべき方向を指し示したベロベルトは最後の分岐を左に進む。右に行った先は三つ目の食糧倉庫。たくさんの食べ物を蓄えておけるよう、秋の収穫後の手持ち無沙汰な時間を利用して大改造していたのだった。最奥の居室から入り口まではベロの長さとほぼ同じ。洞窟に迷い込んだ獲物をペロッと食べるのに丁度いい深さに仕上げていたのだった。
やがて焚き火の炎が揺れる明るい広間に行き着く一行。洞窟の壁に背を向けたベロベルトは部屋の中央を指差す。
「お待たせ! 足場の悪い中を長々と歩かせて申し訳なかったね! まずは焚き火にあたって……」
そこまで言いかけた彼は口を噤んでしまう。
忘れていた。彼女は氷タイプなのだ。焚き火になんかあたらせて良いのだろうか? ましてや熱いお茶なんか御馳走して良いのだろうか? 焚き火の前に広げられたティーセットを見つめて考えを巡らした彼は顔を上げる。
「えっと……ごめん。コユキちゃんって暖かいのは苦手だよね? 焚き火は消して、飲み物は冷たいものを用意した方が……」
「いいえ、ちっとも! 別に寒いのが好きというワケではありませんの! 温かい飲み物だって大好物ですわ!」
笑顔で返すキュウコン。彼はホッと胸をなで下ろす。
「あぁ、よかった! 凍え死なずに済みそうで助かったよ! ちなみに……大好物の飲み物ってなんだい?」
まだまだ幼い子供のことである。渋いお茶など眼中にもないだろう。彼はそれとなく尋ねる。
「うふふっ! ココアです! 虫歯になるから控えなさいって母さんから注意されてはいるのですが……飲み出したらキリがないですわ! 濃厚で、甘くって、ほろりと苦くって……あぁ! 考えただけで涎が出てきちゃいました!」
はにかみながら答えるキュウコン。彼は心の中でガッツポーズを決める。
「あははっ! 聞いているオイラも出てきちゃった! 美味しいよね、ココア! それなら御馳走してあげるよ! 舌もとろける甘くて濃厚な練乳ココアをね!」
レナードと取り引きして秋の収穫の一部を様々な食料と交換していたのが幸いだった。缶詰の練乳と板チョコレートの存在を思い出した彼は、お座りの姿勢で両前足を頬に当てたキュウコンに微笑みかける。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「うん! すぐに作るから待っていて! お湯もあることだし……って、へっ!?」
吹きこぼれて焚き火が消えぬよう、小用に立つ前に少しだけ火から遠ざけておいたケトルを持ち上げた彼は目玉を飛び出させる。さっきまで熱湯だった筈が、すっかり湯冷ましになっていたのだった。
チョコレートはおろか練乳すら溶けてくれそうになかった。彼はケトル片手に肩を落とす。
「あの……どうされましたか?」
「いやね、さっき沸かした筈のお湯が冷え切っちゃっていてさ。ちょっと待ってもらえる? すぐ沸かし直すよ」
前足を両頬に当てたまま心配そうな顔をするキュウコン。何とも格好の悪い話だった。手でポリポリと頭を掻いた彼は伏し目がちに打ち明ける。
「あら、そんなの構いませんよ! いくらでも待ちますわ!」
「悪いね、助かるよ! そういうワケだから、のんびりしちゃって! 荷物はその辺に置いてくれて構わないからさ!」
見るほどに大きな風呂敷包みの行李だった。数少ない空きスペースの一つを指し示した彼は、足早に部屋の隅の水瓶へと向かう。
どうせ沸かすならオイラが飲む分も沸かしちゃおう。柄杓ですくっては入れを繰り返すこと数回あまり。ケトルを満杯にした彼は慎重な足取りで焚き火の前へと戻っていく。ポンと炎の上に置いたら後は沸騰するのを待つばかり。荷物を下ろして行儀よく座っていた彼女の隣にドスンと尻を落とした彼は、相手の全貌を視界に入れる。
「ねぇ、コユキちゃん。一つ聞いてもいい?」
半年越しの疑問だった。彼は改まった口調で問いかける。
「うふふっ、なんでも聞いてくださいな! どんな質問も大歓迎ですわ!」
九本の尻尾をフリフリと嬉しそうに振るキュウコン。すっかり心を許している証拠だった。
