血塗られた記憶【下】
「……はい、どうぞ。コユキちゃん。おかわりは何杯でも自由だからね?」
「ありがとうございます。恐縮ですわ」
三杯目となるココアを手渡すベロベルト。沈痛な面持ちで受け取ったキュウコンは、一口だけ啜ってソーサーの上にカップを置く。
「……父の話をする前に、まずは私たちについて知っておいてもらいたいことがあります。いきなり質問で申し訳ないのですが……二年前まで私たちは雪山で群れを作って生活していました。何匹くらいの群れだったと思います?」
「オイラは群れを作らないからよく分からないけど……ボスがいて、偉いさんがいて、その下に庶民がいるんでしょ? 数十匹は下らないんじゃないの?」
三杯目の紅茶をカップに注ぎながら答えるベロベルト。軽く目を閉じた彼女は何度も小さく首を縦に振る。
「とても良い間違いをしてくれました。正解は数匹、多くても十匹程度なんです」
「えっ……冗談でしょ? なんでそんなに少ないのさ?」
危うくケトルを落としかけた彼は大きく身を乗り出す。
「ボスも、偉いさんも、庶民もいないからです。レナードさんもそうですが……狐である私たちには誰かに服従するという概念がありません。ですから、主従関係に基づく大きな群れは作りようがないんです」
なんとなく分かる話だった。腕組みをした彼は唸り声を上げる。
「うーん……なるほど。そういえば前にレナードさんが話していたなぁ。大勢で集まってワイワイ盛り上がるのは嫌いだって。本当に気心の知れた友達と数匹だけで集まって、静かにお酒を飲むのが何より楽しいってね。こういうのも関係あるのかな?」
真っ白いキュウコンは小さく頷く。
「あると思いますよ。かく言う私も大勢で集まるのは苦手です。お互いの顔が見えない規模の集まりになるとソワソワして落ち着きませんわ。これも狐の性なのでしょうね」
カップを持ち上げた彼女はココアを口に含む。
「……そうそう。あと、主従関係といえば、隊長のウインディの命令に忠実に従うガーディのお巡りさんの姿を見た時は、相当なカルチャーショックでしたわ。誰かに命令なんてしようものならケンカになるだけでしたからね」
「あぁ、それも分かる気がするなぁ。自由奔放に生きているもん、レナードさん……。束縛されたり命令されたりするのは大嫌いだろうね。そっかぁ、コユキちゃんたちも一緒かぁ……」
頭の後ろで手を組んだ彼は洞窟の天井に目を泳がせる。
「とすると……小さな群れが何個も乱立していたワケだ? ははっ、怖い状況だね、こりゃ。しょっちゅう縄張り争いとか起こっていたんじゃないの?」
大正解だった。彼女は大きく首を縦に振る。
「おっしゃるとおりです。それぞれの群れが好き勝手に縄張りを設定するものですから、小競り合いが絶えませんでした。他の群れのキュウコンと鉢合わせることも茶飯事でしたわ。幸い、周りの群れは温和な個体ばかりでしたので、一度もトラブルには発展しませんでしたが……悪意ある個体に目を付けられたら最後ですからね。他所の群れに出くわしたら、眉に唾を塗りたくって全速力で逃げ帰れと、耳にタコができるほど言い聞かされたものです」
彼女は両前足を目の上に押し当てる。
「最後って……いったい何をされちゃうの?」
ベロリ、ベロリと長い舌で目の上を舐めながら尋ねるベロベルト。床から一枚の枯れ葉を拾い上げた彼女は、それをちょこんと額の上に乗っけてみせる。
「化かされて操り人形にされてしまいますわ。レナードさんに未来の出来事を見通す能力が備わっているように、私たちには目を合わせた相手の心を支配する能力が備わっているんです。ベロベルトさんも聞いたことがありますでしょう? 悪戯好きなキュウコンに化かされ、美味しいお団子をお腹いっぱいご馳走されてしまう話を?」
両前足を合わせてコネコネと団子を丸める真似をするキュウコン。同じ仕草をした彼は鼻をひくつかせる。
「美味しいお団子って、まさか……」
顔をしかめた彼女は両前足で鼻を覆う。
「そうです。ギャロップやケンタロスのウンチですわ。それくらいなら笑い話で済むのですけどね。……化かされて操り人形にされた者が辿る道は二つです。どちらからお話ししましょう?」
首を傾げた彼女の額からヒラヒラと枯れ葉が舞い落ちる。
「じゃあ……マシな方から頼むよ」
笑い話で済むのかな……? 彼は心の中でツッコミを入れながら答えるのだった。
「かしこまりました。一つは、操り人形にした相手に自分たちの縄張りを荒らし回らせるんです。一見、なんの得にもならなさそうですが……勘のいいベロベルトさんなら分かりますよね? それが意味するところを?」
真っ直ぐに相手の目を見つめるキュウコン。ポカンと口を開けた彼の背筋に電流が走る。
「あ……相手の群れを攻撃する口実が手に入る! それも最高の口実が……!」
指差したまま固まってしまうベロベルト。キュウコンは大きく首を縦に振る。
「そのとおり。反撃するように見せかけて縄張りを乗っ取り、群れを追い払ってしまうのです。傍目には相手が先に手を出してきたようにしか映りませんから、他の群れから干渉を受ける心配もありません。幻術が解けて我に返る頃には後の祭りというワケですわ」
「たっ、タチ悪すぎでしょ……。追い払われた群れはどうなっちゃうのさ?」
ドン引きした様子のベロベルト。彼女は固く唇を噛み締める。
「どこにも居場所がなくなります。誰も住もうとしない山の頂上近くに追いやられ……そこで暮らすことになりますわ」
どんな場所かは想像に難くなかった。彼は全身をブルリと震わせる。
「暮らすことになるって……氷と岩だけの世界じゃないか。そんな場所じゃ生きていけないよ!」
声を荒げるベロベルト。彼女は静かに目を閉じる。
「えぇ、生きてはいけませんわ。健康な個体でも一ヵ月と持たないと聞きます。そして……極寒の気候と分厚い氷河が腐敗を阻むため、力尽きても土に還ることは許されません。あんな恐ろしい最期だけは遂げたくないと子供心ながら思ったものです……」
「よっ、よく分かったよ! もう片方も説明してくれる?」
もう聞きたくなかった。そこで彼は話を切り上げさせる。
「分かりました。もう一つは、操り人形にした相手をかどわかしてしまうんです。かどわかすって言葉の意味……ご存知ですか?」
「かどわかす……? 耳慣れない言葉だね? ご存知ないから教えてくれる?」
カップを手に取った彼は熱い紅茶をズズッと啜り取る。
「誘拐する、という意味です。この機会にぜひ覚えてくださいね?」
死ぬまで使う機会がないことを祈るよ……。カップを置いた彼は遠くを見る目になる。
「これまた物騒な話だね……。それで? 誘拐した後は? 身代金でも要求するの?」
札束の詰まったトランクケースを開ける手振りをするベロベルト。彼女は力なく首を左右に振るう。
「いいえ。自分の所有物にして、死ぬまで道具として利用するんです。つまるところ、奴隷にされてしまうのですわ……って、きゃあっ!?」
悲鳴を上げるキュウコン。ベロベルトが首周りのたてがみに掴みかかったのだった。
「なんて酷いことするのさ!? いったい君たちは命をなんだと思っているんだい!? さっきの話もそうだけど……まさかコユキちゃんたちはやっていないだろうね!?」
いくら弱肉強食の世界といえども、タブーの一つや二つはあった。あって然るべきだった。唾を飛ばしながら捲し立てた彼は相手の顔を睨みつける。
「やっていませんわ! 私たちは断じて! とっ、というか……ベロベルトさん! そんなに強く掴まないでください! 息ができませんわ!」
「……うわわっ!? ごっ、ごめん、コユキちゃん!」
苦しそうな顔で必死に首を振るうキュウコン。ハッと我に返った彼は大慌てで両手を離す。
「……なんでそんなことするの? それも同族を相手に? 意味が分からないんだけど?」
疑問符が止まらなかった。キュウコンは咳き込みながら口を開く。
「己の強さを異性にアピールするために他なりません。持っている奴隷の数が多いほど魅力的とされてきたのです。一族に古くから伝わる悪しき風習ですわ」
「ひえーっ! 誘拐が文化とは恐れ入るよ! そこまでして結婚するくらいなら独身のままでいいや、あははっ!」
どっちみちモテないし! 一笑に付した彼は心の中で付け加える。
「全面的に同意します。そんな乱暴なオスと結ばれるくらいなら死を選びますわ」
舌を噛む仕草をするキュウコン。ココアで喉を潤した彼女は深い溜め息を吐く。
「狐の道に反する行為として大昔に廃止されたハズなのですが……前時代的な思想に凝り固まった好戦的な群れの個体を中心に、今なお前足を染める者が後を絶ちません。もう大体の想像は付くかと思いますが、さっき話しました方法で他の群れの縄張りを乗っ取ろうとする連中もそうですわ……!」
怒りで声を震わせるキュウコン。紅茶を啜ったベロベルトの大きな口から真っ白い息が漏れる。
「この手の話を聞く度につくづく思うよ。悪い習慣はキッパリ捨て去って、良い習慣だけ残していけばいいのに、ってさ。現実は上手くいかないんだねぇ……」
「はい。何世代、何十世代に渡って継承されてきた風習ですからね。根は相当に深いようです。完全に消えてなくなるのは遠い未来になるでしょう……」
悲観的な見解を述べるキュウコン。彼は再び深い溜め息を吐く。
「なるほどね。……で、そんな連中にコユキちゃんたちが対抗する方法が眉唾だったワケだ? オイラたちの唾液には、触れた獲物をビリビリ痺れされて、最後にはトロトロに溶かしちゃう特殊な成分が含まれているんだけど……ひょっとしてコユキちゃんたちの唾液にも何か特殊な成分が含まれているのかな?」
そう言って思い出すのは、濃厚なチーズドレッシングと半熟卵でシーザーサラダにしたリーフィアを食べた時の記憶だった。ネバネバの唾液で溢れ返るピンク一色の口の中を指差すベロベルト。前足の肉球をペロペロと舐めた彼女は大きく首を縦に振る。
「よくお気づきで。彼らは瞳から怪しい光を発して相手を化かすのですが……私たちの唾液には、それを遮ってしまう特殊な成分が含まれているそうです。なんでも、空気に触れるとすぐ揮発するらしく、眉の辺りに塗りたくることで煙幕の役割を果たすんですって。煙幕と言っても……ほら。完全に透明ですから何も見えませんけど! 本当に効果はあるんでしょうかね? これこそ眉唾ですわ!」
唾液を塗りたくった両前足を目の上に擦り付けるキュウコン。彼はヒューと口笛を吹く。
「上手いこと言うね、コユキちゃん! いいオチをつけたじゃないか!」
「うふふっ! ありがとうございます!」
片方の前足を頭の上に乗せた彼女は、少し恥ずかしそうにペロリと舌を出してみせるのだった。
「説明は以上です。極寒の中で凍え死ぬか、操り人形として一生を終えるか……ベロベルトさんはどちらがお好みですか?」
涼しい顔で究極の二択を迫るキュウコン。両手を前に突き出した彼は激しく首を左右に振るう。
「とんでもない! どっちもお断りさ! 諦めて大人しく食べさせてもらうよ。悪戯好きなキュウコン特製の美味しいお団子をね!」
「同感ですわ! その時は私も手伝いますから一緒に頑張りましょう!」
互いに顔を見合わせた二匹は大笑いするのだった。
「冗談はさておき……そんな場所じゃオイラ生きていける気がしないよ。誰も何とかしようとしなかったの?」
脱力感しかなかった。軽いめまいを覚えた彼は洞窟の壁にもたれかかる。
「しましたわ。私の群れの長である父が。嘘と暴力に満ちた一族の歴史を変えるべく立ち上がったのです」
主役の登場というワケだ。彼は目の色を変えて身を起こす。
「そこでお父さんが出てくるんだね。でも……どうやって? 他の群れの協力なしには無理でしょ? それにコユキちゃんたちは他の誰かに従うことを嫌うんだよね? ちょっと厳しくない?」
「織り込み済みでしたわ。そんな悠長なことを言っていられない危機的な状況が迫りつつあったのです」
腕組みをして首を傾げるベロベルト。ココアを口に含んだ彼女は即答する。
「危機的な状況? どんな状況だい?」
彼はオウム返しに尋ねる。
「そこで質問なのですが……ベロベルトさんはニューラ、そしてマニューラというポケモンをご存知ですか?」
今度こそ知っていた。彼は首を縦に振る。
「知っているよ。硬くて鋭い鉤爪が特徴的なイタチのポケモンでしょ? ずる賢くて獰猛な性格なんだってね? 仲間同士の団結力が強いから、大きな群れで狩りに出て、マンムーみたいな大物も簡単に仕留めちゃうって聞いたことがあるよ。……そうそう。ニューラなら少し前に食べたなぁ。あんな硬い爪まで消化できるとは思わなかったけど……流石はオイラの胃袋だね。ちゃんと全部ウンチになって出てきてくれたよ!」
「そっ……それはなによりで! そこまでご存じでしたら十分ですわ!」
柔らかな腹周りの贅肉を撫で回しながら舌なめずりするベロベルト。彼女は思わず半身に構える。
「えっと……それがどうしたの? まさかコユキちゃんたちのところに大挙して押し寄せてきたワケじゃないよね?」
彼女は目を逸らしてしまう。
「……そのまさかですわ。ごく最近に島へ流れ着いたばかりで、数も少なく、取るに足らない存在だと見なされていた彼らですが……凄まじい繁殖力であっという間に数を増やし、一気に勢力を拡大し始めたのです。ご存知のとおり、獰猛な性格ですからね。他の群れのロコンが襲われて食べられたという話も何度か耳にしましたわ……」
「うーん、子供を狙うのはいただけないなぁ。でも……それも弱肉強食かぁ。仕方ないね」
オイラたちの暗黙のルールは他所で通用しないのだ。彼は厳しい現実に打ちのめされる。
「あっ、レナードさんから聞きましたわ、その話。そう考えると……私とブルースは二回も助けられたことになるのかしら? いずれにせよ感謝ですわ!」
「そうさ、感謝してよぉ!? オイラが理性の欠片もない存在だったら、仲良くウンチにされているところだったんだからね! あのエーフィとブラッキーみたいにさ!」
苦笑いを浮かべながらペコリと頭を下げた彼女に、彼はわざとらしくふんぞり返ってみせるのだった。
「脱線させちゃった、ごめんね。……そりゃ一大事じゃないか。彼らも寒い場所で暮らしているんでしょ? ボヤボヤしていたら何もかも乗っ取られちゃうよ」
深刻な顔をするベロベルト。ココアを啜った彼女は大きく頷く。
「だからこそ父は動いたのです。一族を一つにする最初で最後の機会でしたからね。……程度の差こそあれ、どの群れも同様の危機感を抱いていたのでしょう。説得は極めて順調に進みました。父の計画を支持する群れが続々と加わり……私たちはロコン、そしてキュウコン史上かつてない規模の一大勢力を築いていったのです」
「……凄いね。コユキちゃんのお父さんはキュウコンの王様になったワケだ?」
「いいえ、よく誤解されますが違います。父にその気はありませんでした。服従の概念を持たない私たちには争いの種になるだけの存在だったからです」
返ってきたのは予想外の答えだった。彼の頭に疑問符が浮かぶ。
「……えっ? だったらどうやって何個もの群れを支配するの? そんな方法ある?」
「ありますわ。王様ではなく、ルールに支配させればいいのです。と言ったら……どんなのか想像つきます?」
少し困った顔で首を傾げるキュウコン。完全に思考停止した彼は目を点にする。
「……ごめん、ちょっと何言ってるか分からない。具体的に説明してくれる?」
