彼女がそれを感じたのは何時以来のことだったか、気が遠くなる悠久の時の流れに身を置いて、 静かに眠り続けてきた者が、淀んだ沼の底で頭を擡げた。 ゆっくりと開いたの紫の双眸が、泥水の中でも澄んだ水のようにそれを見通していく。 ……見つけた。 沼地の中央の水面に、一艘の小舟が浮かんでいる。 それ自体も珍しいことだったが、妙なことにいつまでも舟が動こうとしない。 常日頃から同じ事の繰り返し、変わらない毎日の中で起きた久々の変化が彼女の興味を引いた。 『いったい、どうしたのか?』 たわいもない疑問が、彼女の好奇心を思いのほか強く擽る。 それに……彼女が感じた懐かしいそれは、頭上に浮かぶ小さな小舟から…… 無視をするのは容易いが、あえて彼女は好奇心を満たすことにした。 これが悠久の時を孤独に過ごした彼女が、外界へと赴いた発端であり、 彼女の運命を変えた原因であった。 ※ ※ ※ 「そなたは一体何をしているのかえ?」 あらゆるモノを呑み込む沼から、音をたてて泥の水柱が立ち上る。 沼地の水面は揺れ、翻弄される小舟に真上から影が差した。 水柱が限界点で砕け雨のように降り注ぐ中、現れたのは青灰色の長大な柱。 表面には細かい青灰色の鱗がびっしりと覆っており、呼吸をするかのように柱は膨張収縮を繰り返している。 その柱が途中で折れ曲がり……巨大な蛇の頭が姿を現した。 鎌首を擡げ、頭を揺らす巨大な大蛇の眼下にある泥船の船上には、 まるで食べてくださいよと言わんばかりの無防備に眠りこけている青年が一人。 先ほどの声はこの青年に向けられたものだが、 この場には人語を話すものなど見受けられないとすれば、先ほどの声の主は…… 「これ妾が尋ねておるのに無視は無かろうぞ?」 再度、眠り続ける青年に向けて響いた声。 少々時代のかかった古いもの言いだが、それとなく貴賓が判じられる。 問題なのはそれが……巨大な蛇の口から発せられたということだ。 ※ ※ ※ 目を見張る巨体に人語を喋ることもそうだが、この大蛇ただの蛇ではない。 神名という名を持った歴とした神様なのである。 神名を『水蓮』(すいれん)という。 位は下級神の立場だが、数百年近くも神をやっているだけあって、体がもの凄く大きい。 胴回りは最低でも成人男性の肩幅を二回りほど上回り、人を楽に丸呑みしてしまえるほど大きな頭部から、 沼の中に隠されている尾の先まで優に百メートルを超える。 厳密に言えば彼女の姿は蛇に似てこそいるものの、本質はまったく別物。 頭部には水の振動を敏感に感知するヒレを持ち、蛇などに見られる特有の蛇腹は存在しない。 他にも幾つか普通の蛇にはない特徴が見て取れた。 そもそも百メートルを超える体格だという時点で、蛇という種族の概念、範疇を超えている。 神は神であって、それ以外でも、それ以上の存在ではないのだ。 ※ ※ ※ そんな彼女がどうして、この青年に惹かれるものを感じとったのかは定かではない。 単なる神の気まぐれという線もないわけではないが、 一度は強く感じた懐かしいそれも、すでに跡形もなく消え去っている。 それでも水蓮は執拗に青年に拘り、声をかけ続けていた。 「……そろそろ、起きてくれぬかえ?」 その願いに青年は寝返りを打って答えた。 反対向きにそっぽを向いた顔を追いかけて水蓮の頭部が回り込むと、再び青年に声をかけた。 「……んぅ」 「おおっ、ようやく目覚め……」 「……うぅん」 一度は反応を示した青年だが、またすぐに寝返りを打って逃げてしまう。 凄まじい寝起きの悪さだ。 さすがに落胆したのか水蓮は、重苦しい溜息を吐き出してしまう。 此処まで無視されてまで、ただの人に拘ってしまうのか……それは当人もよく分からなかった。 よく分からないから、逆に拘ってしまうのかも知れない。 それに……意地もあった。 