「コユキちゃんってロコン……じゃなかった。キュウコンで合っているよね? オイラの知っているキュウコンと少し違うんだけど?」
思ったとおりの質問だった。彼女は縦に首を振る。
「うふふっ! キュウコンで合っていますよ! この地方では見慣れない姿ですから驚いちゃいますよね!」
前足で口元を隠しながら笑うキュウコン。次なる疑問を抱いた彼は更に尋ねる。
「この地方って……コユキちゃんはどこから来たの?」
「ここから遥か南の海に浮かぶ島ですわ! そこで二年前まで暮らしていましたの!」
どこかで聞いたことのある話だった。ラプラスに乗って何日間も海を南に進み続けた先に、島全体がフルーツの木で覆われた常夏の楽園があると――。風の噂は本当だったのだ。彼は大きな興奮に包まれる。
「あれ……ちょっと待てよ?」
同時に新たな疑問を芽生えさせるベロベルト。腕組みをした彼は視線を宙に泳がせる。
「その島って一年中が夏なんでしょ? そんな暑い場所で氷タイプになっちゃうのは何故なんだい? というか……氷タイプで間違いないよね、コユキちゃん?」
相手の体表に両手をかざすベロベルト。ひんやりとした冷気が焚き火の前でも伝わってくる。
そのとおりだった。彼女は大きく頷いてみせる。
「えぇ、合っていますわ! ……氷タイプになったのは、万年雪が積もる山で長らく暮らす中で独自の進化を遂げたからだと言われています。意外に思われるかもしれませんが、ここから北に行ったところに聳える山と同じで、たとえ常夏の島でも、高い山の頂上近くは雪と氷に閉ざされた世界になってしまうんです」
「へぇ、そういう進化もあるんだ! 面白いなぁ!」
驚きの連続だった。ベロベルトは思わず舌を巻く。
「なるほどね。で、そこでコユキちゃんも暮らしていたんだ?」
キュウコンは再び首を縦に振る。
「えぇ、もちろん! 私の家族もそうですし、ご先祖様もそうです! おとぎ話に登場するキュウコンが生まれるより前から雪山で暮らし続けてきたと言われているんですよ!」
一族が誇る悠久の歴史だった。彼女はエヘンと胸を張る。
「ちょっ、ちょっと待って!? それって……千年以上も前からってこと!?」
指折り数えようにも手が二本では足りなさすぎた。彼は両手を見つめたまま固まってしまう。
「うふふっ! それ以外にあります?」
得意そうにするキュウコン。自信満々の様子だった。
「えぇっと……じゃあ、それより前の時代はどうだったの?」
「それより前は誰もいませんわ! 遥か大昔にこの地方から海を渡って島に移り住んだ番のキュウコンが私たちのご先祖様ですもの!」
「う、うーん……?」
いよいよ限界だった。彼は怪訝そうな表情を隠せない。
「あっ! さては信じていませんね!? 顔に書いてありますよ!?」
プクッと頬を膨らませるキュウコン。胸の内を見透かされた彼は、決まり悪そうに手を頭の後ろへ回す。
「うん、ごめん! この手の話になるとちょっとね。別に疑うつもりはないんだけど……最後のくだりは流石に眉唾なんじゃないの? その時の出来事なんて誰も見ていないんでしょ? おまけに元から住んでいた可能性だってゼロじゃないワケだ。何か証拠でもあるのかい?」
そこまで言った彼は胸の高さまで舌を垂らす。
「それはそうと、コユキちゃん! 君はベロだけで眉に唾を付けられるかな? ……ほぉら、オイラはこのとおり! もっとも、頭から爪先までツルッパゲのオイラに眉なんてないんだけどね! あははっ!」
ベロリ、ベロリと左右の目の上を舐めてみせるベロベルト。自慢の技を披露し終えた彼は、クルクルと舌を巻き取って口の中に仕舞う。
「きゃっ、凄い! 進化してもベロは長いままなんですね! びっくりしちゃいました!」
歓声を漏らすキュウコン。ベロベルトの大きな口から笑い声が上がる。
「もぉ、馬鹿にしちゃって! 長いに決まっているじゃないか! そりゃぁ、なめまわしポケモンだもん! これで短かったら単なるデブになっちゃうよ!」
彼は巻物のように幾重にもロールされた分厚い舌をニュッと突き出してみせるのだった。
「……んむむっ、駄目です! これ以上は無理ですわ!」