思ったとおりの反応だった。彼女は大笑いする。
「でしょうね! 顔に書いてありますもの! ……分かりました! 簡単に説明させていただきますわ!」
落ちていた小石で何やら地面に描き始めるキュウコン。彼はグッと顔を近づける。
「……うん? なにを描いているんだい?」
「うふふっ! 当ててみてください! いまに分かりますわ!」
彼女の言うとおりだった。アッと驚いた彼は文字どおり舌を巻く。
「キュウコンの顔だ! うーん、絵心あるねぇ、コユキちゃん! よく特徴を捉えているよ!」
「ありがとうございます! 得意なんです、こういうの!」
褒め言葉に声を弾ませるキュウコン。その後も順調に前足を動かし続けた彼女は、五つのキュウコンの顔を描き終えたところで小石を置く。
「父が真っ先に取り組んだのは……群れ同士で頻繁に起きていた争いを撲滅することでした。これを成し遂げずに群れを束ねることは不可能だったからです」
「そりゃそうだ。内輪揉めなんかしているようじゃ話にならないよ」
何度も首を縦に振った彼は呆れ声で返す。
「それをこの図で説明しますね。顔の一つが群れの一つと思ってください。この群れを一番の群れとして……時計回りに二番、三番、四番、そして五番の五つの群れがあり、それぞれが平穏に暮らしていたとします。……ここまでは大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。続けて?」
前足の動きを目で追った彼は大きく頷く。
「承りました。そんな五つの群れですが……ある時に群れ同士で揉め事が起き、五番の群れが四番の群れに攻め込んだ、という状況を想定します」
「……あっ! さっきのアレだ! 化かされて嵌められて縄張りを乗っ取られちゃうヤツじゃないか!」
五番の顔から四番の顔に向けて矢印を引っ張るキュウコン。目を見開いた彼はピクリと身を震わせる。
「そうです。それをイメージしていただければ分かりやすいかと。……強い群れを嵌めたところで返り討ちに遭うのがオチですから、弱い群れが狙われるケースが大半ですわ。巻き添えを恐れた一番から三番の群れが見て見ぬフリをしている間も四番の群れは攻撃を受け続け……」
彼女は四番の顔の目元に涙を描き加える。
「……やっつけられちゃうんだ」
沈んだ声でボソリと呟くベロベルト。ポンと地面に石を置いた彼女は縦に首を振る。
「そうです。さっき言ったとおりの展開になってしまうワケです」
前足の肉球を地面にゴシゴシと擦り付けた彼女は、四番の顔を跡形もなく消し去ってしまう。
「それが数年前までの私たちでした。それを父は……このように変えたのです」
大急ぎで四番の顔を描き直すキュウコン。攻撃を受けた直後まで時計の針を戻した彼女は――一番、二番、そして三番の顔のそれぞれから五番の顔に向けて矢印を引っ張る。
「こっ、これは……!? いったいどういう……!? なんでこうなっちゃうの!?」
なにもかもが衝撃的だった。三本の矢印を凝視した彼は脳天を撃ち抜かれたような感覚に襲われる。
「仕組みはこうです。揉め事を暴力で解決しようとする者は一族の敵との考えのもと、和を乱す者に制裁を加える約束を事前に全ての群れの間で交わしておくのです。五番の群れが四番の群れに攻め込んだ瞬間、一番から三番の群れは約束に従って行動……すなわち五番の群れを一斉に攻撃するというワケです」
「こっ、こりゃ画期的だ……! 三対一なら負けるワケがない……!」
彼は熱に浮かされたように呟く。
「失礼、描き忘れていました。当然、四番の群れも反撃しますから……正しくはこうですね。ここと、ここも……こうしましょう」
地面に両手をついて舐めるように眺めるベロベルト。抜け落ちに気付いた彼女は矢印を一つ描き足し、四番の顔を笑顔に、五番の顔を慌てふためく顔に描き換えるのだった。
「ははっ、これで四対一だ! 一瞬でコテンパンだよ!」
「そうです。想像してみてください。仇討ちに燃える無数のキュウコンが四方八方から押し寄せ、ベロベルトさんをタタッコ殴りにする光景を……!」
「うーん……泣き叫びながら土下座するオイラの姿が目に浮かぶよ……」
後ろ足立ちになってジャブを打ちまくるキュウコン。イメージを膨らませた彼はブルリと身を震わせるのだった。
「……そうだ。やっつけられた五番の群れはどうなるの?」
彼は慌てふためくキュウコンの顔を指差す。
「雪山の山頂近くに追放……まではされませんが、重いペナルティを課せられますわ。この場合は……群れを縄張りごと東西南北で四分割され、それぞれ一番から四番の群れの管理下に置かれることになるでしょう。反抗しようにも戦力が元の四分の一では太刀打ちできません。群れをバラバラにして二度と争いを起こせなくしてしまうのです」
そこまで聞けば十分だった。彼は両手で膝を打つ。
「要は……争うだけ損をするようにして、揉め事の平和的な解決を促そうってワケだ。……うん、見えたぞ! ルールが一族の平和を守る! ルールが群れを支配するんだ!」
「そのとおりですわ。よく練り上げられたルールは王様にも負けない働きをするのです。拙い説明で申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げるキュウコン。腕組みをした彼は唸り声を上げる。
「それにしても……コユキちゃんのお父さんったら天才だね? こんな凄いアイデアよく思いついたものだよ!」
彼の言葉にキュウコンは少し恥ずかしそうにする。
「ありがとうございます。そんな父の背中に一歩でも近づけるよう精進していきたいところですわ。いま説明しましたのは、数あるルールの中の一部分に過ぎません。全ての群れをルールに従わせる中で団結させ、強大な相手に立ち向かう力を身に付ける……。これが父の考えた計画でした」
「おおっ、これまた上手だね、コユキちゃん……」
話しながらデカデカとマニューラの顔を描くキュウコン。四番と五番の顔の表情を元どおりにし、全ての矢印を消し去った彼女は――それぞれのキュウコンの顔からマニューラの顔に向けて一本ずつ矢印を引っ張るのだった。
「なるほどね。全ては決戦の日に備えるため、か……」
まじまじと五本の矢印を眺めた彼は大きく息を吸って吐き出す。
「そのとおりです。ですが……この構図が成立した時点で、両者の間で大きな戦いは起こり得なくなると言われています。父が目指したのはその状態でした」
「えっ、なんで? どう考えたって大きな戦いになりそうだけど? とんでもない被害になるよ、これ……。誰も無傷じゃ済まないだろうね」
「それですわ! ベロベルトさん!」
紅茶を啜りながら首を傾げるベロベルト。前足でビシッと指差した彼女は鋭い視線を送る。
「よく考えてみてください。そんな恐ろしい戦いを誰が望むと言うのです?」
「へっ? あぁっ……!」
逆転の発想だった。あんぐりと開かれた彼の口から琥珀色の液体がボタボタと滴り落ちる。
「だっ……誰も望まない! 誰も戦って傷つきたいとは思わない……!」
彼の回答にキュウコンは満足そうに頷く。
「そういうことですわ。対立し合う大きな集団の間には、争いが起こるのを抑止する力が生まれるのです。これを父は……抑止力と呼んでいました」
「抑止力、かぁ……」
吐き出すように言った彼は渋い顔をするのだった。
「なんだか複雑だね? そりゃ確かに争いは起きないだろうけど……要は睨み合った状態が延々と続くワケでしょ? そんな中で暮らしたいとは思わないなぁ。一日で胃袋が痛くなっちゃうよ」
でっぷりとしたお腹を大事そうに抱えるベロベルト。キュウコンは笑い声を上げる。
「あら、変ですね? とっても胃袋が丈夫だって話ではありませんでしたっけ?」
揚げ足を取られた彼はブスッとした顔をする。
「もぉ……細かいこと気にしないの! 精神的に参っちゃうよって言いたかったの!」
「うふふっ、ごめんなさい! ……私も同感でしたわ。こんなの所詮は危うい均衡の上に成り立つ仮初めの平和にすぎません。でも……それ以外に選択肢はありませんでした。なにより……」
「なにより……?」
復唱するベロベルト。キュウコンは小石を拾い上げる。
「それを彼らもやむなしと考えていました。私たちには意外な共通点があったのです」
彼女はマニューラの顔を大きな丸で囲む。
「へぇ……こりゃ驚いた。そんな臆病な一面があったとはね」
五本の矢印の先を見つめた彼は軽蔑の表情を浮かべる。
「それは偏見ですわ。彼らにだって理性はあります。無意味な争いを望むほど愚かではないのです。……恐らくは不測の事態を避けたかったのでしょう。計画が大詰めに差し掛かった辺りから、比較的に穏健なマニューラの一派が父に接触を図ってくるようになりました。暗黒の歴史に一匹で立ち向かう父の存在を面白く思ったのかもしれません。そのまま仲良くなってしまい、父の計画を手伝いさえした者もいたほどです」
驚きだった。彼は目を剥く。
「えっ……そこまで? 具体的には何をしたの?」
「これです。これを父に伝授したのです」
地面に摩訶不思議な模様を書き始めるキュウコン。彼は思わず首をひねる。
「何これ? 文字……ではなさそうだけど?」
「彼らが狩りをする時に使う記号です。樹木や岩の表面にサインを残してコミュニケーションを取りながら、連係プレイで獲物を仕留めるのです。複雑な内容すら簡単な組み合わせで表現できてしまう優れものですわ」
「へぇぇ……難しいことやってるんだね? 感心しちゃうよ」
ベロを伸ばすだけで狩りができるオイラは気楽なものだよ。彼はベロリンガに生まれた喜びを再確認するのだった。
「これを父は……多くの小競り合いの元凶だった縄張り問題を解決するために使いました。彼らと同じく樹木や岩の表面にサインを刻み、それぞれの群れの縄張りの境界を明確に示したのです。誰も好き勝手に縄張りを主張できなくなったことにより、揉め事の数は大幅に減ったと言われています」
「ちょっ、ちょっと待って? それ、さっき聞いた時も疑問に思ったんだけど……それまでのコユキちゃんたちって……?」
やおら起き上がって立ち小便のポーズをするベロベルト。頬を真っ赤に染めた彼女は両前足で顔を隠す。
「お恥ずかしい限りですが……そのとおりですわ。オシッコを引っ掛けていただけだったのです。……なんでもっと早くに問題視されなかったんでしょうね? 不思議ですわ!」
背中を向けて立ち上がり、ふさふさの九本の尻尾をピンと立てた彼女は、片方の後ろ足を高く上げるポーズをするのだった。
「やっぱり! そりゃそうなるさ。でもまぁ……解決できてよかったじゃないの。そういうことって結構ある気がするよ」
お座りの姿勢を取り直した彼女は冷たい息を吐き出す。
「あるんでしょうね、きっと! そうやって……父は利用できるものはなんでも利用しつつ、争いの芽を一つずつ摘み取る中で統一を推し進めていきました。しかし……夢の実現まであと一歩に迫ったところで、私たちの邪魔をする勢力が行く手を阻んだのです」
おおよその見当はついた。宙に視線を泳がせた彼の顔に薄ら笑いが浮かぶ。
「分かったぞ! ……こいつらでしょ?」
伸ばした長い舌で左右の目の上を舐めてみせるベロベルト。両前足を目の上に当てた彼女は深く頷く。
「そうです。時代遅れの思想に凝り固まった好戦的な連中ですわ。一族の伝統に反するだとか、かえって平和を損ねるだとか、なにかと理由を付けて父の計画への参加を断り続けたのです」
「あははっ、オイラは騙されないぞ! そりゃ嘘だ! 他の群れの縄張りを乗っ取ったり、他の群れの子を奴隷にしたりできなくなるのが嫌だからに決まっているじゃないか! そんな悪さをした日にはボコボコにされちゃうもの!」
お見通しだった。キュウコンを指差した彼は声高らかに笑う。
「そういうことだったんでしょうね。私も同じ考えです。そんな彼らですが……私たちに排除されてしまう事態を恐れたのでしょう。彼らは彼らでグループを作って私たちに対抗してきたのです」
体中の力が抜ける思いだった。彼は深い溜め息を漏らす。
「皮肉な話だよ。コユキちゃんのお父さんの頑張りが悪い奴らを団結させちゃったワケだ。……その後は? もはや仲間に引き入れるなんて無理な話だよね?」
小さく頷いた彼女の顔に深刻な表情が浮かぶ。
「はい。やがて両者の対立は決定的なものとなり……彼らの一団が私たちの縄張りに断りなく侵入した際、追い払いにきた一匹に乱暴したのが発端となって、全面的な衝突へと発展していきました。私たちと彼らの間で戦いになったのです」
「結果は!? 勝ったの!?」
両肩を掴まれた彼女はたじろいだ様子で頷く。
「え……えぇ。勝ちましたわ。数では私たちの方が上回っていましたからね。戦いは終始有利に進めることができました」
「ほっ、よかった……」
胸に手を当てた彼は深呼吸をする。
「あと……なによりも心強かったのは、父と交流のあったマニューラたちが作戦の立案を手伝ってくれたことです。悪巧みをさせたら彼らの右に出る者はいません。彼らが立てた優れた作戦のお陰で、私たちは各地で大勝利を収めることができたのです。ついでに言いますと……当時の私を含む子供たちも作戦に参加しました。ざっと数十匹は撃破しましたわ!」
絵面を想像した彼は恐怖に駆られる。
「えっと……どっ、どうやって倒したのかな……?」
「うふふっ! これです! 真っ向勝負なんか挑むものですか!」
前足で地面を掘る仕草をするキュウコン。彼は拍子抜けしてしまう。
「なぁんだ、落とし穴かぁ。……って、えっ? 落とし穴?」
背筋に冷たいものを感じるベロベルト。初めてマフォクシーのレナードと出会った時に聞いた話を思い出したのだった。
「ねぇ、コユキちゃん。その落とし穴だけど……先を尖らせた木の枝を仕込んだりしなかった?」
三角の耳をピクリと動かした彼女は驚いた顔をする。
「しませんわ、そんな恐ろしいこと! 大怪我を負わせてしまうではありませんか! 地面を深く掘っただけの普通の落とし穴ですよ。ただ……」
悪戯っぽい笑みを浮かべるキュウコン。四本足で立ち上がった彼女は腰を低く落とす。
「皆でトイレとして使っておく程度のことはしましたわ! かかった相手の心をへし折るのです!」
もっと恐ろしいものを仕込んでいるではないか! 彼は絶句する。
「えっ……えげつないことするね? さすがに可哀想すぎない?」
「ふんっ、可哀想なものですか。あんな奴ら臭い体になってしまえばいいのです。……ふふっ、思い出すだけで笑いが込み上げますわ。もがけばもがくほど深みにハマり……涙と鼻水でグチャグチャになった顔も茶色く染め上げられるのです。胸がすく思いでしたわ!」
うーん、とっても残酷! 心が折れる程度で済めばいいけど! 鼻息荒く豪語する彼女の隣で彼は苦笑いを浮かべるのだった。
「まぁ……あれだね。勝ったからいいんじゃない? ……それで? 負けた相手は? 大人しく降参して言うことを聞くようになったの?」
彼女は下を向いてしまう。
「……ほんの一部だけ。他の者は取り逃がしてしまいました。妖術で洗脳した奴隷に私たちを攻撃させている間に撤退の準備を整え、辺境の地に逃れていったのです」
「……清々しいまでのクズだね? 舐め溶かしてやりたくなっちゃう!」
怒りを通り越して呆れるほどだった。頭から湯気を立てた彼は目の前の宙をベロベロと舐め回す。