神様が無視されたから、すごすご帰るなど威厳のへったくれも無い。 「妾はそなたと話がしたいのじゃ……これ、起きぬか!」 今度は青年の耳元で強く語りかけた。 驚かせるだけでなく、怯えさせてしまうかも知れないが承知の内だった。 だが…… 「これでも起きぬのか……ここまで鈍感じゃと逆にすごいのう」 神様を感嘆せしめるほどの寝起きの悪さ。 水蓮が最初に声をかけてから、丁度十分の時が流れていた。 「さすがの妾も少々飽きてきたわ……」 ところで、蛇とは似つかず水蓮は自身の感情を多彩な表情で表現して見せた。 今回は言うまでもなく、あきれ顔である。 表情豊かな蛇など聞いたこともないが、水蓮の表情の多彩さは目を見張り、見ていて飽きない。 その多彩さはまるで人間のようだ。 ……と、またもや水蓮の表情が変わり、 口元が僅かにつり上がった……そう、悪巧みを考えた子供のような表情だ。 「くっくっく……ならば……」 一体どうするつもりなのか、徐に顔を青年に近づける水蓮。 そのまま何をするのかと見ていれば、先の割れた舌でペチペチと青年の体を叩き始めた。 「ほれほれ……どうじゃ……ん?」 「……ん……んぅ!」 「ふぐっ!」 直接青年の体を刺激して、無理矢理起こすつもりだったのだろうが、 体を叩く舌を邪魔だと言わんばかりに、青年は素手でそれを叩き返えしてしまう。 舌に走るジンジンとした痛みに水蓮は惚けた顔。 まさか叩き返されるとは夢にも思っていなかったのだろう。 「酷いのう……まったく持って酷い奴じゃ……」 何が酷いのかはさておいて、いじけるような表情を見せながら舌を引っ込めると、 ついには沼の中へと戻っていってしまった。 僅かばかり波が立ち、舟がユラユラと揺れるが、それも直ぐに収まる。 奇妙な沈黙から、三十秒後…… 「……行ったのかな?」 今まで眠っているかと思われた青年が、うっすらと目を開き周囲を伺う。 その心配をよそに水蓮がいなくなった水面は暫く揺れた後、何事もなく静かで穏やかだ。 「ふぅ……助かったのかな」 まだ実感が湧かないが、青年は今までの寝たふりを止めて体を起こした。 相手を欺くために長い間、体を動かさずにいた為に地味に無視できない痛みが走る。 それを解すために青年はゆっくりと伸びをした。 「ぐっ……ぐぅ…………ぅっ!」 筋肉がゆっくりと解れていく快感に声を漏らし、軽く体を捻って関節の調子も確かめる。 このころになって、ようやく実感できた安堵感にホッと胸をなで下ろした。 ”ベチャ” 服に触れた手が粘つき張り付く。 思い当たることがあり、恐る恐る目を向けると透明な液体がベットリと…… それは水蓮の舌を振り払った際に付着した彼女の涎だった。 「……うぁっ」 思わず青年は呻き声を上げてしまう。 顔は青くなり、いかに自分が危険な綱渡りをしていたのかを思い知らされていた。 気取られまいと必死に押さえ込んでいた恐怖が一気に吹き出し、 心臓が高鳴って異様な興奮が心を支配する。 彼の村で語り継がれているお伽噺に登場する白蛇様の物語。 それにずっと昔……この湖に五メートルほどの白蛇がいたと語られていたが、 人を易々と丸呑みしてしまえそうな、あの大蛇はそれとは違いすぎる。 「うぅ……喰われるかと思ったよぉ」 体を抱えて青年が震えている。 無理もない、ずっと見ていたのだから。 大蛇が沼から水柱をあげて鎌首を擡げたときから、青年はずっと薄目を開いて伺っていた。 自分は眠っていると言い聞かせ、ばれないようにと寝たふりを演じた。 それでも目の前まで舌が伸びてきたときは、思わず悲鳴をあげそうになった。 舌を振り払ったのは恐怖に駆られ自然と手が動いただけ。 自分が生きているのが逆に信じられない。 「何だったんだろ、あの化け物みたいな蛇は……?」 「失敬な妾は化け物蛇ではないぞ?」 「えっ?」 青年の目が泳ぎ、汗がじんわりと服を濡らす。 