プルプルと震える薄べったい舌の先で頬をなぞり続けるキュウコン。変顔になりながら奮闘するも、目の上はおろか、瞼の下にすら届かないのだった。やがて完全に諦めてしまった彼女は、残念そうに首を左右に振るう。
「私の場合は前足を使うしかありませんね。こうやって唾を付けて……」
軽く目を閉じてペロペロと交互に足先を舐めた彼女は、両方の前足を目の上に押し当てる。
「ぺとり! これが私流の眉唾です! ……うふふっ! 懐かしいですわ! 雪山で暮らしていた時分は、他の群れのキュウコンに化かされないよう、こんな感じでよく唾を塗りたくったものです! 子供騙しのように見えて、意外と効き目があるんですって、これ!」
「えっ? あっ……あぁ、そうなんだ?」
ベロベルトはつとめて平静を装いながら相槌を打つ。
なんだかマズイことを聞いちゃったかもしれないぞ。仲間同士で対立していたということなのだろうか? 気にはなるものの、これ以上も話の腰を折るべきではなかった。疑問をグッと堪えた彼は話を元に戻しにかかる。
「おっと、ごめんよ! えぇっと……何の話だったっけ? 脱線させたオイラが忘れちゃったよ」
「私たちのご先祖様がこの地方から移り住んだ証拠を見せてほしい、という話でしたね! ありますよ! 証拠でしたらここに!」
即答するキュウコン。額に手を当てた彼の顔に明るい表情が戻る。
「あぁ、それそれ! ……って、へっ? どっ、どこにあるんだい?」
指差したままキョロキョロし始めるベロベルト。キュウコンはにっこりと微笑んでみせる。
「こうして普通に会話できていることが何よりの証拠じゃないですか! 海外からやって来たんですよ、わたし!」
「え……」
頭の中が真っ白になる感覚に襲われるベロベルト。やがてハッと気づかされた彼は大きく息を呑む。
「ほっ、ホントだ……! 二年そこらで完璧に覚えられるワケないじゃないか! ということは、この地方の言葉を最初から喋っていた……!?」
狐に化かされた気分だった。真っ白いキュウコンは満足した様子で首を縦に振る。
「えぇ! もちろん、私の兄弟姉妹も父さん母さんだって同じです! これって、私たちのご先祖様がこの地方から島に移り住んだ以外に説明のしようがないんですね!」
「ごめん、コユキちゃん! 眉唾だなんて言って悪かった! 謝るよ!」
両手を床について深々と頭を下げるベロベルト。彼女は再び両前足を目の上に押し当てる。
「別に構いませんわ! 誰だって疑問に感じるハズですもの! ……うふふっ! 眉唾ですね!」
ヌリヌリと楽しげに円を描きつつ、彼女はペロリと舌を出してみせるのだった。
「それはそうと……君のご先祖様も損な選択をしたもんだね? その島の大部分って一年中フルーツ食べ放題なんでしょ? 雪山なんかに住み着いたって不便なだけじゃないか」
他所事ながら不満に思えてならなかった。彼はブスッとした顔つきで尋ねる。
「あっ! とっても良い質問です、それ! ぜひ説明させてくださいな!」
「おっ、そうなの!? それじゃあ、お願いするよ!」
元気よく片方の前足を挙げるキュウコン。胡坐をかき直した彼は耳を澄ます。
「その理由ですが、他の誰かの生活圏を侵すことを良く思わなかったからだと言われています。ご先祖様が海を渡った時代には、既に別の種族のポケモンたちが島中に住み着いていたんですね。それで、他のポケモンたちの迷惑にならない場所を探しに探した結果、雪山に行き着いたというワケです」
「……なるほど! そういうことなら仕方ないよね! うん、納得! 分かりやすい説明をありがとう、コユキちゃん!」
いくらか脚色が入っているな。拍手喝采を送りつつも、弱肉強食の世界を生き延びてきた彼は冷静な視線を忘れない。
誰もが羨む理想郷である。コユキちゃんのご先祖様が争奪戦に身を投じなかったとは考えにくい。雪山で暮らすようになったのは、在来種との縄張り争いに負けてしまい、島の隅へと追いやられてしまった結果と見るべきだろう。彼はキュウコン一族の苦難の歴史に思いを馳せるのだった。
「あら、どうなされました? 何か考え事でも?」