「えぇ、是非ともベロベルトさんに御馳走して差し上げたいものですわ。……でも、勝利は勝利でした。不当に奪われた縄張りを取り返し、解放した奴隷を元の群れに返し、何百年も続いた小競り合いの歴史に終止符を打ったのです。それはもう島中の話題をかっさらいましたよ。たった一匹で雪山に平和をもたらしたキュウコンの大首長に一目お会いしたいと、お祝いの品を持った島民が毎日のように訪ねてきたのを覚えていますわ……」
「その後……だったワケだ?」
歓喜の絶頂について暗い表情で話し続けるキュウコン。色々と察した彼はポツリと切り出す。
「ふふっ、そのままハッピーエンドで終わらせてくれたらよかったんですけどね。神様は残酷ですわ。そこから……私たちは坂道を転げ落ちていったのです」
ココアを飲み干すキュウコン。彼女の大きな青い瞳が涙で潤む。
「……すっかり忘れていました。これをベロベルトさんに。ジャローダさんにも同じものをお渡ししていますわ。ご一読いただければ幸いです」
「うん? どれどれ……」
行李の底から一枚の藁半紙を引っ張り出すキュウコン。真っ先に目を引いたのは、紙面の中央にデカデカと描かれたマニューラの似顔絵だった。両手で受け取った彼は記事を音読し始める。
「お尋ね者、生死を問わず、賞金一千万ポケドル、南洋の切り裂き魔……って、いっ、一千万ポケドルぅぅぅぅぅぅ!?」
思わず立ち上がるベロベルト。傍らで見ていた彼女は小さく頷く。
「そうです。一千万ポケドルです。そのネバネバの長い舌でぜひとも絡め取ってください。ご入用でしょう?」
「やだよ! 入用でも命は惜しいもん! どうせヤバイ奴なんでしょ!?」
ペロリと舌を出して皮肉っぽく言うキュウコン。彼は即座に拒否する。
「そうです。一口に言ってヤバイ奴ですわ。こいつが……父の命を奪ったのです」
「教えて、コユキちゃん! どうしてお父さんは殺されなきゃならなかったの!? なにか恨みを買うようなことでもあったのかい!?」
胸に縋りつかれた彼女は力なく左右に首を振るう。
「いいえ、なにも。彼は……ただ殺したかったから殺したのです。殺すことそのものが目的だったのですわ」
「なっ……なんだい、それ……。無茶苦茶じゃないか。いっ、意味が分かんないよ……」
理不尽としか言いようがなかった。がっくりと膝から崩れ落ちた彼は両手を地面につく。
「極めて闘争心が強く凶暴。闘争の成果ではなく闘争そのものを好む異常者。関わり合いになりたくない奴だった。……父と交友関係にあったマニューラたちから聞かされた彼の性格です。早い話が……殺すことで気持ちよくなってしまうイカレポンチに目を付けられたのですわ」
「へっ、変態だ……!」
股の近くで前足を前後に動かしてみせるキュウコン。彼は言葉を失ってしまう。
「……ちょっ、ちょっと待って!? 目を付けられたのは仕方ないとして、なんで接近まで許したの!? コユキちゃんたちは何をやっていたんだい!?」
胸に突き刺さる一言だった。彼女はギリギリと歯噛みをする。
「そこまで危険な奴とは誰も思っていなかったからですわ。手合わせを願いたいとの申し出があり、それに父は応じただけだったのです。ありふれた日常の一コマでした。疑問なんて誰も……!」
「そっ、そんな……」
罠にはめられたのだ。彼は目の前が真っ暗になる感覚に襲われる。
「……前日にジャラランガの族長と戦って快勝していたこともあり、気が大きくなっていたのでしょう。父は二つ返事で勝負を受けました。その選択が……命運を分けたのです」
初めて耳にする名前だったが今は気にしている場合ではなかった。彼はキュウコンの顔を覗き込む。
「お父さんは……最後まで気付けなかったのかい? そいつの殺意に?」
目に涙をいっぱいに溜めた彼女は小さく首を縦に振る。
「はい、恐らくは最後の瞬間まで……。全ては一瞬の出来事でした。勝負が始まる直前、目にも留まらぬ速さで父の懐に飛び込んだ奴が、その鋭い鉤爪で父の……父の胸を……!」
声を震わせるキュウコン。前足で口を押さえた彼女の目から大粒の涙がポロポロと零れ落ち始める。
ギュムッ。
できることは一つだけ。たっぷりと脂肪が詰まった柔らかな巨体で彼女の全てを受け止めてあげること。なにも言わずに力いっぱい抱き締めた彼は、真っ白いキュウコンが泣き止むまで、悲しみに打ち震える彼女の背中を撫で続けてやったのだった。
「即死だったのでしょう。駆けつけた時にはもう……。せめて……せめて一言だけでも言葉を交わしたかった……。今はただ……それだけが心残りです」
前足で涙を拭い、鼻水を啜りつつ、今にも消え入りそうな声で呟くキュウコン。ようやく抱擁を解いた彼は怒りのあまりに唇を震わせる。
「ゴハンにする以外の目的で命を奪うのは許されないことだけど……オイラがコユキちゃんだったら生かしてはおかない……! 楽しむ目的で命を奪う奴なんて! ……その後だよ! こいつは!? 皆で追いかけたの!?」
乱暴な口調でまくし立てるベロベルト。彼は手配書のマニューラの顔に何度も親指の爪を叩きつける。
「当然ですわ。でも……あまりに足が速く、誰も追いつくことができませんでした。結局は彼らの縄張りに逃げ込まれてしまったのです」
腸が煮えくり返る気持ちだった。いても立ってもいられなくなった彼は激しく頭を掻きむしる。
「あぁ、ムシャクシャする……! ダメじゃないか、そこは意地でも捕まえなきゃ! ……そもそもだよ! こいつは本当に殺したかったから殺したの? そうじゃない子も中にはいたようだけれども、大部分のマニューラたちにとって、お父さんは目障りな存在だったワケでしょ? 最初からコユキちゃんたちを攻撃するのが狙いだったんじゃないの?」
手配書を鼻先に突きつけられた彼女の顔に悔しそうな表情が浮かぶ。
「私は信じたくありませんでしたが……それを誰もが真っ先に疑いました。陰謀を企てた全ての者に裁きを下すべしとの声が噴出し、私たちは彼らに実行犯の引き渡しを要求しました。徹底的に取り調べた上で真相を究明し、父が定めたルールに則って罰を与えるためです」
「結果は? 応じてくれたの?」
キュウコンは無念そうに首を振る。
「いいえ、ダメでした。自分たちの掟に則って裁くとの一点張りで却下されてしまったのです」
彼は大きく息を吐き出す。
「納得できないね。そう思わない?」
残りの紅茶を口の中にぶちまけ、ガチャンとカップをソーサーに置くベロベルト。彼女は深く頷く。
「えぇ、到底受け入れられるものではありませんでした。即座に捕らえられて島流しの刑に処されたとの説明はありましたが……それこそ眉唾でしたわ。いずれにせよ……」
件のポーズをした彼女は手配書のマニューラの顔を凝視する。
「こうして奴が各地で殺しに手を染め続けているという事実が全てです。より強い相手を殺すほど強い快感が得られるのでしょう。父も合わせて犠牲者は十八匹に上るそうですが……いずれも相当な実力者を狙った犯行ですわ。ベロベルトさんが次の犠牲者にならないことを祈るばかりです。くれぐれも用心してくださいね?」
つくづく気色の悪い奴だ。反吐が出るよ。彼は手配書の似顔絵にペッと唾を吐き掛ける。
「実力者、ねぇ……。運が良かっただけのオイラは見逃してもらえないかなぁ?」
懇願するような眼差しを向けるベロベルト。彼女は困った顔をする。
「うーん、私に言われましても……。そうは見てもらえないでしょうね。そこは諦めてください」
「ははっ、だろうね! ……よぉし、分かった! ご忠告ありがとう! 十二分に気を付けるよ!」
こりゃ参ったな。今日から熟睡できないぞ……。心の中で呟きながら藁半紙を四つ折りにした彼は、いつでも取り出して確認できるよう、折り畳んだ手配書を尻尾の付け根に挟み込むのだった。
「それはそうとして……それでコユキちゃんたちは大人しく引き下がったの? まさかそんなことないよね?」
彼は彼女の両肩を掴む。
「えぇ、もちろん。一族の全員が怒り狂いましたわ。……理由の如何にかかわらず、二十四時間以内に引き渡しを行うこと。さもなければ諸君らの身の安全は保障しない。この条件を付け加え、私たちは同じ要求を彼らに伝えました」
「そっ、それって……つまり……」
身震いするベロベルト。顎を上げた彼女は前足で首をかき切るポーズをする。
「そうです。要求が受け入れられない場合は総攻撃するという意味ですわ。つまるところの最後通告を叩きつけたのです」
「あっ……ああ……!」
地面に目を落とすベロベルト。五つのキュウコンの顔、五本の矢印、デカデカと描かれたマニューラの顔。それら全てを視界に収めた彼の額から脂汗が滴り落ちる。
「とっ、ということは……そのまま要求は聞き入れられず、コユキちゃんたちは攻撃に踏みきった……?」
こうして手配されているという事実が全てだった。声を震わせながら尋ねるベロベルト。答えは――否だった。彼女は脱力した表情で首を振るう。
「……ふふっ、あと少し遅ければ違う結果になっていたのでしょうけどね。結局は……できませんでした。期限まで残り十五分に迫った頃、襲撃を受けているので助けてほしいとの連絡が複数の群れから寄せられたため、私たちは彼らの救援に向かうことになりました。攻撃どころではなくなってしまったのです」
「そんな! 向こうから攻めてきたってこと!?」
いきり立つベロベルト。青い目を見開き、歯と牙を剥き出しにした彼女は、怒りに震える両前足を目の上にあてがう。
「いいえ、こいつらの仕業でした……! 父のいなくなった状況を好機と見たのでしょう。逃げた先で体勢を立て直し、私たちに再び戦いを挑んできたのです……!」
「クズばっかりじゃないか! うぅっぷ……もうダメ。お腹いっぱいだよ……」
こんな陰惨な世界で生きてみたいとは死んでも思わなかった。食べるか、食べられるかの世界とはいえ、いまオイラが生きている世界は平和な方なのかもしれないなぁ……。お腹を抱えて崩れ落ちた彼はそんなことを思うのだった。
「とはいえ、所詮は前に倒した相手でしょ? また肥溜めに沈めてやったのかい?」
鼻を摘んでみせるベロベルト。予想外の出来事が起こったのは次の瞬間だった。
「……ああっ! あああっ! あああああああぁっ!」
うつ伏せに倒れるなり絶叫するキュウコン。堰を切ったように涙を流し始めた彼女は、前足を何度も地面に打ち付ける。
「こっ、コユキちゃん!? 急にどうしたの!? ちょっ……ちょっと落ち着いて! 悪いことを言ったなら謝るよ……って、いてっ! いててっ!」
お腹の分厚い贅肉のクッションが役に立たないほどの力だった。抱き起こすなりポカポカと殴りつけられる格好になった彼は悲鳴を上げる。
「わぁぁぁぁぁぁぁん!」
「ほっ、本当にどうしちゃったのさ!? とにかく落ち着いて!」
大泣きする彼女を前に困惑するばかりだった。背中に両腕を回した彼は、何度も彼女の耳元で呼びかける。
前足で涙を拭うキュウコン。彼女の口から飛び出したのは衝撃的な言葉だった。
「敗北を……喫しました。双方に多数の死傷者を出したのです」
「ええっ!? えええええええぇっ!?」
ツッコミどころしかなかった。彼の絶叫が洞窟中に響き渡る。
「……ちょっ、ちょっと待って!? 順番に整理させて!? 負けたって……どういうこと!? 数ではコユキちゃんたちが上回っていたんでしょ!? どこに負ける要素があったのさ!?」
激しく前後に揺さぶられた彼女は重い口を開く。
「……父と交流のあったマニューラたちの協力を得られなかったことが最大の敗因ですわ。きっと報復を恐れたのでしょう。父の埋葬に立ち会った翌日には逃げ帰ってしまっていたのです」
「あぁっ……そんな……!」
頼みの綱が切れていたのだ。彼は唇を噛み締める。
「そっ、それと……コユキちゃん? もう一つだよ! 死傷者を出したって……どういうこと? まさか死ぬまで戦ったのかい!? それも同族どうしで……!? どっ、どうかしているよ、君たち……!」
恐怖、侮蔑、そして怒り。全てが入り混じった視線だった。震える手で指差された彼女の顔に虚ろな笑みが浮かぶ。
「ふふ……仕方ありませんわ。今度こそ負けたらお終いなんですもの。全力で殺しにかかってくるに決まっているではありませんか。そんな連中を相手に力加減して戦えと? ベロベルトさんったら面白いことをおっしゃりますのね?」
「そっ、それは……」
言葉に窮した彼は下を向いてしまう。
「でも……そのとおりですわ」
「へっ?」
はらはらと涙を流し始めるキュウコン。予想外の台詞に彼は慌てて顔を上げる。
「理由なんか関係ありません。私たちは……先祖代々から受け継いできた、島の神様が住まう神聖な山を愚かにも私たちの血で穢したのです……! ご先祖様も神様も……こんな不甲斐ない私たちをお許しにはならないでしょう。戦いで傷付いた仲間の手当てをした私も同罪ですわ。私たちはもう……誰も天国へは……! あぁっ!」
腕の中で泣き崩れてしまうキュウコン。そこから先は言葉にならなかった。お腹の柔らかな贅肉を幾筋もの涙が伝い、股の近くの一点に集められて滴り落ち――そして地面に吸い込まれて消えていく。
抱き締める以外に何もできない自分が情けなかった。長いベロをハンカチ代わりに目頭を拭った彼は鼻水を啜り上げる。
「ごめん、コユキちゃん。事情も知らずに勝手なことを言って……」
彼自身も驚くほどの涙声だった。胸に顔を埋めたまま左右に首を振るキュウコン。彼女は真っ赤に泣き腫らした顔を上向ける。
「謝る必要なんてありませんわ。悪いのは愚かな道を選んだ私たちなのですから。……殺して憎まれ、殺されて憎み、また殺して憎まれ……終わりのない報復の連鎖の中で私たちは地獄に墜ちていきました。自分たちを窮地に追い込んだ父の血を引く者として憎悪の眼差しを向けられていたのでしょう。六匹いた兄姉も次々と戦場に倒れ……そして土に還っていきました」
「あ……悪夢だ……」
それしか言葉が見つからなかった。半開きになった彼の口から呻き声が漏れる。
「ふふ……まだまだ悪夢は終わりませんでしたわ。戦いが泥沼の様相を呈するようになった頃……味方の半数近い群れが私たちに反旗を翻しました。クーデターを起こされてしまったのです」
「なんで……どうしてなの……」
あまりの非情さに涙が止まらなかった。彼は全身を小刻みに震わせる。
「堪忍袋の緒が切れたのでしょう。父の計画に従ったがために多大な犠牲を払わせられたのですから。他にも色々と不満を募らせていたのだと思います。犯行は周到に準備されたものだったと聞きました」
「その後は……どうなっちゃったの?」
「……え? 聞いちゃいます、それ?」
やけっぱちな口調ですらあった。彼女の顔に冷淡な笑みが浮かぶ。
「殺し合うだけです。それ以外ありませんわ」
「あぁ……! そんなのダメだ、ダメだっ、ダメだよっ! お父さんの努力を台無しにするような真似しちゃぁ! 何もかも水の泡じゃないか!」
頭を抱えて叫ぶベロベルト。一方の彼女は達観した面持ちで宙を見上げる。
「きっと父は……気付いていなかったのだと思います」
「気付いていなかったって……何を?」
彼女は大きく息を吸い込む。
「これをしてはいけない、あれをしなければいけない、こういう時はこうしなくてはならない……。規則やルールで私たちを一つにするなんて無理な話だったのです。父のアイデアが優れていたからではなく、平和のために奔走する父の姿に心を打たれたからこそ、多くの群れが父に従ったのでしょう。父は……嵐の海を照らす灯台だったのです」
「お父さんは……偉大な存在だったんだね。みんなの英雄だったんだ」