「ど、どこ?」 「くっくっく……分からぬかえ? なら、化かし合いは妾の勝ちのようじゃ」 周囲を不安げな目で見回す行為を、嘲るように笑う声がどこからか響いてくる。 気のせいではない……だが、姿が見えない。 ”ピチャン” 船尾付近の泥の水面に小さな波紋が広がる。 「……後ろ!?」 不自然な水音に青年は船尾の縁に手をかけて身を乗り出した。 その頃にはすでに無数の波紋が、幾重にも重なるように水面を波打たせ模様を作り出す。 青年はその光景を見つめ息を呑んだ。 水面の異変はそれだけでは留まらず、沼の奥底からゴボゴボと湧き上がり水飛沫が上がり始める。 「な、何がどうなってるんだよ!」 今にいたり青年はこの場にいると不味い。 速く逃げなければと、慌ただしく動き出した。 手こぎの櫂を取りだし、船尾に素早く固定すると櫂を漕ぎ舟を移動させる。 そして……水蓮は再び姿を現した。 タイミングを計ったかのように泥の水面を突き破り、自身の長大な体を見せつけるように高々と擡げてみせる。 青灰色の艶やかな鱗には一滴の泥水さえ残らず、 巻き上げた水飛沫は周囲に泥の雨となって降り注いだ。 さらに巨大な質量が動いたことによって、泥の水面も激しく波打つ。 「うわあぁあぁぁ!!!」 櫂を漕ぐため立ち上がっていなければならなかった青年が、もんどり打って船上に倒れ込んだ。 幸運にも沼への転落は免れたが、襲い来る高波によって舟は上下に激しく揺さぶられる。 「……ま……ずい!」 打ち寄せる波が舟の船尾に襲い掛かり、舟の櫂を攫っていく。 それを為す術もなく、倒れた衝撃で掠れる視界の端に見ていることしかできなかった。 しかし、青年はそれに捕らわれることなく、舟を転覆させないように、 必死に舟の重心を安定させバランスを取る。 それが功を奏して、時間と共に波も穏やかになり転覆を免れることが出来た。 「はぁ……はぁ……」 「ほう、中々の手際じゃのう……」 全ての力を使い果たしたかのように、息も絶え絶えの青年を見下ろす紫色の双眸。 青年の手際の良さに感服した水蓮がそれを褒め称えた。 少し距離が離れた小舟の方へと進み、青年の傍へと頭を移動させる 「そなたの名は何というのじゃ?」 「……ひぃっ!」 水蓮の問いかけに、青年は当然のように答えることが出来なかった。 恐怖で凍り付いた青年は、巨大な大蛇の顔を凝視したまま、唯一右手だけが何かを探して動いているが、 捜し物であろう舟の櫂はすでに手の届かない場所に消えている。 沼の中に落ちたら死は確実であり、予備の櫂が小さな小舟にあるはずもない。 青年は完全に沼の中央に取り残されてしまったのだ。 百メートルを超える大蛇に、矮小な人間が向かい合えば、容易に無情な自然の摂理に思考が向く。 それは当然のことだから、青年は酷く怯えていた。 しかし、水蓮は違う。 見かけは巨大な大蛇だが、彼女は神であり通常の自然の摂理とは異なる法則で生きている。 故に青年と取って食おうなどと言う考えは微塵もなかった。 それは彼女が姿を現した理由を考えれば分かるだろう。 ただ、水蓮には一つ困った趣味がある。 それは……他種族をからかって遊ぶのが大好きだと言うことだ。 そんな彼女がこの状況を楽しまないわけがない。 「まぁ、名前など何時でも聞ける。 それよりも……妾を侮辱したそなたを一体どうしてくれようか?」 「……ぁっ……く、来るな!」 芝居のかかった仕草で、先の割れた舌を出し水蓮は口を軽く開いてみせた。 隙間から覗いた鋭い牙は、青年を易々と串刺しにしてしまえるほどの大きさがあり、 それでなくとも巨大な口は人間を丸呑みにするには十分過ぎる。 これで怯えるなと言うほうが無理である。 腰が抜けた青年は顔色を悪くして、その場に座り込んでしまった。 「……うっ……ぅぅ」 「くっくっく……もう逃げられぬようじゃのう」 ”ペロ” 「……ひぃ!」 