我に返った彼は傍らのキュウコンに微笑みかける。
「いや、コユキちゃんのご先祖様は心優しいキュウコンだったんだろうなって思ってさ!」
「うふふっ! ありがとうございます! 私もご先祖様のように心優しいキュウコンになりたいものですわ!」
決意を新たにした彼女に何度も頷いてみせるベロベルト。彼は少し複雑な気持ちになってしまうのだった。
「なれるといいね! でも……コユキちゃんの場合は特に意識しなくても大丈夫だと思うよ? 明るいし、活発だから、お友達を大切にするだけで十分じゃないかな? 街では皆と楽しく過ごせているかい?」
悪い意味で活発な面は直してね……。初めて出会った日のことを思い出した彼は心の中で付け加える。
その質問を待っていたところだった。キュウコンは満面の笑顔で首を縦に振る。
「はい! ブルースとは勿論のこと、みんなと仲良く暮らしています! ご飯だって温かくて栄養のあるものを一日三食お腹いっぱい食べられますので……毎日が天国みたいです! 雪山で少ない食べ物を分け合って暮らしていた時とは大違いですわ!」
ふくよかな体つきをしている訳である。ベロベルトは大いに納得する。
「あぁ、お腹いっぱい食べられるのは大きいね! 野生じゃ難しいもんなぁ!」
まぁ……毎日たらふく食べて、ブクブク太ってばかりのだらしない野生のポケモンが約一匹、君の目の前にいるんだけどね! 分厚い腹周りの贅肉にブニュリと両腕をめり込ました彼は、小さなゲップを漏らすのだった。
「そうだ、ブルース君はどうしているんだい? 今でも一緒に冒険しに行ったりするの?」
あれだけの腕白坊主である。きっと街の住民を振り回しまくっていることだろう。彼は皮肉交じりに質問する。
「彼ですが、今は街の警察学校に通っていて、お巡りさんになるための訓練を受けているところです。毎日ヘロヘロになって帰ってきますので、一緒に遊びに行く機会はめっきり減ってしまいましたね……」
キュウコンは少し寂しそうな顔をする。
「えっ!? おっ……お巡りさんだって!?」
予想の斜め上すぎた。彼は声を裏返してしまう。
「えぇ! 私も聞いた時はびっくりしましたわ! 彼ですが、例の一件で為す術もなく逃げ回るしかなかったのが本当に悔しかったそうで……悪い奴らに負けたくない気持ちから門を叩いたんです。今までに犯した罪を償う目的もあると話していましたわ」
「あははっ、罪だなんて大袈裟な! あれくらい腕白じゃなきゃ子供は務まらないよ!」
「いえ、そうじゃないんです」
首を左右に振った彼女は硬い表情を浮かべる。
「彼ですが……施設に移ってくる前はスリと掻っ払いの常習犯だったんです。失敗して捕まりそうになった時に大暴れして傷害沙汰に発展させたこともあるとかないとか……」
途端にベロベルトの顔から笑みが消える。
「うーん……それは良くないね。なんでもありの野生の世界じゃないんだから、最低限のルールは守って暮らさなきゃ。どうしてそんな真似を?」
腕組みをした彼は首をひねる。
「貧しく身寄りもなかったのが原因でしょう。聞くに聞けないので詳しい事情は知りませんが……どうも彼は捨て子だったらしく、ほんの数年前まで街の路上で盗みを働きながら暮らしていたそうなんです。話は変わりますが……下水道って知ってます?」
キュウコンは声を落として尋ねる。
「あっ、知ってるよ! 街の地下深くに張り巡らされているウンチとオシッコの流れ道のことでしょ? 街のトイレは全部そこに繋がっていて……最後は海に流れ込むんだよね?」
「あら、よくご存じで! ひょっとして……街での生活に興味おありで?」
目を丸くするキュウコン。両前足を鼻に当てた彼女は首を傾げてみせる。
「うん、そりゃもちろん! 安全な家の中で落ち着いてトイレできる生活なんて羨ましい限りだもの! お花摘みの最中に襲われてそのまま……なんて話、野生じゃ日常茶飯事だからねぇ……」
まさかウンチした直後にウンチにされるとは夢にも思っていなかっただろうなぁ……。彼は数年前に食した獲物の心境に思いを馳せる。