青く透き通った大きな瞳を見つめながら呟くベロベルト。彼女の顔に一瞬だけ本物の笑顔が戻る。
「その灯台を失った時点で私たちの運命は決まってしまったのでしょう。浅瀬に乗り上げて座礁し、バラバラに砕け散って荒れ狂う海に投げ出され……」
彼女は両方の前足を喉に当てる。
「……溺れ死ぬのみだったのです」
息が詰まる思いだった。全てを悟った彼は静かに口を開く。
「だから……コユキちゃんは街へ移り住んできたんだね? その運命から逃れるために?」
彼の言葉にキュウコンは小さく頷く。
「そうです。もはや全滅は時間の問題となり……生き残った子供たちを保護者と共に島外へ脱出させる作戦が決行されました。その第一便に当時の私と母が選ばれ、少数の護衛と共に山を下りていったのです」
「すんなり下りられたの? オイラが敵なら絶対に狙うけど?」
伸ばした舌で彼女の首周りをぐるりと囲むベロベルト。案の定だった。彼女は表情を硬くする。
「お察しのとおりです。……どこからか情報が漏れていたのでしょう。見通しの悪い山道に差しかかったところで待ち伏せに遭いました。こいつらが先回りしていたのです」
「……やっぱり。無事に切り抜けられた?」
ペロペロと前足を舐めて例のポーズをするキュウコン。巻き取った舌を喉奥に仕舞った彼は緊張した声で尋ねる。
「いいえ。護衛は全滅、身を挺して私を攻撃から庇った母は……」
彼女は前足で片方の目を隠す。
「右の目を……失いました……!」
絞り出すように言った彼女の左目から涙が溢れ出す。
「そんな……! うっ、嘘だ……!」
危うく卒倒しそうになるベロベルト。彼女の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。
「ふふ……悪夢でも嘘でもありませんわ。これが現実です。これすら殺し合いのほんの小さな側面に過ぎないのです。……どうか覚えておいてください、ベロベルトさん。いったん殺し合いを始めてしまったら……みんな地獄に墜ちるのです」
淡々とした口調で語るキュウコン。涙と鼻水をダダ漏れにした彼は、嗚咽を必死に堪えながら何度も首を縦に振るのだった。
「……命からがら逃げ延びた私と母は、身を隠すことのできる島のジャングル地帯を目指して歩き続けました。もはや私たちを守る仲間は誰もいません。母子二匹で決死の逃避行を続けたのです」
「そいつらは……もう追ってこなかったの?」
結果は分かっていても震えが止まらなかった。彼はおずおずとした口調で尋ねる。
「いいえ、追ってきましたわ」
「えっ!? でっ、でも……この感触は幽霊じゃないよね?」
両手で頬を包まれた彼女は目を細くする。
「ふふ……あと少し運が悪ければ幽霊になっていたのでしょうね。……見るに見かねたのでしょう。どこからか父と交流のあったマニューラたちの一派が現れ、山の麓まで私と母を導いてくれたのです。さすがの連中も彼ら一族まで敵に回して戦う余力は残されていなかったらしく……遂に最後まで仕掛けてきませんでした。彼らのお陰で何とかジャングルに逃れることができたのです」
そういうところは計算できるのだ。憎たらしい奴らめ。心の中で悪態を吐くベロベルト。そんな彼の耳に異様なまでに明るい彼女の声が飛び込んでくる。
「ちょっと、ベロベルトさん! 何を怖い顔しているんです!? ここ笑うところですよ!? 私たちを最後に守ってくれたのは……敵だったのです! どうです、最高にウケますでしょう!? ふふっ……! うふふっ、あははっ! あははははっ!」
泣きながら笑っていた――否、笑いながら泣いていた。お腹をよじって笑い出した彼女の脳裏に血塗られた記憶がフラッシュバックする。
「見つけた! 有志連合の残党だ! 奴の妻子も一緒にいるぞ!」
「敵と結託して我々を滅ぼさんとした卑怯者どもめ! この前足で一匹残さず粛清してくれるわ! 覚悟しろ!」
「……待ち伏せだ! ここは私たちが食い止めます! お二方は早く逃げ……ぶっ!?」
「……やられたぁぁぁぁっ! 誰か助けてくれぇぇぇぇっ!」
「……反撃しろ! ご令室とご息女を守るんだ! 撃て、撃てぇぇぇぇっ!」
「この犬にも劣る見下げ果てた狐のクズどもが! これでトドメだ! 死ねぇぇぇぇっ!」
「……ぐわぁぁぁぁあっ!」
怒号、悲鳴、そして――断末魔。両耳を塞いでうずくまった彼女の顔に絶望の表情が浮かぶ。
「……いやぁぁぁぁぁっ! やめて! こないで! 殺さないで! 母さんっ! 父さぁぁああん!」
笑い声は絶叫に変わり――やがて啜り泣く声へと変わっていった。両前足に顔を埋めた彼女は小刻みに体を震わせ始める。
「コユキちゃん……」
地獄を……見てきたのだ。この世の地獄を……。そっと彼女に寄り添った彼は、こらえ切れずに顔全体をベロのハンカチで覆うのだった。
どれくらい涙を流し続けたことだろう。ようやく泣き止んだ彼女は悲痛な心情を吐露する。
「私なんて……死んでしまえばよかったんです」
「……どうしてそんなことを? お母さんから受け継いだ命じゃないか。無駄にしていいものじゃないよ?」
聞き捨てならない台詞だった。キュウコンの耳元に顔を寄せた彼は静かなる怒りを募らせる。
「だからこそですわ。足手まといの私さえいなければ、母は目を失わずに済んだのです。兄や姉だって、年の離れた末っ子の私を守るために前線を志願し……そして帰らぬ狐となりました。私さえいなければ……誰も傷つくことはなかったのです……!」
彼女は前足に顔を埋めたまま声を震わせる。
「本気で言っているのかい、コユキちゃん?」
「冗談で言っているように聞こえましたか?」
たしなめるように尋ねるベロベルト。返ってきたのは不機嫌そうな声だった。
「そりゃあ……」
返す言葉がなかった。そこまで言いかけた彼は口を噤んでしまう。
そうか、分かった! そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ! なにを思ったか、カップに熱々の白湯を注いでは飲み、飲んでは注いでを繰り返すベロベルト。空っぽになったケトルとカップを静かに置いた彼は――ジュルリと舌なめずりをして彼女を見下ろす。
「そっか……それなら遠慮はいらないね!」
「きゃっ!?」
短い悲鳴を上げるキュウコン。いきなり首根っこを鷲掴みにされ、ニタニタとした笑みを浮かべるベロベルトの顔の真正面まで持ち上げられたのだから当然だった。宙ぶらりんの格好になった彼女はキョトンとした顔をする。
「えっ……えっ? えっと……ベロベルトさん? これはどういう……」
「ベロォォォォォン!」
疑問の声は間の抜けた掛け声にかき消され、そして――
「んむむむむむぅ!?」
巨大な肉厚のベロに押し潰され、くぐもった叫び声に変えられる。ビクビクと全身を痙攣させるキュウコン。ベロベルトに思いきり顔を舐め上げられたのだった。
「……きゃあっ! いっ、いきなり何をするんです!? 下ろしてください!」
前足で何度も顔を拭いながら声を荒げるも、そんな彼女の要求はあえなく無視される。逆に高々と持ち上げられ――あんぐりと開かれた大口の真上に吊り下げられてしまうのだった。
「そっ、そんな……! 正気ですか、ベロベルトさん!? 目を覚ましてください!」
なにをしようとしているかは一目瞭然だった。白い顔を蒼白にした彼女は大声で呼びかける。
「正気だよ、コユキちゃん? あと、寝ぼけてもいないから安心して? オイラは言われたとおりにしているだけさ。コユキちゃんの望むとおりにね! ……うーん、柔らかい! コユキちゃんの肉球! プニップニだ!」
後ろ足に舌を絡めながら幸せそうな顔をするベロベルト。前足で股間を隠した彼女は顔を真っ赤に染め上げる。
「なっ……舐めないでください! 汚いですわよ、そこ! ……じゃなかった! 言っていませんわ、そんなの! 食べられたいなんて、私は一言も!」
ブンブンと首を振りながら悲鳴を上げるキュウコン。彼は白けた目線を送る。
「嘘はいけないなぁ、コユキちゃん! 確かに言ったよね? ……私なんてぇ、死んでしまえばいいんですぅ、って! 言ったことには責任を持たないと!」
声真似をしながら反論するベロベルト。一層に大きく口を開けた彼は――ネバネバの唾液で溢れ返る桃色の洞窟の奥深くを見せつける。
「というワケで……オイラが美味しく食べてあげまぁす! コユキちゃんはお父さんの元に行けて、オイラはお腹いっぱいになれちゃう! お互い得しかないよねぇ……!」
「んああっ……!」
そんなのゴメンでしょ? 震えるキュウコンの頬に舌を這わせながら心の中で付け加えるベロベルト。待ち受けたのは――予想の斜め上を行く展開だった。ピタリと抵抗を止めた彼女はガックリと頭を垂れてしまう。
「……分かりました。私の全てを差し上げますわ。煮るなり焼くなり好きにしてください」
えええええええぇっ!? そこ諦めるところじゃないんですけど!? 危うくズッコケそうになった彼の全身からドッと冷や汗が噴き出す。
「……ありゃ、えらく潔いじゃないか。どういう風の吹き回しだい?」
動揺を隠しながら尋ねるベロベルト。彼女は澄んだ瞳で視線を受け止める。
「元を辿れば助けていただいた命ですもの。どう使おうがベロベルトさんの自由です。私に口出しする資格はありません。強くて逞しいベロベルトさんの一部になれるのなら本望ですわ!」
なんて嬉しいこと言ってくれるんだ! こうなったら徹底的に幻滅させてやる! 涙を飲んだ彼は苦渋の決断を下す。
「わぁ、ありがとう! そこまでオイラのこと思ってくれていたなんて! 感激だよ! でも……分かっているよね、コユキちゃん? 最後はウンチになっちゃうんだよ? お尻の穴からブリブリッと絞り出されてね! こんな汚い終わり方でいいのかい?」
「そっ、それは……」
伸ばしたベロで三段の蜷局を巻いてみせながら踏ん張る姿勢をするベロベルト。下品な言葉とジェスチャーの数々に彼女は嫌悪感を隠せない。
「それと、もう一つ。オイラの口の中だけど……」
ごめんね、コユキちゃん! 心の中で謝罪すると同時に彼は大きく息を吸い込み、そして――
「……ムハァァァァァッ!」
茶色く淀んだ息吹に変えて彼女の顔に吐き掛ける。すえた汗と垢の臭い、腐敗した食べカスの臭い、極め付きは――口の中全体に染み付いた、味がなくなるまで舐めしゃぶられて呑まれていった獲物たちの体臭。暴力的なまでの汚臭が彼女の嗅覚を粉砕する。
「うぶっ……!」
危うく胃袋の中身を吐き散らかしそうになるキュウコン。目に浮かんだ涙の理由は悲しみではなかった。彼女は堪らず両前足で口を塞ぐ。
「……臭いよ? くれぐれも覚悟してね?」
「やっ、やっぱり嫌です! くちゃいの苦手で……んむぅっ!?」
ほぉら、やっぱり! 心にもないことを言ったお仕置きだ! ベトベトになっちゃえ! 彼はキュウコンの顔面に厚ぼったいベロを力いっぱい押しつけ――
「ベロンッ! レロンッ、ベロレロンッ! ベロベロベロベロォォォォォン!」
「んんっ! んああっ! んあああああああっ!」
そして容赦なく舐め回す。さも楽しそうに舌を動かすベロベルト。気持ち悪さのあまりに絶叫するキュウコン。ねっとりと首から上を舐めまくられた彼女は――あっという間に顔中を唾液塗れにされてしまうのだった。
「……ぶはぁっ! だぁめ! もう遅いよ! さっきも言ったでしょ? 言ったことには責任を持たないと!」
心ゆくまで舐められて大満足だった。両手でバツ印を作った彼は、股の高さまでベロを垂らす。
「さぁ、コユキちゃん! 次に舐められたいのはどこだい? 前足? 後ろ足? お胸? お腹? 背中? それともお尻かな? あぁ、お股も遠慮しないで! 九本の尻尾もね! ビリビリ痺れて気絶したところをゴックンチョしてあげる! 明日の朝にはオイラの一部さ!」
タプタプとした分厚い腹肉を摘まんでみせながら迫るベロベルト。大ダメージを受けてヘロヘロになった彼女を見つめた彼の顔に下卑た笑みが浮かぶ。
「くちゃいのが苦手なら今の内に鼻を慣らしておかないとね! 嗅がせてあげる! オイラのお腹の底のニオイを……!」
もう嫌われてもいいや! 食らえ! オイラとっておきの必殺技! 息が詰まる話ばかり聞かされたお陰で既にガスで満杯だった。胃袋に神経を集中させるベロベルト。大きく喉が波打った次の瞬間――
「ゲェェェェッップ!」
茶色がかった紫色の瘴気が口から勢いよく溢れ出し、そして彼女の顔にぶっ掛けられる。
「あぁ……神……様……」
毒タイプの技はフェアリータイプに効果抜群。前足を合わせて短い呻きを漏らした彼女は、遂に目を回してしまうのだった。
「あーあ、気絶しちゃった。やりすぎだったかな?」
ブクブクと大量の泡を吐いたので尚更だった。ぐったりと脱力した体を両手で抱えた彼は罪悪感を募らせる。
さて、一服させてもらおう。お目覚めの一杯も用意してあげないと! 彼女を横向きに寝かせ、乾いた唾液がこびり付いた薄汚れた毛布を引っ張り出して肩まで掛けてやった彼は、空っぽのケトルを片手に水瓶に水を汲みに行く。
「ちぇっ、いくら何でも早すぎるよ。おまけにこっちも。やっぱり出しきれてなかったのかぁ……」
水を汲み終えた直後に襲ってきたのは猛烈な尿意と便意だった。そそくさと焚き火の前に戻ってケトルを火にかけるベロベルト。ブビッと湿った屁をこいた彼は、贈り物の防寒着が詰まった木箱を引き寄せる。
「……えへへっ、これは失敬! ちょっとウンチしてくるよ! ついでにオシッコもね!」
恥ずかしげもなく宣言しながらニット帽とミトンを身に纏うベロベルト。しっとりと汗で湿ったブーツに足を通したら装備は万全だった。彼はピンと立ったキュウコンの耳に口を近付ける。
「……じゃ、ちょっとの間だけ留守番を頼むよ。すぐに戻るからね、コユキちゃん」
毛布をポンポンと叩いた瞬間に彼の脳裏に蘇ったのは――泣きじゃくる彼女の声だった。ミトンをはめた両手を毛布の上に置いた彼は静かに目を閉じる。
「オイラも一緒さ。君と同じことをどれだけ思ったことか。でも……諦めちゃダメなんだ。前を向いて進み続けるしかないんだ。命ある限り……!」
半分は自分に向けた言葉だった。頬を濡らす涙をベロで拭った彼は静かに立ち上がる。
「……って! こんなことしている場合じゃなかった! もれ、もれっ、漏れるぅぅぅぅぅぅ!」
もう限界だった。内股になって足踏みしながら絶叫するベロベルト。真冬にもかかわらずダラダラと脂汗を流し始めた彼は、はち切れんばかりの豊満な肉体をユサユサと揺らしながら、全速力で洞窟の外へ向かって疾走し始める。
「……あぁっ! だめだめだめぇぇぇぇぇっ! 忘れ物っ! ……えぇい、こうなったら! そぉれ! ベロォォォォォン!」
道のりの半分を過ぎた辺りで急ブレーキをかけて振り返るも、もはや取りに戻る時間は残されていなかった。例の珍妙なポーズを取った彼は、最後に置いた場所の記憶だけを頼りに、真っ暗闇の中でベロを伸ばす。
「……あった、これだ!」
確かな舌触り。ベロを引っ込めた彼の舌先にあったのは――トイレットペーパーだった。九死に一生を得た彼は安堵の溜め息を漏らす。
「……ふぅ! 危ない、危ない! 最後の手段を使わなきゃいけないところだった!」
クルクルとロール状に巻き取ったベロを喉奥に仕舞いながら意味深なことを呟くベロベルト。ミトンをはめた両手で儀式の必需品を大事に抱えた彼は、おぼつかない足取りで残りの道のりを駆け抜けていったのだった。