固く目を瞑り顔を背けた青年の頬に、水蓮の先の割れた舌が撫でるように這う。 その生々しい感触に漏れ出たのは悲鳴…… それからも幾度か舌が這わされ、涎が青年の頬を伝い胸元を湿らせた。 すると服がはだけ、より舐めやすくなった胸元に舌が這う。 「ひゃぁ……ああっ…………あふぅ」 肌に触れた舌の感触に青年の体が痙攣、思わず漏らした声は喘ぎ声として鳴り響く。 「ほぉ、気持ちよいのか、ならばもっと舐めて進ぜよう」 「あふっ! いやだ、もう止めて……怖い」 頬に青年の涙が伝う、体は恐怖のあまり痙攣を起こし、発作のように浅い息を繰り返し始めた。 目は焦点があっておらず、明らかなショック状態。 さすがに限界のようだ。 此処からトドメを刺す残酷さは水蓮にはない。そもそも、此処まで追いつめるつもりはなかった。 確かにイタズラは好きだが、引き際も心得ているつもりのはずだが、 青年の反応があまりにも楽しすぎたため、つい調子に乗ってしまったのである。 その御陰で、青年はパニック寸前に追い込まれていた。 こうなると何をしでかすか分からず、下手をすれば沼地に飛び込んでしまいそうな様子である。 当然そうなれば青年は死んでしまうだろう。 こうして顔を出している神様の水蓮でさえ、泳いでいるわけではない。 単に長い体を持ち上げているだけなのだ。 「すまぬ……少々戯れが過ぎたようじゃ」 潮時を悟り、水蓮は青年をからかうのを止めた。 気持ちを切り替え、神としての立ち振る舞いをするために…… ※ ※ ※ 青年を見下ろし、楽しげに笑っていた水蓮の雰囲気が一変した。 威厳のあるものに変わり、表情には慈愛が溢れる。 目に見える程の変化に青年が背けていた顔を、目の前の大蛇に戻していく。 「えっ……な、な?」 大蛇の目を見た途端に青年は目を動かせなくなった。 意に反して体が動かない事に、青年は戸惑いと驚きを隠せない。 「人の子よ、妾はこの辺りの水を浄化し清める水神・水蓮という」 神々特有の神々しさを佇まいから感じさせ語りかける水蓮。 先ほどまで青年をからかって遊んでいたことなど、微塵も感じさせない。 「確かに妾の姿はそなたらから見れば確かに蛇じゃろうて、その目には驚異に写っても仕方がない。 じゃが神にも矜持はある、せめて先ほどの化け物蛇は取り消して欲しい」 力強い声に意識を、惹き付けられるような魅力に青年は心を鷲づかみにされる。 あれほど恐怖を抱いていた相手に見とれてしまう。 生き物としての格が違った。 だから自然と聞き入れてしまう。 神の願いを……無意識に頭を垂れながら頷いて…… そこに己の意識が入り込む余地はない。 「……は、はい。分かりました」 そうやって傅かれた水蓮に少し寂しそうな顔が浮かんだ。 変わり者の神様は思う。やはり相手を傅かせてしまう神の振る舞いは苦手だと…… そこで水蓮は一考する。 直ぐにニンマリと意地悪な顔になると、 神の雰囲気を演技に変えて仰々しく青年に声をかけた。 「うむ。願いを聞き入れてくれて嬉しく思うぞ。 ほれ、何時までも頭を下げておるな、仲直りしようぞ?」 「……はい」 「ならば、近う寄れ……遠慮することはない」 今はまだ神の呪縛に捕らわれている青年は、従順に水蓮の言うことを聞く。 これは一種の催眠状態に近いものなのだ。 だから、相手は疑問に思わないし、どうなるかも厭わない。 これから青年を解放するには、大きな衝撃を与えればよいのだが、 水蓮が今考えている事は確実に青年を正気に戻すだろう。 「水蓮様……?」 「くくくっ……では、そこを動くではないぞ?」 言葉通り此方に寄り立ち止まった青年に目をやると、水蓮は徐に目の前で大口を開けはなったのだった。 ※ ※ ※ 視界を覆い尽くす一色の赤、肉の色。 