「それとあれでしょ? 街のトイレでは便器に腰掛けながら用を足せちゃうんだってね? 汚い話で申し訳ないけど……オイラって見てのとおりのデブだから、しゃがんでウンチしていると膝が痛くって仕方なくてさ。いつか使ってみたいなぁって思いながら花を摘み続ける毎日だよ。……寒風吹きすさぶ空の下でね」
両腕を胸の前で交差させた彼は、全身を小刻みに震わせるのだった。
「うふふっ! 四本足の私は慣れるまで時間が掛かりましたが……いったん慣れてしまえば最高に快適ですわよ、あれ! 街へいらした折には是非とも体験していって下さいな!」
踏ん張るポーズをしてみせた彼女は笑顔で応じるのだった。
「ありがとう! いつか体験させてもらうよ!」
固く心に決めるベロベルト。そこまで言い終えたところで、彼は話を大幅に脱線させていたことを思い出す。
「えぇっと……ごめん。話を元に戻そうか。今度は覚えているよ。ブルース君の話をしていたら、いきなり下水道の話に切り替わったんだよね? この二つに何か関係が?」
「あります。大ありですわ」
彼女は再び表情を硬くする。
「そこが……施設に移ってくるまでの彼の住処だったんです」
「えっ……!? すっ、住処って……!?」
トイレ談議に花を咲かせた直後だけあって衝撃はひとしおだった。彼は絶句してしまう。
「うーんと……うん。少なくともオイラたちが住むような場所じゃないよね? なんたって……ねぇ?」
言葉にするだけ野暮だった。彼はキュウコンの青い瞳を真っ直ぐに見据える。
「そのとおりです。でも……雨風は凌げます。おまけに中は暖かいので、特に今の時期は凍えてしまう心配もありません。道端で寝泊まりするよりかはマシなんです」
「……やけに詳しいね? ひょっとして行ったことあるの?」
声を潜めるベロベルト。彼女は小さく首を縦に振る。
「ブルースに連れられて一度だけ。暗くて、狭くて、生暖かくて、ジメジメしていて……足の踏み場もないほどのヘドロで溢れ返った不潔な場所でした。彼は慣れっこみたいでしたが、私は翌朝まで嗅覚が戻りませんでしたわ……」
やっぱり臭いのか……。彼は鼻孔をひくつかせる。
「当時をよく知るベトベターたちが教えてくれました。今は一匹もいないけれども、夜な夜なブルースと似たような境遇の子供たちがゾロゾロと集まってきて、そこら中に折り重なるようにして眠っていた、と。寝床を巡っての喧嘩もしょっちゅうだったそうですわ……」
そんな負の姿が街にあったとは……。信じられなかったし、信じたくなかった。彼は暗澹とした気持ちになってしまう。
「ごめんなさい、また話が逸れましたね。そして何より……盗みを生業にしていた彼にとって下水道は都合の良い場所だったんです」
「ふむふむ。というと?」
相槌を打った彼は次の言葉に神経を集中する。
「彼を庇う気はありませんが……盗むのはせいぜい自分用の食べ物くらいだったそうです。そんなコソ泥を臭くて汚い洞窟の中まで追い掛けようと思うかといえば……」
「なるほど、そりゃ思わないよね。大泥棒だったら話は別だろうけど!」
キュウコンは小さく頷いてみせる。
「そういうことです。子供しか入れないような狭い水路も数多くあるそうで、中まで追跡されても振り切るのは簡単だったと聞きました。あとは……その繰り返しです。迷路のような下水道の中を縦横無尽に駆け回りながら、街のあちこちで盗みを重ねていったというワケです」
「でも、結局は捕まったんでしょ? でなきゃ友達になれていないもんね?」
両手を広げてみせるベロベルト。彼女は再び首を縦に振る。
「そうです。街の皆が迷惑していることを知ったベトベターたちに沈殿池……平たく言えば、下水道の奥底にあるヘドロの沼ですね。そこに他の悪い子供たちと一緒に追い詰められ、一族の長であるベトベトンから直々にお仕置きされて施設に送られたんです」
「お仕置きって……具体的にどんな?」
「えっ!? 聞いちゃいます、それ?」
両前足を頬に当てた彼女は顔を赤らめる。
「うん、だって気になるもん!」
「うふふっ! 分かりました! お話ししちゃいましょう!」