「ありがとうございます。恐縮ですわ」
三杯目となるココアを手渡すベロベルト。沈痛な面持ちで受け取ったキュウコンは、一口だけ啜ってソーサーの上にカップを置く。
「……父の話をする前に、まずは私たちについて知っておいてもらいたいことがあります。いきなり質問で申し訳ないのですが……二年前まで私たちは雪山で群れを作って生活していました。何匹くらいの群れだったと思います?」
「オイラは群れを作らないからよく分からないけど……ボスがいて、偉いさんがいて、その下に庶民がいるんでしょ? 数十匹は下らないんじゃないの?」
三杯目の紅茶をカップに注ぎながら答えるベロベルト。軽く目を閉じた彼女は何度も小さく首を縦に振る。
「とても良い間違いをしてくれました。正解は数匹、多くても十匹程度なんです」
「えっ……冗談でしょ? なんでそんなに少ないのさ?」
危うくケトルを落としかけた彼は大きく身を乗り出す。
「ボスも、偉いさんも、庶民もいないからです。レナードさんもそうですが……狐である私たちには誰かに服従するという概念がありません。ですから、主従関係に基づく大きな群れは作りようがないんです」
なんとなく分かる話だった。腕組みをした彼は唸り声を上げる。
「うーん……なるほど。そういえば前にレナードさんが話していたなぁ。大勢で集まってワイワイ盛り上がるのは嫌いだって。本当に気心の知れた友達と数匹だけで集まって、静かにお酒を飲むのが何より楽しいってね。こういうのも関係あるのかな?」
真っ白いキュウコンは小さく頷く。
「あると思いますよ。かく言う私も大勢で集まるのは苦手です。お互いの顔が見えない規模の集まりになるとソワソワして落ち着きませんわ。これも狐の性なのでしょうね」
カップを持ち上げた彼女はココアを口に含む。
「……そうそう。あと、主従関係といえば、隊長のウインディの命令に忠実に従うガーディのお巡りさんの姿を見た時は、相当なカルチャーショックでしたわ。誰かに命令なんてしようものならケンカになるだけでしたからね」
「あぁ、それも分かる気がするなぁ。自由奔放に生きているもん、レナードさん……。束縛されたり命令されたりするのは大嫌いだろうね。そっかぁ、コユキちゃんたちも一緒かぁ……」
頭の後ろで手を組んだ彼は洞窟の天井に目を泳がせる。
「とすると……小さな群れが何個も乱立していたワケだ? ははっ、怖い状況だね、こりゃ。しょっちゅう縄張り争いとか起こっていたんじゃないの?」
大正解だった。彼女は大きく首を縦に振る。
「おっしゃるとおりです。それぞれの群れが好き勝手に縄張りを設定するものですから、小競り合いが絶えませんでした。他の群れのキュウコンと鉢合わせることも茶飯事でしたわ。幸い、周りの群れは温和な個体ばかりでしたので、一度もトラブルには発展しませんでしたが……悪意ある個体に目を付けられたら最後ですからね。他所の群れに出くわしたら、眉に唾を塗りたくって全速力で逃げ帰れと、耳にタコができるほど言い聞かされたものです」
彼女は両前足を目の上に押し当てる。
「最後って……いったい何をされちゃうの?」
ベロリ、ベロリと長い舌で目の上を舐めながら尋ねるベロベルト。床から一枚の枯れ葉を拾い上げた彼女は、それをちょこんと額の上に乗っけてみせる。
「化かされて操り人形にされてしまいますわ。レナードさんに未来の出来事を見通す能力が備わっているように、私たちには目を合わせた相手の心を支配する能力が備わっているんです。ベロベルトさんも聞いたことがありますでしょう? 悪戯好きなキュウコンに化かされ、美味しいお団子をお腹いっぱいご馳走されてしまう話を?」
両前足を合わせてコネコネと団子を丸める真似をするキュウコン。同じ仕草をした彼は鼻をひくつかせる。
「美味しいお団子って、まさか……」
顔をしかめた彼女は両前足で鼻を覆う。
「そうです。ギャロップやケンタロスのウンチですわ。それくらいなら笑い話で済むのですけどね。……化かされて操り人形にされた者が辿る道は二つです。どちらからお話ししましょう?」
首を傾げた彼女の額からヒラヒラと枯れ葉が舞い落ちる。
「じゃあ……マシな方から頼むよ」
笑い話で済むのかな……? 彼は心の中でツッコミを入れながら答えるのだった。
「かしこまりました。一つは、操り人形にした相手に自分たちの縄張りを荒らし回らせるんです。一見、なんの得にもならなさそうですが……勘のいいベロベルトさんなら分かりますよね? それが意味するところを?」
真っ直ぐに相手の目を見つめるキュウコン。ポカンと口を開けた彼の背筋に電流が走る。
「あ……相手の群れを攻撃する口実が手に入る! それも最高の口実が……!」
指差したまま固まってしまうベロベルト。キュウコンは大きく首を縦に振る。
「そのとおり。反撃するように見せかけて縄張りを乗っ取り、群れを追い払ってしまうのです。傍目には相手が先に手を出してきたようにしか映りませんから、他の群れから干渉を受ける心配もありません。幻術が解けて我に返る頃には後の祭りというワケですわ」
「たっ、タチ悪すぎでしょ……。追い払われた群れはどうなっちゃうのさ?」
ドン引きした様子のベロベルト。彼女は固く唇を噛み締める。
「どこにも居場所がなくなります。誰も住もうとしない山の頂上近くに追いやられ……そこで暮らすことになりますわ」
どんな場所かは想像に難くなかった。彼は全身をブルリと震わせる。
「暮らすことになるって……氷と岩だけの世界じゃないか。そんな場所じゃ生きていけないよ!」
声を荒げるベロベルト。彼女は静かに目を閉じる。
「えぇ、生きてはいけませんわ。健康な個体でも一ヵ月と持たないと聞きます。そして……極寒の気候と分厚い氷河が腐敗を阻むため、力尽きても土に還ることは許されません。あんな恐ろしい最期だけは遂げたくないと子供心ながら思ったものです……」
「よっ、よく分かったよ! もう片方も説明してくれる?」
もう聞きたくなかった。そこで彼は話を切り上げさせる。
「分かりました。もう一つは、操り人形にした相手をかどわかしてしまうんです。かどわかすって言葉の意味……ご存知ですか?」
「かどわかす……? 耳慣れない言葉だね? ご存知ないから教えてくれる?」
カップを手に取った彼は熱い紅茶をズズッと啜り取る。
「誘拐する、という意味です。この機会にぜひ覚えてくださいね?」
死ぬまで使う機会がないことを祈るよ……。カップを置いた彼は遠くを見る目になる。
「これまた物騒な話だね……。それで? 誘拐した後は? 身代金でも要求するの?」
札束の詰まったトランクケースを開ける手振りをするベロベルト。彼女は力なく首を左右に振るう。
「いいえ。自分の所有物にして、死ぬまで道具として利用するんです。つまるところ、奴隷にされてしまうのですわ……って、きゃあっ!?」
悲鳴を上げるキュウコン。ベロベルトが首周りのたてがみに掴みかかったのだった。
「なんて酷いことするのさ!? いったい君たちは命をなんだと思っているんだい!? さっきの話もそうだけど……まさかコユキちゃんたちはやっていないだろうね!?」
いくら弱肉強食の世界といえども、タブーの一つや二つはあった。あって然るべきだった。唾を飛ばしながら捲し立てた彼は相手の顔を睨みつける。
「やっていませんわ! 私たちは断じて! とっ、というか……ベロベルトさん! そんなに強く掴まないでください! 息ができませんわ!」
「……うわわっ!? ごっ、ごめん、コユキちゃん!」
苦しそうな顔で必死に首を振るうキュウコン。ハッと我に返った彼は大慌てで両手を離す。
「……なんでそんなことするの? それも同族を相手に? 意味が分からないんだけど?」
疑問符が止まらなかった。キュウコンは咳き込みながら口を開く。
「己の強さを異性にアピールするために他なりません。持っている奴隷の数が多いほど魅力的とされてきたのです。一族に古くから伝わる悪しき風習ですわ」
「ひえーっ! 誘拐が文化とは恐れ入るよ! そこまでして結婚するくらいなら独身のままでいいや、あははっ!」
どっちみちモテないし! 一笑に付した彼は心の中で付け加える。
「全面的に同意します。そんな乱暴なオスと結ばれるくらいなら死を選びますわ」
舌を噛む仕草をするキュウコン。ココアで喉を潤した彼女は深い溜め息を吐く。
「狐の道に反する行為として大昔に廃止されたハズなのですが……前時代的な思想に凝り固まった好戦的な群れの個体を中心に、今なお前足を染める者が後を絶ちません。もう大体の想像は付くかと思いますが、さっき話しました方法で他の群れの縄張りを乗っ取ろうとする連中もそうですわ……!」
怒りで声を震わせるキュウコン。紅茶を啜ったベロベルトの大きな口から真っ白い息が漏れる。
「この手の話を聞く度につくづく思うよ。悪い習慣はキッパリ捨て去って、良い習慣だけ残していけばいいのに、ってさ。現実は上手くいかないんだねぇ……」
「はい。何世代、何十世代に渡って継承されてきた風習ですからね。根は相当に深いようです。完全に消えてなくなるのは遠い未来になるでしょう……」
悲観的な見解を述べるキュウコン。彼は再び深い溜め息を吐く。
「なるほどね。……で、そんな連中にコユキちゃんたちが対抗する方法が眉唾だったワケだ? オイラたちの唾液には、触れた獲物をビリビリ痺れされて、最後にはトロトロに溶かしちゃう特殊な成分が含まれているんだけど……ひょっとしてコユキちゃんたちの唾液にも何か特殊な成分が含まれているのかな?」
そう言って思い出すのは、濃厚なチーズドレッシングと半熟卵でシーザーサラダにしたリーフィアを食べた時の記憶だった。ネバネバの唾液で溢れ返るピンク一色の口の中を指差すベロベルト。前足の肉球をペロペロと舐めた彼女は大きく首を縦に振る。
「よくお気づきで。彼らは瞳から怪しい光を発して相手を化かすのですが……私たちの唾液には、それを遮ってしまう特殊な成分が含まれているそうです。なんでも、空気に触れるとすぐ揮発するらしく、眉の辺りに塗りたくることで煙幕の役割を果たすんですって。煙幕と言っても……ほら。完全に透明ですから何も見えませんけど! 本当に効果はあるんでしょうかね? これこそ眉唾ですわ!」
唾液を塗りたくった両前足を目の上に擦り付けるキュウコン。彼はヒューと口笛を吹く。
「上手いこと言うね、コユキちゃん! いいオチをつけたじゃないか!」
「うふふっ! ありがとうございます!」
片方の前足を頭の上に乗せた彼女は、少し恥ずかしそうにペロリと舌を出してみせるのだった。
「説明は以上です。極寒の中で凍え死ぬか、操り人形として一生を終えるか……ベロベルトさんはどちらがお好みですか?」
涼しい顔で究極の二択を迫るキュウコン。両手を前に突き出した彼は激しく首を左右に振るう。
「とんでもない! どっちもお断りさ! 諦めて大人しく食べさせてもらうよ。悪戯好きなキュウコン特製の美味しいお団子をね!」
「同感ですわ! その時は私も手伝いますから一緒に頑張りましょう!」
互いに顔を見合わせた二匹は大笑いするのだった。
「冗談はさておき……そんな場所じゃオイラ生きていける気がしないよ。誰も何とかしようとしなかったの?」
脱力感しかなかった。軽いめまいを覚えた彼は洞窟の壁にもたれかかる。
「しましたわ。私の群れの長である父が。嘘と暴力に満ちた一族の歴史を変えるべく立ち上がったのです」
主役の登場というワケだ。彼は目の色を変えて身を起こす。
「そこでお父さんが出てくるんだね。でも……どうやって? 他の群れの協力なしには無理でしょ? それにコユキちゃんたちは他の誰かに従うことを嫌うんだよね? ちょっと厳しくない?」
「織り込み済みでしたわ。そんな悠長なことを言っていられない危機的な状況が迫りつつあったのです」
腕組みをして首を傾げるベロベルト。ココアを口に含んだ彼女は即答する。
「危機的な状況? どんな状況だい?」
彼はオウム返しに尋ねる。
「そこで質問なのですが……ベロベルトさんはニューラ、そしてマニューラというポケモンをご存知ですか?」
今度こそ知っていた。彼は首を縦に振る。
「知っているよ。硬くて鋭い鉤爪が特徴的なイタチのポケモンでしょ? ずる賢くて獰猛な性格なんだってね? 仲間同士の団結力が強いから、大きな群れで狩りに出て、マンムーみたいな大物も簡単に仕留めちゃうって聞いたことがあるよ。……そうそう。ニューラなら少し前に食べたなぁ。あんな硬い爪まで消化できるとは思わなかったけど……流石はオイラの胃袋だね。ちゃんと全部ウンチになって出てきてくれたよ!」
「そっ……それはなによりで! そこまでご存じでしたら十分ですわ!」
柔らかな腹周りの贅肉を撫で回しながら舌なめずりするベロベルト。彼女は思わず半身に構える。
「えっと……それがどうしたの? まさかコユキちゃんたちのところに大挙して押し寄せてきたワケじゃないよね?」
彼女は目を逸らしてしまう。
「……そのまさかですわ。ごく最近に島へ流れ着いたばかりで、数も少なく、取るに足らない存在だと見なされていた彼らですが……凄まじい繁殖力であっという間に数を増やし、一気に勢力を拡大し始めたのです。ご存知のとおり、獰猛な性格ですからね。他の群れのロコンが襲われて食べられたという話も何度か耳にしましたわ……」
「うーん、子供を狙うのはいただけないなぁ。でも……それも弱肉強食かぁ。仕方ないね」
オイラたちの暗黙のルールは他所で通用しないのだ。彼は厳しい現実に打ちのめされる。
「あっ、レナードさんから聞きましたわ、その話。そう考えると……私とブルースは二回も助けられたことになるのかしら? いずれにせよ感謝ですわ!」
「そうさ、感謝してよぉ!? オイラが理性の欠片もない存在だったら、仲良くウンチにされているところだったんだからね! あのエーフィとブラッキーみたいにさ!」
苦笑いを浮かべながらペコリと頭を下げた彼女に、彼はわざとらしくふんぞり返ってみせるのだった。
「脱線させちゃった、ごめんね。……そりゃ一大事じゃないか。彼らも寒い場所で暮らしているんでしょ? ボヤボヤしていたら何もかも乗っ取られちゃうよ」
深刻な顔をするベロベルト。ココアを啜った彼女は大きく頷く。
「だからこそ父は動いたのです。一族を一つにする最初で最後の機会でしたからね。……程度の差こそあれ、どの群れも同様の危機感を抱いていたのでしょう。説得は極めて順調に進みました。父の計画を支持する群れが続々と加わり……私たちはロコン、そしてキュウコン史上かつてない規模の一大勢力を築いていったのです」
「……凄いね。コユキちゃんのお父さんはキュウコンの王様になったワケだ?」
「いいえ、よく誤解されますが違います。父にその気はありませんでした。服従の概念を持たない私たちには争いの種になるだけの存在だったからです」
返ってきたのは予想外の答えだった。彼の頭に疑問符が浮かぶ。
「……えっ? だったらどうやって何個もの群れを支配するの? そんな方法ある?」
「ありますわ。王様ではなく、ルールに支配させればいいのです。と言ったら……どんなのか想像つきます?」
少し困った顔で首を傾げるキュウコン。完全に思考停止した彼は目を点にする。
「……ごめん、ちょっと何言ってるか分からない。具体的に説明してくれる?」
思ったとおりの反応だった。彼女は大笑いする。
「でしょうね! 顔に書いてありますもの! ……分かりました! 簡単に説明させていただきますわ!」
落ちていた小石で何やら地面に描き始めるキュウコン。彼はグッと顔を近づける。
「……うん? なにを描いているんだい?」
「うふふっ! 当ててみてください! いまに分かりますわ!」
彼女の言うとおりだった。アッと驚いた彼は文字どおり舌を巻く。
「キュウコンの顔だ! うーん、絵心あるねぇ、コユキちゃん! よく特徴を捉えているよ!」
「ありがとうございます! 得意なんです、こういうの!」
褒め言葉に声を弾ませるキュウコン。その後も順調に前足を動かし続けた彼女は、五つのキュウコンの顔を描き終えたところで小石を置く。
「父が真っ先に取り組んだのは……群れ同士で頻繁に起きていた争いを撲滅することでした。これを成し遂げずに群れを束ねることは不可能だったからです」
「そりゃそうだ。内輪揉めなんかしているようじゃ話にならないよ」
何度も首を縦に振った彼は呆れ声で返す。
「それをこの図で説明しますね。顔の一つが群れの一つと思ってください。この群れを一番の群れとして……時計回りに二番、三番、四番、そして五番の五つの群れがあり、それぞれが平穏に暮らしていたとします。……ここまでは大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。続けて?」
前足の動きを目で追った彼は大きく頷く。
「承りました。そんな五つの群れですが……ある時に群れ同士で揉め事が起き、五番の群れが四番の群れに攻め込んだ、という状況を想定します」
「……あっ! さっきのアレだ! 化かされて嵌められて縄張りを乗っ取られちゃうヤツじゃないか!」
五番の顔から四番の顔に向けて矢印を引っ張るキュウコン。目を見開いた彼はピクリと身を震わせる。
「そうです。それをイメージしていただければ分かりやすいかと。……強い群れを嵌めたところで返り討ちに遭うのがオチですから、弱い群れが狙われるケースが大半ですわ。巻き添えを恐れた一番から三番の群れが見て見ぬフリをしている間も四番の群れは攻撃を受け続け……」
彼女は四番の顔の目元に涙を描き加える。
「……やっつけられちゃうんだ」
沈んだ声でボソリと呟くベロベルト。ポンと地面に石を置いた彼女は縦に首を振る。
「そうです。さっき言ったとおりの展開になってしまうワケです」
前足の肉球を地面にゴシゴシと擦り付けた彼女は、四番の顔を跡形もなく消し去ってしまう。
「それが数年前までの私たちでした。それを父は……このように変えたのです」
大急ぎで四番の顔を描き直すキュウコン。攻撃を受けた直後まで時計の針を戻した彼女は――一番、二番、そして三番の顔のそれぞれから五番の顔に向けて矢印を引っ張る。
「こっ、これは……!? いったいどういう……!? なんでこうなっちゃうの!?」
なにもかもが衝撃的だった。三本の矢印を凝視した彼は脳天を撃ち抜かれたような感覚に襲われる。
「仕組みはこうです。揉め事を暴力で解決しようとする者は一族の敵との考えのもと、和を乱す者に制裁を加える約束を事前に全ての群れの間で交わしておくのです。五番の群れが四番の群れに攻め込んだ瞬間、一番から三番の群れは約束に従って行動……すなわち五番の群れを一斉に攻撃するというワケです」
「こっ、こりゃ画期的だ……! 三対一なら負けるワケがない……!」
彼は熱に浮かされたように呟く。
「失礼、描き忘れていました。当然、四番の群れも反撃しますから……正しくはこうですね。ここと、ここも……こうしましょう」
地面に両手をついて舐めるように眺めるベロベルト。抜け落ちに気付いた彼女は矢印を一つ描き足し、四番の顔を笑顔に、五番の顔を慌てふためく顔に描き換えるのだった。
「ははっ、これで四対一だ! 一瞬でコテンパンだよ!」
「そうです。想像してみてください。仇討ちに燃える無数のキュウコンが四方八方から押し寄せ、ベロベルトさんをタタッコ殴りにする光景を……!」
「うーん……泣き叫びながら土下座するオイラの姿が目に浮かぶよ……」
後ろ足立ちになってジャブを打ちまくるキュウコン。イメージを膨らませた彼はブルリと身を震わせるのだった。
「……そうだ。やっつけられた五番の群れはどうなるの?」
彼は慌てふためくキュウコンの顔を指差す。
「雪山の山頂近くに追放……まではされませんが、重いペナルティを課せられますわ。この場合は……群れを縄張りごと東西南北で四分割され、それぞれ一番から四番の群れの管理下に置かれることになるでしょう。反抗しようにも戦力が元の四分の一では太刀打ちできません。群れをバラバラにして二度と争いを起こせなくしてしまうのです」
そこまで聞けば十分だった。彼は両手で膝を打つ。
「要は……争うだけ損をするようにして、揉め事の平和的な解決を促そうってワケだ。……うん、見えたぞ! ルールが一族の平和を守る! ルールが群れを支配するんだ!」
「そのとおりですわ。よく練り上げられたルールは王様にも負けない働きをするのです。拙い説明で申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げるキュウコン。腕組みをした彼は唸り声を上げる。
「それにしても……コユキちゃんのお父さんったら天才だね? こんな凄いアイデアよく思いついたものだよ!」
彼の言葉にキュウコンは少し恥ずかしそうにする。
「ありがとうございます。そんな父の背中に一歩でも近づけるよう精進していきたいところですわ。いま説明しましたのは、数あるルールの中の一部分に過ぎません。全ての群れをルールに従わせる中で団結させ、強大な相手に立ち向かう力を身に付ける……。これが父の考えた計画でした」
「おおっ、これまた上手だね、コユキちゃん……」
話しながらデカデカとマニューラの顔を描くキュウコン。四番と五番の顔の表情を元どおりにし、全ての矢印を消し去った彼女は――それぞれのキュウコンの顔からマニューラの顔に向けて一本ずつ矢印を引っ張るのだった。
「なるほどね。全ては決戦の日に備えるため、か……」
まじまじと五本の矢印を眺めた彼は大きく息を吸って吐き出す。
「そのとおりです。ですが……この構図が成立した時点で、両者の間で大きな戦いは起こり得なくなると言われています。父が目指したのはその状態でした」
「えっ、なんで? どう考えたって大きな戦いになりそうだけど? とんでもない被害になるよ、これ……。誰も無傷じゃ済まないだろうね」
「それですわ! ベロベルトさん!」
紅茶を啜りながら首を傾げるベロベルト。前足でビシッと指差した彼女は鋭い視線を送る。
「よく考えてみてください。そんな恐ろしい戦いを誰が望むと言うのです?」
「へっ? あぁっ……!」
逆転の発想だった。あんぐりと開かれた彼の口から琥珀色の液体がボタボタと滴り落ちる。
「だっ……誰も望まない! 誰も戦って傷つきたいとは思わない……!」
彼の回答にキュウコンは満足そうに頷く。
「そういうことですわ。対立し合う大きな集団の間には、争いが起こるのを抑止する力が生まれるのです。これを父は……抑止力と呼んでいました」
「抑止力、かぁ……」
吐き出すように言った彼は渋い顔をするのだった。
「なんだか複雑だね? そりゃ確かに争いは起きないだろうけど……要は睨み合った状態が延々と続くワケでしょ? そんな中で暮らしたいとは思わないなぁ。一日で胃袋が痛くなっちゃうよ」
でっぷりとしたお腹を大事そうに抱えるベロベルト。キュウコンは笑い声を上げる。
「あら、変ですね? とっても胃袋が丈夫だって話ではありませんでしたっけ?」
揚げ足を取られた彼はブスッとした顔をする。
「もぉ……細かいこと気にしないの! 精神的に参っちゃうよって言いたかったの!」
「うふふっ、ごめんなさい! ……私も同感でしたわ。こんなの所詮は危うい均衡の上に成り立つ仮初めの平和にすぎません。でも……それ以外に選択肢はありませんでした。なにより……」
「なにより……?」
復唱するベロベルト。キュウコンは小石を拾い上げる。
「それを彼らもやむなしと考えていました。私たちには意外な共通点があったのです」
彼女はマニューラの顔を大きな丸で囲む。
「へぇ……こりゃ驚いた。そんな臆病な一面があったとはね」
五本の矢印の先を見つめた彼は軽蔑の表情を浮かべる。
「それは偏見ですわ。彼らにだって理性はあります。無意味な争いを望むほど愚かではないのです。……恐らくは不測の事態を避けたかったのでしょう。計画が大詰めに差し掛かった辺りから、比較的に穏健なマニューラの一派が父に接触を図ってくるようになりました。暗黒の歴史に一匹で立ち向かう父の存在を面白く思ったのかもしれません。そのまま仲良くなってしまい、父の計画を手伝いさえした者もいたほどです」
驚きだった。彼は目を剥く。
「えっ……そこまで? 具体的には何をしたの?」
「これです。これを父に伝授したのです」
地面に摩訶不思議な模様を書き始めるキュウコン。彼は思わず首をひねる。
「何これ? 文字……ではなさそうだけど?」
「彼らが狩りをする時に使う記号です。樹木や岩の表面にサインを残してコミュニケーションを取りながら、連係プレイで獲物を仕留めるのです。複雑な内容すら簡単な組み合わせで表現できてしまう優れものですわ」
「へぇぇ……難しいことやってるんだね? 感心しちゃうよ」
ベロを伸ばすだけで狩りができるオイラは気楽なものだよ。彼はベロリンガに生まれた喜びを再確認するのだった。
「これを父は……多くの小競り合いの元凶だった縄張り問題を解決するために使いました。彼らと同じく樹木や岩の表面にサインを刻み、それぞれの群れの縄張りの境界を明確に示したのです。誰も好き勝手に縄張りを主張できなくなったことにより、揉め事の数は大幅に減ったと言われています」
「ちょっ、ちょっと待って? それ、さっき聞いた時も疑問に思ったんだけど……それまでのコユキちゃんたちって……?」
やおら起き上がって立ち小便のポーズをするベロベルト。頬を真っ赤に染めた彼女は両前足で顔を隠す。
「お恥ずかしい限りですが……そのとおりですわ。オシッコを引っ掛けていただけだったのです。……なんでもっと早くに問題視されなかったんでしょうね? 不思議ですわ!」
背中を向けて立ち上がり、ふさふさの九本の尻尾をピンと立てた彼女は、片方の後ろ足を高く上げるポーズをするのだった。
「やっぱり! そりゃそうなるさ。でもまぁ……解決できてよかったじゃないの。そういうことって結構ある気がするよ」
お座りの姿勢を取り直した彼女は冷たい息を吐き出す。
「あるんでしょうね、きっと! そうやって……父は利用できるものはなんでも利用しつつ、争いの芽を一つずつ摘み取る中で統一を推し進めていきました。しかし……夢の実現まであと一歩に迫ったところで、私たちの邪魔をする勢力が行く手を阻んだのです」
おおよその見当はついた。宙に視線を泳がせた彼の顔に薄ら笑いが浮かぶ。
「分かったぞ! ……こいつらでしょ?」
伸ばした長い舌で左右の目の上を舐めてみせるベロベルト。両前足を目の上に当てた彼女は深く頷く。
「そうです。時代遅れの思想に凝り固まった好戦的な連中ですわ。一族の伝統に反するだとか、かえって平和を損ねるだとか、なにかと理由を付けて父の計画への参加を断り続けたのです」
「あははっ、オイラは騙されないぞ! そりゃ嘘だ! 他の群れの縄張りを乗っ取ったり、他の群れの子を奴隷にしたりできなくなるのが嫌だからに決まっているじゃないか! そんな悪さをした日にはボコボコにされちゃうもの!」
お見通しだった。キュウコンを指差した彼は声高らかに笑う。
「そういうことだったんでしょうね。私も同じ考えです。そんな彼らですが……私たちに排除されてしまう事態を恐れたのでしょう。彼らは彼らでグループを作って私たちに対抗してきたのです」
体中の力が抜ける思いだった。彼は深い溜め息を漏らす。
「皮肉な話だよ。コユキちゃんのお父さんの頑張りが悪い奴らを団結させちゃったワケだ。……その後は? もはや仲間に引き入れるなんて無理な話だよね?」
小さく頷いた彼女の顔に深刻な表情が浮かぶ。
「はい。やがて両者の対立は決定的なものとなり……彼らの一団が私たちの縄張りに断りなく侵入した際、追い払いにきた一匹に乱暴したのが発端となって、全面的な衝突へと発展していきました。私たちと彼らの間で戦いになったのです」
「結果は!? 勝ったの!?」
両肩を掴まれた彼女はたじろいだ様子で頷く。
「え……えぇ。勝ちましたわ。数では私たちの方が上回っていましたからね。戦いは終始有利に進めることができました」
「ほっ、よかった……」
胸に手を当てた彼は深呼吸をする。
「あと……なによりも心強かったのは、父と交流のあったマニューラたちが作戦の立案を手伝ってくれたことです。悪巧みをさせたら彼らの右に出る者はいません。彼らが立てた優れた作戦のお陰で、私たちは各地で大勝利を収めることができたのです。ついでに言いますと……当時の私を含む子供たちも作戦に参加しました。ざっと数十匹は撃破しましたわ!」
絵面を想像した彼は恐怖に駆られる。
「えっと……どっ、どうやって倒したのかな……?」
「うふふっ! これです! 真っ向勝負なんか挑むものですか!」
前足で地面を掘る仕草をするキュウコン。彼は拍子抜けしてしまう。
「なぁんだ、落とし穴かぁ。……って、えっ? 落とし穴?」
背筋に冷たいものを感じるベロベルト。初めてマフォクシーのレナードと出会った時に聞いた話を思い出したのだった。
「ねぇ、コユキちゃん。その落とし穴だけど……先を尖らせた木の枝を仕込んだりしなかった?」
三角の耳をピクリと動かした彼女は驚いた顔をする。
「しませんわ、そんな恐ろしいこと! 大怪我を負わせてしまうではありませんか! 地面を深く掘っただけの普通の落とし穴ですよ。ただ……」
悪戯っぽい笑みを浮かべるキュウコン。四本足で立ち上がった彼女は腰を低く落とす。
「皆でトイレとして使っておく程度のことはしましたわ! かかった相手の心をへし折るのです!」
もっと恐ろしいものを仕込んでいるではないか! 彼は絶句する。
「えっ……えげつないことするね? さすがに可哀想すぎない?」
「ふんっ、可哀想なものですか。あんな奴ら臭い体になってしまえばいいのです。……ふふっ、思い出すだけで笑いが込み上げますわ。もがけばもがくほど深みにハマり……涙と鼻水でグチャグチャになった顔も茶色く染め上げられるのです。胸がすく思いでしたわ!」
うーん、とっても残酷! 心が折れる程度で済めばいいけど! 鼻息荒く豪語する彼女の隣で彼は苦笑いを浮かべるのだった。
「まぁ……あれだね。勝ったからいいんじゃない? ……それで? 負けた相手は? 大人しく降参して言うことを聞くようになったの?」
彼女は下を向いてしまう。
「……ほんの一部だけ。他の者は取り逃がしてしまいました。妖術で洗脳した奴隷に私たちを攻撃させている間に撤退の準備を整え、辺境の地に逃れていったのです」
「……清々しいまでのクズだね? 舐め溶かしてやりたくなっちゃう!」
怒りを通り越して呆れるほどだった。頭から湯気を立てた彼は目の前の宙をベロベロと舐め回す。