悪戯っぽい笑みを顔いっぱいに浮かべるキュウコン。きっと屈辱的なお仕置きだったんだろうな……。彼は大体の見当をつける。
「彼ですが……チューインガムにされちゃったんです」
「チュ、チューインガムだってぇ?」
「そうです。食べたことあります? チューインガム?」
突拍子もない発言に面食らってしまうベロベルト。彼はおずおずと首を縦に振る。
「う……うん。何度かレナードさんに分けてもらったことがあるよ。いくら噛んでもなくならない不思議なお菓子のことでしょ? もっとも、オイラは噛む力が弱いから、ベロで捏ねくり返して食べるんだけどね」
モゴモゴと口の中で舌を動かした彼は、最後にペッと吐き出す真似をする。
「はい! そこまでご存知でしたら十分ですわ! どんなお仕置きだったか……想像してみて下さい!」
「あ……あぁ……!」
クチャクチャとガムを噛む仕草をしながら意味深な視線を送るキュウコン。全てを理解した彼はブルリと身を震わせる。
「うふふっ! そういうことです! きっと鼻が曲がったことでしょう!」
「うーん……ベトベトンの口の中かぁ。さぞかし良い匂いだっただろうなぁ……」
遠くを見る目になるベロベルト。因果応報とはいえ同情せずにはいられなかった。
「彼いわく……ブルースは断トツで美味しかったそうです! そりゃそうでしょう。お風呂にも入れずに汗と垢に塗れた体のままずっと過ごしていたのですから! とっても味わい深いチューインガムだったそうですわ!」
「うげぇぇぇ……コユキちゃん、ストップ、ストップ! 気持ち悪くなってきちゃったよ……」
しかめ面で舌を垂らすベロベルト。手で制された彼女はハッとした表情を浮かべる。
「きゃっ、ごめんなさい! 調子に乗りすぎちゃいました! この話はこれくらいで!」
「ごめんよ。聞くだけ聞いておいてからにね」
ベロを口の中に戻した彼は小さな溜め息を吐くのだった。
「そのベトベトンとは知り合いなのかい? やけに生々しい話だったけど……?」
彼女は少し難しそうな顔をする。
「知り合いと言いますか、なんと言いますか……彼は私たちが住まわせてもらっている施設のオーナーさんなんです。なんなら昨日もお会いしたばかりですわ。必ず週に一度は私たちの様子を見に来てくれますの!」
「えっ、オーナーだって? お金持ちなのかい、そのベトベトン?」
目を丸くするベロベルト。それ以上に驚いたのは彼女の方だった。真っ白いキュウコンの顔に困惑の色が浮かぶ。
「ちょっ……ちょっと待って下さい。ご存知ないんですか? てっきり知っているものかと……」
「うん、ごめん! ご存知ないから教えて!」
潔く手を合わせるベロベルト。軽い脱力感に襲われた彼女は小さく息を吐く。
「お金持ちもなにも……街で一番の大富豪ですわ。下水道を復活させたのも彼の一族なんですよ?」
「待った! 一つずつ整理させて? 復活させたってことは……そのベトベトンたちが造ったワケじゃないってこと?」
溜め息の連続だった。彼女は大きく息を吸い込む。
「……その辺りもご存知ないんですね。元はニンゲンが大昔に造ったものなんです。で、誰にも使われることなく土砂に埋もれてしまっていたのを掃除して、壊れていた部分を修理して再び使えるようにしたのが今の下水道です。あれを今の技術で一から造るなら数百年はかかると聞いたことがありますわ」
「へぇ、ニンゲンが造ったものだったんだ……」
ニンゲンかぁ。いつか食べてみたいなぁ。でも、もうどこにも生き残っていないんだろうなぁ……。ベロベルトは欲求不満を募らせる。
失われた文明を復活させるべく、様々な方面から研究が進められている謎多き存在ながら、もっぱらの彼の関心は味だった。究極の美味との噂を思い出した彼は、ジュルリと舌なめずりをするのだった。
「……続けますわね? で、使用料を取って運営するワケです。どれだけの街の住民が使うと思います?」
考えずとも答えは出た。彼は即座に口を開く。
「それって……ほぼ全員だよね? 水を使わない子なんていないでしょ?」
使わない子もいるにはいるんだろうけど……。彼は心の中で付け加える。