「えぇ、是非ともベロベルトさんに御馳走して差し上げたいものですわ。……でも、勝利は勝利でした。不当に奪われた縄張りを取り返し、解放した奴隷を元の群れに返し、何百年も続いた小競り合いの歴史に終止符を打ったのです。それはもう島中の話題をかっさらいましたよ。たった一匹で雪山に平和をもたらしたキュウコンの大首長に一目お会いしたいと、お祝いの品を持った島民が毎日のように訪ねてきたのを覚えていますわ……」
「その後……だったワケだ?」
歓喜の絶頂について暗い表情で話し続けるキュウコン。色々と察した彼はポツリと切り出す。
「ふふっ、そのままハッピーエンドで終わらせてくれたらよかったんですけどね。神様は残酷ですわ。そこから……私たちは坂道を転げ落ちていったのです」
ココアを飲み干すキュウコン。彼女の大きな青い瞳が涙で潤む。
「……すっかり忘れていました。これをベロベルトさんに。ジャローダさんにも同じものをお渡ししていますわ。ご一読いただければ幸いです」
「うん? どれどれ……」
行李の底から一枚の藁半紙を引っ張り出すキュウコン。真っ先に目を引いたのは、紙面の中央にデカデカと描かれたマニューラの似顔絵だった。両手で受け取った彼は記事を音読し始める。
「お尋ね者、生死を問わず、賞金一千万ポケドル、南洋の切り裂き魔……って、いっ、一千万ポケドルぅぅぅぅぅぅ!?」
思わず立ち上がるベロベルト。傍らで見ていた彼女は小さく頷く。
「そうです。一千万ポケドルです。そのネバネバの長い舌でぜひとも絡め取ってください。ご入用でしょう?」
「やだよ! 入用でも命は惜しいもん! どうせヤバイ奴なんでしょ!?」
ペロリと舌を出して皮肉っぽく言うキュウコン。彼は即座に拒否する。
「そうです。一口に言ってヤバイ奴ですわ。こいつが……父の命を奪ったのです」
「教えて、コユキちゃん! どうしてお父さんは殺されなきゃならなかったの!? なにか恨みを買うようなことでもあったのかい!?」
胸に縋りつかれた彼女は力なく左右に首を振るう。
「いいえ、なにも。彼は……ただ殺したかったから殺したのです。殺すことそのものが目的だったのですわ」
「なっ……なんだい、それ……。無茶苦茶じゃないか。いっ、意味が分かんないよ……」
理不尽としか言いようがなかった。がっくりと膝から崩れ落ちた彼は両手を地面につく。
「極めて闘争心が強く凶暴。闘争の成果ではなく闘争そのものを好む異常者。関わり合いになりたくない奴だった。……父と交友関係にあったマニューラたちから聞かされた彼の性格です。早い話が……殺すことで気持ちよくなってしまうイカレポンチに目を付けられたのですわ」
「へっ、変態だ……!」
股の近くで前足を前後に動かしてみせるキュウコン。彼は言葉を失ってしまう。
「……ちょっ、ちょっと待って!? 目を付けられたのは仕方ないとして、なんで接近まで許したの!? コユキちゃんたちは何をやっていたんだい!?」
胸に突き刺さる一言だった。彼女はギリギリと歯噛みをする。
「そこまで危険な奴とは誰も思っていなかったからですわ。手合わせを願いたいとの申し出があり、それに父は応じただけだったのです。ありふれた日常の一コマでした。疑問なんて誰も……!」
「そっ、そんな……」
罠にはめられたのだ。彼は目の前が真っ暗になる感覚に襲われる。
「……前日にジャラランガの族長と戦って快勝していたこともあり、気が大きくなっていたのでしょう。父は二つ返事で勝負を受けました。その選択が……命運を分けたのです」
初めて耳にする名前だったが今は気にしている場合ではなかった。彼はキュウコンの顔を覗き込む。
「お父さんは……最後まで気付けなかったのかい? そいつの殺意に?」
目に涙をいっぱいに溜めた彼女は小さく首を縦に振る。
「はい、恐らくは最後の瞬間まで……。全ては一瞬の出来事でした。勝負が始まる直前、目にも留まらぬ速さで父の懐に飛び込んだ奴が、その鋭い鉤爪で父の……父の胸を……!」
声を震わせるキュウコン。前足で口を押さえた彼女の目から大粒の涙がポロポロと零れ落ち始める。
ギュムッ。
できることは一つだけ。たっぷりと脂肪が詰まった柔らかな巨体で彼女の全てを受け止めてあげること。なにも言わずに力いっぱい抱き締めた彼は、真っ白いキュウコンが泣き止むまで、悲しみに打ち震える彼女の背中を撫で続けてやったのだった。
「即死だったのでしょう。駆けつけた時にはもう……。せめて……せめて一言だけでも言葉を交わしたかった……。今はただ……それだけが心残りです」
前足で涙を拭い、鼻水を啜りつつ、今にも消え入りそうな声で呟くキュウコン。ようやく抱擁を解いた彼は怒りのあまりに唇を震わせる。
「ゴハンにする以外の目的で命を奪うのは許されないことだけど……オイラがコユキちゃんだったら生かしてはおかない……! 楽しむ目的で命を奪う奴なんて! ……その後だよ! こいつは!? 皆で追いかけたの!?」
乱暴な口調でまくし立てるベロベルト。彼は手配書のマニューラの顔に何度も親指の爪を叩きつける。
「当然ですわ。でも……あまりに足が速く、誰も追いつくことができませんでした。結局は彼らの縄張りに逃げ込まれてしまったのです」
腸が煮えくり返る気持ちだった。いても立ってもいられなくなった彼は激しく頭を掻きむしる。
「あぁ、ムシャクシャする……! ダメじゃないか、そこは意地でも捕まえなきゃ! ……そもそもだよ! こいつは本当に殺したかったから殺したの? そうじゃない子も中にはいたようだけれども、大部分のマニューラたちにとって、お父さんは目障りな存在だったワケでしょ? 最初からコユキちゃんたちを攻撃するのが狙いだったんじゃないの?」
手配書を鼻先に突きつけられた彼女の顔に悔しそうな表情が浮かぶ。
「私は信じたくありませんでしたが……それを誰もが真っ先に疑いました。陰謀を企てた全ての者に裁きを下すべしとの声が噴出し、私たちは彼らに実行犯の引き渡しを要求しました。徹底的に取り調べた上で真相を究明し、父が定めたルールに則って罰を与えるためです」
「結果は? 応じてくれたの?」
キュウコンは無念そうに首を振る。
「いいえ、ダメでした。自分たちの掟に則って裁くとの一点張りで却下されてしまったのです」
彼は大きく息を吐き出す。
「納得できないね。そう思わない?」
残りの紅茶を口の中にぶちまけ、ガチャンとカップをソーサーに置くベロベルト。彼女は深く頷く。
「えぇ、到底受け入れられるものではありませんでした。即座に捕らえられて島流しの刑に処されたとの説明はありましたが……それこそ眉唾でしたわ。いずれにせよ……」
件のポーズをした彼女は手配書のマニューラの顔を凝視する。
「こうして奴が各地で殺しに手を染め続けているという事実が全てです。より強い相手を殺すほど強い快感が得られるのでしょう。父も合わせて犠牲者は十八匹に上るそうですが……いずれも相当な実力者を狙った犯行ですわ。ベロベルトさんが次の犠牲者にならないことを祈るばかりです。くれぐれも用心してくださいね?」
つくづく気色の悪い奴だ。反吐が出るよ。彼は手配書の似顔絵にペッと唾を吐き掛ける。
「実力者、ねぇ……。運が良かっただけのオイラは見逃してもらえないかなぁ?」
懇願するような眼差しを向けるベロベルト。彼女は困った顔をする。
「うーん、私に言われましても……。そうは見てもらえないでしょうね。そこは諦めてください」
「ははっ、だろうね! ……よぉし、分かった! ご忠告ありがとう! 十二分に気を付けるよ!」
こりゃ参ったな。今日から熟睡できないぞ……。心の中で呟きながら藁半紙を四つ折りにした彼は、いつでも取り出して確認できるよう、折り畳んだ手配書を尻尾の付け根に挟み込むのだった。
「それはそうとして……それでコユキちゃんたちは大人しく引き下がったの? まさかそんなことないよね?」
彼は彼女の両肩を掴む。
「えぇ、もちろん。一族の全員が怒り狂いましたわ。……理由の如何にかかわらず、二十四時間以内に引き渡しを行うこと。さもなければ諸君らの身の安全は保障しない。この条件を付け加え、私たちは同じ要求を彼らに伝えました」
「そっ、それって……つまり……」
身震いするベロベルト。顎を上げた彼女は前足で首をかき切るポーズをする。
「そうです。要求が受け入れられない場合は総攻撃するという意味ですわ。つまるところの最後通告を叩きつけたのです」
「あっ……ああ……!」
地面に目を落とすベロベルト。五つのキュウコンの顔、五本の矢印、デカデカと描かれたマニューラの顔。それら全てを視界に収めた彼の額から脂汗が滴り落ちる。
「とっ、ということは……そのまま要求は聞き入れられず、コユキちゃんたちは攻撃に踏みきった……?」
こうして手配されているという事実が全てだった。声を震わせながら尋ねるベロベルト。答えは――否だった。彼女は脱力した表情で首を振るう。
「……ふふっ、あと少し遅ければ違う結果になっていたのでしょうけどね。結局は……できませんでした。期限まで残り十五分に迫った頃、襲撃を受けているので助けてほしいとの連絡が複数の群れから寄せられたため、私たちは彼らの救援に向かうことになりました。攻撃どころではなくなってしまったのです」
「そんな! 向こうから攻めてきたってこと!?」
いきり立つベロベルト。青い目を見開き、歯と牙を剥き出しにした彼女は、怒りに震える両前足を目の上にあてがう。
「いいえ、こいつらの仕業でした……! 父のいなくなった状況を好機と見たのでしょう。逃げた先で体勢を立て直し、私たちに再び戦いを挑んできたのです……!」
「クズばっかりじゃないか! うぅっぷ……もうダメ。お腹いっぱいだよ……」
こんな陰惨な世界で生きてみたいとは死んでも思わなかった。食べるか、食べられるかの世界とはいえ、いまオイラが生きている世界は平和な方なのかもしれないなぁ……。お腹を抱えて崩れ落ちた彼はそんなことを思うのだった。
「とはいえ、所詮は前に倒した相手でしょ? また肥溜めに沈めてやったのかい?」
鼻を摘んでみせるベロベルト。予想外の出来事が起こったのは次の瞬間だった。
「……ああっ! あああっ! あああああああぁっ!」
うつ伏せに倒れるなり絶叫するキュウコン。堰を切ったように涙を流し始めた彼女は、前足を何度も地面に打ち付ける。
「こっ、コユキちゃん!? 急にどうしたの!? ちょっ……ちょっと落ち着いて! 悪いことを言ったなら謝るよ……って、いてっ! いててっ!」
お腹の分厚い贅肉のクッションが役に立たないほどの力だった。抱き起こすなりポカポカと殴りつけられる格好になった彼は悲鳴を上げる。
「わぁぁぁぁぁぁぁん!」
「ほっ、本当にどうしちゃったのさ!? とにかく落ち着いて!」
大泣きする彼女を前に困惑するばかりだった。背中に両腕を回した彼は、何度も彼女の耳元で呼びかける。
前足で涙を拭うキュウコン。彼女の口から飛び出したのは衝撃的な言葉だった。
「敗北を……喫しました。双方に多数の死傷者を出したのです」
「ええっ!? えええええええぇっ!?」
ツッコミどころしかなかった。彼の絶叫が洞窟中に響き渡る。
「……ちょっ、ちょっと待って!? 順番に整理させて!? 負けたって……どういうこと!? 数ではコユキちゃんたちが上回っていたんでしょ!? どこに負ける要素があったのさ!?」
激しく前後に揺さぶられた彼女は重い口を開く。
「……父と交流のあったマニューラたちの協力を得られなかったことが最大の敗因ですわ。きっと報復を恐れたのでしょう。父の埋葬に立ち会った翌日には逃げ帰ってしまっていたのです」
「あぁっ……そんな……!」
頼みの綱が切れていたのだ。彼は唇を噛み締める。
「そっ、それと……コユキちゃん? もう一つだよ! 死傷者を出したって……どういうこと? まさか死ぬまで戦ったのかい!? それも同族どうしで……!? どっ、どうかしているよ、君たち……!」
恐怖、侮蔑、そして怒り。全てが入り混じった視線だった。震える手で指差された彼女の顔に虚ろな笑みが浮かぶ。
「ふふ……仕方ありませんわ。今度こそ負けたらお終いなんですもの。全力で殺しにかかってくるに決まっているではありませんか。そんな連中を相手に力加減して戦えと? ベロベルトさんったら面白いことをおっしゃりますのね?」
「そっ、それは……」
言葉に窮した彼は下を向いてしまう。
「でも……そのとおりですわ」
「へっ?」
はらはらと涙を流し始めるキュウコン。予想外の台詞に彼は慌てて顔を上げる。
「理由なんか関係ありません。私たちは……先祖代々から受け継いできた、島の神様が住まう神聖な山を愚かにも私たちの血で穢したのです……! ご先祖様も神様も……こんな不甲斐ない私たちをお許しにはならないでしょう。戦いで傷付いた仲間の手当てをした私も同罪ですわ。私たちはもう……誰も天国へは……! あぁっ!」
腕の中で泣き崩れてしまうキュウコン。そこから先は言葉にならなかった。お腹の柔らかな贅肉を幾筋もの涙が伝い、股の近くの一点に集められて滴り落ち――そして地面に吸い込まれて消えていく。
抱き締める以外に何もできない自分が情けなかった。長いベロをハンカチ代わりに目頭を拭った彼は鼻水を啜り上げる。
「ごめん、コユキちゃん。事情も知らずに勝手なことを言って……」
彼自身も驚くほどの涙声だった。胸に顔を埋めたまま左右に首を振るキュウコン。彼女は真っ赤に泣き腫らした顔を上向ける。
「謝る必要なんてありませんわ。悪いのは愚かな道を選んだ私たちなのですから。……殺して憎まれ、殺されて憎み、また殺して憎まれ……終わりのない報復の連鎖の中で私たちは地獄に墜ちていきました。自分たちを窮地に追い込んだ父の血を引く者として憎悪の眼差しを向けられていたのでしょう。六匹いた兄姉も次々と戦場に倒れ……そして土に還っていきました」
「あ……悪夢だ……」
それしか言葉が見つからなかった。半開きになった彼の口から呻き声が漏れる。
「ふふ……まだまだ悪夢は終わりませんでしたわ。戦いが泥沼の様相を呈するようになった頃……味方の半数近い群れが私たちに反旗を翻しました。クーデターを起こされてしまったのです」
「なんで……どうしてなの……」
あまりの非情さに涙が止まらなかった。彼は全身を小刻みに震わせる。
「堪忍袋の緒が切れたのでしょう。父の計画に従ったがために多大な犠牲を払わせられたのですから。他にも色々と不満を募らせていたのだと思います。犯行は周到に準備されたものだったと聞きました」
「その後は……どうなっちゃったの?」
「……え? 聞いちゃいます、それ?」
やけっぱちな口調ですらあった。彼女の顔に冷淡な笑みが浮かぶ。
「殺し合うだけです。それ以外ありませんわ」
「あぁ……! そんなのダメだ、ダメだっ、ダメだよっ! お父さんの努力を台無しにするような真似しちゃぁ! 何もかも水の泡じゃないか!」
頭を抱えて叫ぶベロベルト。一方の彼女は達観した面持ちで宙を見上げる。
「きっと父は……気付いていなかったのだと思います」
「気付いていなかったって……何を?」
彼女は大きく息を吸い込む。
「これをしてはいけない、あれをしなければいけない、こういう時はこうしなくてはならない……。規則やルールで私たちを一つにするなんて無理な話だったのです。父のアイデアが優れていたからではなく、平和のために奔走する父の姿に心を打たれたからこそ、多くの群れが父に従ったのでしょう。父は……嵐の海を照らす灯台だったのです」
「お父さんは……偉大な存在だったんだね。みんなの英雄だったんだ」
青く透き通った大きな瞳を見つめながら呟くベロベルト。彼女の顔に一瞬だけ本物の笑顔が戻る。