「正解です。街のほぼ全ての住民が使っていますわ。ちなみに……ごく普通の食堂で、お昼ごはんをお腹いっぱい食べた時の代金が、おおよそ月々の使用料に相当します。……掛け算はレナードさんから教わったと聞きました。計算できますよね?」
「……待った。お腹いっぱいの基準はオイラの胃袋でいいのかい? これを満杯にしようと思ったら相当だよ?」
「そこは私の胃袋でお願いします! とんでもない額になってしまいますので!」
モミモミと腹周りの贅肉を揉みながら意地悪な質問をぶつけるベロベルト。キュウコンは呆れた表情で補足する。
街の住民の数、お昼ごはん一食分の代金、それが毎月……。天文学的数字とはこのことだった。計算を終えた彼の口から悲鳴が上がる。
「お分かりいただけましたでしょうか? 大富豪になるのも頷けるでしょう?」
「よく分かったけど……使っても使いきれない金額じゃないか。そんなに儲けてどうしようっていうのさ……」
羨ましいを通り越して妬ましかった。顎に手を当てた彼は不満そうに呟く。
「ですから余ったお金を街のために使ってくれているんです。私たちへの支援もその一環ですわ。汚い話になっちゃいますが……たくさんの生ゴミが出され、たっぷりと用が足される活気に満ちた街こそ、彼らにとっての理想郷ですからね」
「なるほど、そういうことか。とどのつまり……コユキちゃんたちは利用されているに過ぎないワケだ。これをどっさりと産み落としてもらうためにね」
伸ばしたベロで三段の蜷局を巻いてみせるベロベルト。彼女の顔に恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。
「うふふっ、鋭いご指摘で! 毎食お腹いっぱい食べさせてもらえる理由も、その辺りにあるんでしょうね、きっと! でも……これ以上ないほど充実した生活を送らせてもらっているのですから、別に悪い気はしませんわ! とっても心優しい方ですし!」
「えぇっと……そう言い切れちゃうワケは?」
何か他にも裏があるのではないか。ベロを戻した彼は冷めた口調で質問する。
「簡単な理由ですわ! ゴミの収集と処理も生業にしている彼らですが、ただ自分たちが繁栄したいだけなら、下水道も復活させずに何もしないで、街がゴミと汚物で溢れ返るままにしておけば良い筈ですもの!」
「……本当だ。臭くて汚い街にしちゃえば済むもんね」
視線を宙に泳がせた彼は小さく首を縦に振る。
「えぇ、そのとおりですわ! とんでもない場所だったと聞きますもの! 彼ら一族が立ち上がる前の街は!」
「……だろうね。黄金に光り輝く街並みが目に浮かぶよ」
目を細めて腕組みをするベロベルト。想像するだけで悪臭が漂ってきそうな光景だった。
「あら、想像力が逞しいのですね! 私の目には何も! ……当然、恐ろしい病気も流行していたそうですわ。下水道とゴミ収集の事業を立ち上げたのは、住民たちが病に苦しむ姿を見るに見かねたからなんですって」
彼女は施設で働く最年長の職員から聞かされた話を思い出すのだった。
「へぇ、綺麗な心の持ち主じゃないか。ちょっと感動しちゃったよ。あーあ、オイラには真似できっこないなぁ……」
何もかも敵わなかった。頭の後ろで両手を組んだ彼は洞窟の壁に背中を預ける。
「まさに言い得て妙です! でも……汗の臭いは強烈ですわよ! 普段は殆ど気になりませんが、たくさん汗をかく夏の暑い時期なんかは……うふふっ! これ以上は私の口からはとても!」
両前足の指を鼻の穴に突っ込んでみせるキュウコン。そんな彼女にベロベルトは不快そうな視線を向ける。
「駄目だよ、コユキちゃん? 間違っても面と向かって態度に出したりしたら……。彼も気にしているだろうからね」
「うふふっ! そこは弁えていますわ! その程度で目くじらを立てるような方でもありませんし!」
嫌われがちな存在なので気になって仕方なかった。彼はホッと胸をなで下ろす。
「いや、ならいいんだけどね。まさかバイ菌扱いしてないかと思ってさ」
目を見開いた彼女は大慌てで前足を左右に振るう。