「その灯台を失った時点で私たちの運命は決まってしまったのでしょう。浅瀬に乗り上げて座礁し、バラバラに砕け散って荒れ狂う海に投げ出され……」
彼女は両方の前足を喉に当てる。
「……溺れ死ぬのみだったのです」
息が詰まる思いだった。全てを悟った彼は静かに口を開く。
「だから……コユキちゃんは街へ移り住んできたんだね? その運命から逃れるために?」
彼の言葉にキュウコンは小さく頷く。
「そうです。もはや全滅は時間の問題となり……生き残った子供たちを保護者と共に島外へ脱出させる作戦が決行されました。その第一便に当時の私と母が選ばれ、少数の護衛と共に山を下りていったのです」
「すんなり下りられたの? オイラが敵なら絶対に狙うけど?」
伸ばした舌で彼女の首周りをぐるりと囲むベロベルト。案の定だった。彼女は表情を硬くする。
「お察しのとおりです。……どこからか情報が漏れていたのでしょう。見通しの悪い山道に差しかかったところで待ち伏せに遭いました。こいつらが先回りしていたのです」
「……やっぱり。無事に切り抜けられた?」
ペロペロと前足を舐めて例のポーズをするキュウコン。巻き取った舌を喉奥に仕舞った彼は緊張した声で尋ねる。
「いいえ。護衛は全滅、身を挺して私を攻撃から庇った母は……」
彼女は前足で片方の目を隠す。
「右の目を……失いました……!」
絞り出すように言った彼女の左目から涙が溢れ出す。
「そんな……! うっ、嘘だ……!」
危うく卒倒しそうになるベロベルト。彼女の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。
「ふふ……悪夢でも嘘でもありませんわ。これが現実です。これすら殺し合いのほんの小さな側面に過ぎないのです。……どうか覚えておいてください、ベロベルトさん。いったん殺し合いを始めてしまったら……みんな地獄に墜ちるのです」
淡々とした口調で語るキュウコン。涙と鼻水をダダ漏れにした彼は、嗚咽を必死に堪えながら何度も首を縦に振るのだった。
「……命からがら逃げ延びた私と母は、身を隠すことのできる島のジャングル地帯を目指して歩き続けました。もはや私たちを守る仲間は誰もいません。母子二匹で決死の逃避行を続けたのです」
「そいつらは……もう追ってこなかったの?」
結果は分かっていても震えが止まらなかった。彼はおずおずとした口調で尋ねる。
「いいえ、追ってきましたわ」
「えっ!? でっ、でも……この感触は幽霊じゃないよね?」
両手で頬を包まれた彼女は目を細くする。
「ふふ……あと少し運が悪ければ幽霊になっていたのでしょうね。……見るに見かねたのでしょう。どこからか父と交流のあったマニューラたちの一派が現れ、山の麓まで私と母を導いてくれたのです。さすがの連中も彼ら一族まで敵に回して戦う余力は残されていなかったらしく……遂に最後まで仕掛けてきませんでした。彼らのお陰で何とかジャングルに逃れることができたのです」
そういうところは計算できるのだ。憎たらしい奴らめ。心の中で悪態を吐くベロベルト。そんな彼の耳に異様なまでに明るい彼女の声が飛び込んでくる。
「ちょっと、ベロベルトさん! 何を怖い顔しているんです!? ここ笑うところですよ!? 私たちを最後に守ってくれたのは……敵だったのです! どうです、最高にウケますでしょう!? ふふっ……! うふふっ、あははっ! あははははっ!」
泣きながら笑っていた――否、笑いながら泣いていた。お腹をよじって笑い出した彼女の脳裏に血塗られた記憶がフラッシュバックする。
「見つけた! 有志連合の残党だ! 奴の妻子も一緒にいるぞ!」
「敵と結託して我々を滅ぼさんとした卑怯者どもめ! この前足で一匹残さず粛清してくれるわ! 覚悟しろ!」
「……待ち伏せだ! ここは私たちが食い止めます! お二方は早く逃げ……ぶっ!?」
「……やられたぁぁぁぁっ! 誰か助けてくれぇぇぇぇっ!」
「……反撃しろ! ご令室とご息女を守るんだ! 撃て、撃てぇぇぇぇっ!」
「この犬にも劣る見下げ果てた狐のクズどもが! これでトドメだ! 死ねぇぇぇぇっ!」
「……ぐわぁぁぁぁあっ!」
怒号、悲鳴、そして――断末魔。両耳を塞いでうずくまった彼女の顔に絶望の表情が浮かぶ。
「……いやぁぁぁぁぁっ! やめて! こないで! 殺さないで! 母さんっ! 父さぁぁああん!」
笑い声は絶叫に変わり――やがて啜り泣く声へと変わっていった。両前足に顔を埋めた彼女は小刻みに体を震わせ始める。
「コユキちゃん……」
地獄を……見てきたのだ。この世の地獄を……。そっと彼女に寄り添った彼は、こらえ切れずに顔全体をベロのハンカチで覆うのだった。
どれくらい涙を流し続けたことだろう。ようやく泣き止んだ彼女は悲痛な心情を吐露する。
「私なんて……死んでしまえばよかったんです」
「……どうしてそんなことを? お母さんから受け継いだ命じゃないか。無駄にしていいものじゃないよ?」
聞き捨てならない台詞だった。キュウコンの耳元に顔を寄せた彼は静かなる怒りを募らせる。
「だからこそですわ。足手まといの私さえいなければ、母は目を失わずに済んだのです。兄や姉だって、年の離れた末っ子の私を守るために前線を志願し……そして帰らぬ狐となりました。私さえいなければ……誰も傷つくことはなかったのです……!」
彼女は前足に顔を埋めたまま声を震わせる。
「本気で言っているのかい、コユキちゃん?」
「冗談で言っているように聞こえましたか?」
たしなめるように尋ねるベロベルト。返ってきたのは不機嫌そうな声だった。
「そりゃあ……」
返す言葉がなかった。そこまで言いかけた彼は口を噤んでしまう。
そうか、分かった! そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ! なにを思ったか、カップに熱々の白湯を注いでは飲み、飲んでは注いでを繰り返すベロベルト。空っぽになったケトルとカップを静かに置いた彼は――ジュルリと舌なめずりをして彼女を見下ろす。
「そっか……それなら遠慮はいらないね!」
「きゃっ!?」
短い悲鳴を上げるキュウコン。いきなり首根っこを鷲掴みにされ、ニタニタとした笑みを浮かべるベロベルトの顔の真正面まで持ち上げられたのだから当然だった。宙ぶらりんの格好になった彼女はキョトンとした顔をする。
「えっ……えっ? えっと……ベロベルトさん? これはどういう……」
「ベロォォォォォン!」
疑問の声は間の抜けた掛け声にかき消され、そして――
「んむむむむむぅ!?」
巨大な肉厚のベロに押し潰され、くぐもった叫び声に変えられる。ビクビクと全身を痙攣させるキュウコン。ベロベルトに思いきり顔を舐め上げられたのだった。
「……きゃあっ! いっ、いきなり何をするんです!? 下ろしてください!」
前足で何度も顔を拭いながら声を荒げるも、そんな彼女の要求はあえなく無視される。逆に高々と持ち上げられ――あんぐりと開かれた大口の真上に吊り下げられてしまうのだった。
「そっ、そんな……! 正気ですか、ベロベルトさん!? 目を覚ましてください!」
なにをしようとしているかは一目瞭然だった。白い顔を蒼白にした彼女は大声で呼びかける。
「正気だよ、コユキちゃん? あと、寝ぼけてもいないから安心して? オイラは言われたとおりにしているだけさ。コユキちゃんの望むとおりにね! ……うーん、柔らかい! コユキちゃんの肉球! プニップニだ!」
後ろ足に舌を絡めながら幸せそうな顔をするベロベルト。前足で股間を隠した彼女は顔を真っ赤に染め上げる。
「なっ……舐めないでください! 汚いですわよ、そこ! ……じゃなかった! 言っていませんわ、そんなの! 食べられたいなんて、私は一言も!」
ブンブンと首を振りながら悲鳴を上げるキュウコン。彼は白けた目線を送る。
「嘘はいけないなぁ、コユキちゃん! 確かに言ったよね? ……私なんてぇ、死んでしまえばいいんですぅ、って! 言ったことには責任を持たないと!」
声真似をしながら反論するベロベルト。一層に大きく口を開けた彼は――ネバネバの唾液で溢れ返る桃色の洞窟の奥深くを見せつける。
「というワケで……オイラが美味しく食べてあげまぁす! コユキちゃんはお父さんの元に行けて、オイラはお腹いっぱいになれちゃう! お互い得しかないよねぇ……!」
「んああっ……!」
そんなのゴメンでしょ? 震えるキュウコンの頬に舌を這わせながら心の中で付け加えるベロベルト。待ち受けたのは――予想の斜め上を行く展開だった。ピタリと抵抗を止めた彼女はガックリと頭を垂れてしまう。
「……分かりました。私の全てを差し上げますわ。煮るなり焼くなり好きにしてください」
えええええええぇっ!? そこ諦めるところじゃないんですけど!? 危うくズッコケそうになった彼の全身からドッと冷や汗が噴き出す。
「……ありゃ、えらく潔いじゃないか。どういう風の吹き回しだい?」
動揺を隠しながら尋ねるベロベルト。彼女は澄んだ瞳で視線を受け止める。
「元を辿れば助けていただいた命ですもの。どう使おうがベロベルトさんの自由です。私に口出しする資格はありません。強くて逞しいベロベルトさんの一部になれるのなら本望ですわ!」
なんて嬉しいこと言ってくれるんだ! こうなったら徹底的に幻滅させてやる! 涙を飲んだ彼は苦渋の決断を下す。
「わぁ、ありがとう! そこまでオイラのこと思ってくれていたなんて! 感激だよ! でも……分かっているよね、コユキちゃん? 最後はウンチになっちゃうんだよ? お尻の穴からブリブリッと絞り出されてね! こんな汚い終わり方でいいのかい?」
「そっ、それは……」
伸ばしたベロで三段の蜷局を巻いてみせながら踏ん張る姿勢をするベロベルト。下品な言葉とジェスチャーの数々に彼女は嫌悪感を隠せない。
「それと、もう一つ。オイラの口の中だけど……」
ごめんね、コユキちゃん! 心の中で謝罪すると同時に彼は大きく息を吸い込み、そして――
「……ムハァァァァァッ!」
茶色く淀んだ息吹に変えて彼女の顔に吐き掛ける。すえた汗と垢の臭い、腐敗した食べカスの臭い、極め付きは――口の中全体に染み付いた、味がなくなるまで舐めしゃぶられて呑まれていった獲物たちの体臭。暴力的なまでの汚臭が彼女の嗅覚を粉砕する。
「うぶっ……!」
危うく胃袋の中身を吐き散らかしそうになるキュウコン。目に浮かんだ涙の理由は悲しみではなかった。彼女は堪らず両前足で口を塞ぐ。
「……臭いよ? くれぐれも覚悟してね?」
「やっ、やっぱり嫌です! くちゃいの苦手で……んむぅっ!?」
ほぉら、やっぱり! 心にもないことを言ったお仕置きだ! ベトベトになっちゃえ! 彼はキュウコンの顔面に厚ぼったいベロを力いっぱい押しつけ――
「ベロンッ! レロンッ、ベロレロンッ! ベロベロベロベロォォォォォン!」
「んんっ! んああっ! んあああああああっ!」
そして容赦なく舐め回す。さも楽しそうに舌を動かすベロベルト。気持ち悪さのあまりに絶叫するキュウコン。ねっとりと首から上を舐めまくられた彼女は――あっという間に顔中を唾液塗れにされてしまうのだった。
「……ぶはぁっ! だぁめ! もう遅いよ! さっきも言ったでしょ? 言ったことには責任を持たないと!」
心ゆくまで舐められて大満足だった。両手でバツ印を作った彼は、股の高さまでベロを垂らす。
「さぁ、コユキちゃん! 次に舐められたいのはどこだい? 前足? 後ろ足? お胸? お腹? 背中? それともお尻かな? あぁ、お股も遠慮しないで! 九本の尻尾もね! ビリビリ痺れて気絶したところをゴックンチョしてあげる! 明日の朝にはオイラの一部さ!」
タプタプとした分厚い腹肉を摘まんでみせながら迫るベロベルト。大ダメージを受けてヘロヘロになった彼女を見つめた彼の顔に下卑た笑みが浮かぶ。
「くちゃいのが苦手なら今の内に鼻を慣らしておかないとね! 嗅がせてあげる! オイラのお腹の底のニオイを……!」
もう嫌われてもいいや! 食らえ! オイラとっておきの必殺技! 息が詰まる話ばかり聞かされたお陰で既にガスで満杯だった。胃袋に神経を集中させるベロベルト。大きく喉が波打った次の瞬間――
「ゲェェェェッップ!」
茶色がかった紫色の瘴気が口から勢いよく溢れ出し、そして彼女の顔にぶっ掛けられる。
「あぁ……神……様……」
毒タイプの技はフェアリータイプに効果抜群。前足を合わせて短い呻きを漏らした彼女は、遂に目を回してしまうのだった。
「あーあ、気絶しちゃった。やりすぎだったかな?」
ブクブクと大量の泡を吐いたので尚更だった。ぐったりと脱力した体を両手で抱えた彼は罪悪感を募らせる。
さて、一服させてもらおう。お目覚めの一杯も用意してあげないと! 彼女を横向きに寝かせ、乾いた唾液がこびり付いた薄汚れた毛布を引っ張り出して肩まで掛けてやった彼は、空っぽのケトルを片手に水瓶に水を汲みに行く。
「ちぇっ、いくら何でも早すぎるよ。おまけにこっちも。やっぱり出しきれてなかったのかぁ……」
水を汲み終えた直後に襲ってきたのは猛烈な尿意と便意だった。そそくさと焚き火の前に戻ってケトルを火にかけるベロベルト。ブビッと湿った屁をこいた彼は、贈り物の防寒着が詰まった木箱を引き寄せる。
「……えへへっ、これは失敬! ちょっとウンチしてくるよ! ついでにオシッコもね!」
恥ずかしげもなく宣言しながらニット帽とミトンを身に纏うベロベルト。しっとりと汗で湿ったブーツに足を通したら装備は万全だった。彼はピンと立ったキュウコンの耳に口を近付ける。
「……じゃ、ちょっとの間だけ留守番を頼むよ。すぐに戻るからね、コユキちゃん」
毛布をポンポンと叩いた瞬間に彼の脳裏に蘇ったのは――泣きじゃくる彼女の声だった。ミトンをはめた両手を毛布の上に置いた彼は静かに目を閉じる。
「オイラも一緒さ。君と同じことをどれだけ思ったことか。でも……諦めちゃダメなんだ。前を向いて進み続けるしかないんだ。命ある限り……!」
半分は自分に向けた言葉だった。頬を濡らす涙をベロで拭った彼は静かに立ち上がる。
「……って! こんなことしている場合じゃなかった! もれ、もれっ、漏れるぅぅぅぅぅぅ!」
もう限界だった。内股になって足踏みしながら絶叫するベロベルト。真冬にもかかわらずダラダラと脂汗を流し始めた彼は、はち切れんばかりの豊満な肉体をユサユサと揺らしながら、全速力で洞窟の外へ向かって疾走し始める。
「……あぁっ! だめだめだめぇぇぇぇぇっ! 忘れ物っ! ……えぇい、こうなったら! そぉれ! ベロォォォォォン!」
道のりの半分を過ぎた辺りで急ブレーキをかけて振り返るも、もはや取りに戻る時間は残されていなかった。例の珍妙なポーズを取った彼は、最後に置いた場所の記憶だけを頼りに、真っ暗闇の中でベロを伸ばす。
「……あった、これだ!」
確かな舌触り。ベロを引っ込めた彼の舌先にあったのは――トイレットペーパーだった。九死に一生を得た彼は安堵の溜め息を漏らす。
「……ふぅ! 危ない、危ない! 最後の手段を使わなきゃいけないところだった!」
クルクルとロール状に巻き取ったベロを喉奥に仕舞いながら意味深なことを呟くベロベルト。ミトンをはめた両手で儀式の必需品を大事に抱えた彼は、おぼつかない足取りで残りの道のりを駆け抜けていったのだった。
24/08/11 07:45更新 / こまいぬ