「そんな、とんでもありません! 街の英雄をバイ菌扱いだなんて! 私は当然のこと、ブルースなんか足を向けて寝られませんわ! 彼に頭を下げて回ってもらって、やっとの思いで警察学校に入学することができたのですから!」
「えっ、下げて回ってもらったって……どうして?」
とぼけた表情で質問するベロベルト。猛烈な脱力感に襲われた彼女はバッタリと横転してしまう。
「もぉぉ……ちゃんと聞いていましたか!? いままでの私の話!? 施設に入る前の彼が何をしていたか思い出してくださいな!」
両前足で頭を抱えながら不機嫌な声を上げるキュウコン。彼は数分前の記憶に意識を集中させる。
「あっ、ホントだ。泥棒がお巡りさんになれるワケないじゃないか。門前払いになるのがオチだよ」
ポンと手を打つベロベルト。彼は倒れたままの相手に手を差し伸べる。
「あぁ、良かった! ちゃんと覚えてくれていましたね!」
「えへへっ、ごめんよ! ズッコケさせちゃって! 別に忘れていたワケじゃないからね!?」
上体を引っ張り上げられた彼女は元の場所に腰を下ろすのだった。
「そりゃ感謝してもしきれないね。ブルース君も彼の顔に泥を塗ることがないように頑張らないと!」
ヘドロだけにね。彼は心の中で付け加えるのだった。
「えぇ、それはもう! 朝から晩まで休みなしの特別コースでメキメキと腕を上げていっていますわ! ……そうそう、言い忘れていました! 彼も進化したんです!」
「えっ!? ルカリオになったの!?」
大きく身を乗り出すベロベルト。キュウコンは笑顔で頷いてみせる。
「はい! 背が伸びて筋肉もついて逞しい体になりましたわ! そして何よりも……」
「何よりも……?」
耳打ちをするキュウコン。彼はひんやりと冷たい体に身を寄せる。
「超が三つも四つもつくイケメンになりました! もうみんなメロメロですわ!」
彼女もその内の一匹だった。真っ白いキュウコンはポッと頬を赤らめる。
「ヒューヒュー! よかったじゃない! そのまま彼氏にしちゃいなよ! 仲良しなんでしょ、君たち!?」
どれほどの美形かは彼もよく知っていた。脇腹を何度も肘でつつかれたキュウコンは一層に顔を赤くする。
「よし、決まり! 次にオイラと会う時は結婚報告だ! それ以外は認めないからね? あははっ!」
一方的に宣言するベロベルト。彼女は戸惑った表情を隠せない。
「もぅ、勘弁して下さいな! ムチャぶりにも程があるんですから! でも……きっと振り向かせられるよう頑張ります! 恋敵だって蹴散らしてやりますわ!」
視線を鋭くした彼女は宙に向かって何度もジャブを打ってみせるのだった。
「その意気だよ、コユキちゃん! 応援しているからね!」
言っているオイラも冬眠が明けたら頑張らないと! そろそろ年齢的にもまずいぞ……! 笑顔の裏で彼は焦燥感を募らせるのだった。
「……おっ」
「……あっ」
ガタガタとケトルの蓋が音を立て始めたのは次の瞬間だった。注ぎ口から湯気が噴き出るのを目にした二匹は互いに顔を見合わせる。
「待たせたね。それじゃあ……お茶にしようか!」
「えぇ、今度こそ! ちょうど喉が渇いていたところです! それと……お礼の品も紹介させていただきますわね。お茶にピッタリの品もありますので!」
言いながらキュウコンは大きな行李を手元まで引き寄せる。
「えっ、本当!? それって……お茶菓子のことを言っているのかい!?」
甘党の彼には最高の贈り物だった。キラキラと目を輝かせた彼の口から涎が溢れ出す。
「うふふっ! それは開けてみるまでのお楽しみです! まずは私にココアをご馳走して下さいな!」
風呂敷の結び目を解き始めた彼女は美味しそうな口をする。
「ははっ、そうだったね! 材料を取ってくるから少しだけ待っていて! すぐに戻るよ!」
缶詰の練乳、そして板チョコレートだ。すっくと立ち上がった彼は隣の食糧倉庫に向かって歩き始める。
「……うわぁ、何だろう!? 最高にワクワクするなぁ!」
のっしのっしと巨体を揺らしながら声を弾ませるベロベルト。待ちに待った楽しい時間の幕開けだった。
24/08/11 07:43更新 / こまいぬ