それが目の前にあると青年が気が付いたのは、水蓮が口を開けはなってからきっかり十秒後のことだった。 吐息が顔をくすぐり、先の割れた舌が視線を奥へと誘う。 薄暗い喉の奥を見ていると吸い込まれそうだ。 「え?」 更に開かれた巨大な口が迫った。 身に近寄る危険に、青年の目に正気の光が戻る。 「うわぁあああ! あぐぅっ!!」 青年はあらんばかりの大声で悲鳴をあげる。後ずさる足はもつれ見事にひっくり返った! したたかに頭を打ち付けて青年は悶絶…… ……青年が正気に戻ったことを確認すると、水蓮は徐に欠伸をする。 勿論演技だ。暫くして口を閉じると、まだ悶絶し頭を抱えた青年の姿が目に入った。 「ふわぁ〜……ん? ……何をしておるのじゃ?」 「ひぃ……ひぃ……い、今俺を喰おうとしただろ!」 「くくっ……くっはっはっは! それはそなたの早とちりじゃ……くくっ……さっきのは単なる欠伸じゃぞ?」 長いからだがクネクネと揺れ動き、水面が揺れに揺れてまたしても舟が転覆しそうなほど翻弄される。 振り落とされそうな青年の悲鳴が上がるが、水蓮は構わず笑った。 人をからかって笑うなど妙な神様もいたものだが、水蓮は昔からこうだった。 ずっと昔……まだ沼地が綺麗な湖だった頃から、 様々な生き物を驚かせて、それが上手くいったときはこうして笑っていた。 余談だが、その時の様々なエピソードが『イタズラ好きの白蛇様』という御伽話になって、 この沼の近辺にある青年の村に伝わっていたりする。 ※ ※ ※ ”ギシィッ……ギィ……” 木が軋む鈍い音を響かせて青年は巧みに舟の櫂を操り沼地を進む。。 端から見ていてもそれは素人の手付きではない。 その手が急に止まると、恐る恐ると言った様子で青年が振り返る。 付かず離れずの距離を保ったまま、後ろから付いてくる水蓮を気にしているようだ。 此方を見つめる疑いの目に水蓮は…… 「まだ妾を疑っておるのかえ? 言ったじゃろ、妾は生き物を食したりしたりせん」 「ま、まだ何も言ってないよ……!」 心の内を見事に言い当てられて、青年は何処か焦ったように体ごと向き直る。 その態度が図星だと言っているようなものだが、水蓮はあえてそれは指摘をしない。 言わずに見ていた方が楽しいということもあるが、 水蓮は青年と仲直りしたいと思っていて、これ以上話をややこしくしたくないからだ。 「なら、誤解は解いて貰えたと思って良いのかえ?」 「ほ、本当に、俺を喰う気は無いんだね?」 「安心せい……それ相応の理由がなければ神は生き物を食すことは出来んのじゃ それは何度も説明したじゃろ?」 「う……ん、分かった。まだ怖いけどあなたを信じてみる」 そう言った青年は何処かホッとしたように息をついた。 「ようやく誤解を解いて貰えたようじゃな、妾は嬉しいぞ」 同様に水蓮もホッと溜息をつく。 その顔にはくっきりと青年のものらしい足跡が…… からっかていたことを自分から暴露して、青年と仲直りを申し出た際に蹴り飛ばされたのだ。 顔を足蹴にされるなど初めての経験だったから、 水蓮も面食らい頭が真っ白になった。 ジンジン痛む鼻先を感じている内に……『それが天罰だ』などと、 顔に刻まれた足跡を指さされては、もはや笑うしかない。 そうこうしている内に沼地の対岸が目に見えるところまで来る。 対岸には小さな桟橋があり、青年はそこを目指して手際よく舟を移動させていった。 「ふぅ、これでお別れだね」 舟を下りた青年は、手早く舟を桟橋に固定しながら水蓮を仰ぎ見る。 つれないもの言いに、自業自得とはいえ水蓮は少しもの悲しそうな顔をした。 「つれないのぅ……ほれ、そなたが落とした櫂も沼から拾ってきてやったというのに」 「それもあなたのせい……まったく」 嘆息しながら、青年は再び舟の上に飛び乗ると泥まみれになった櫂を布きれで拭い始める。 それが終わると今度は舟の清掃を始めた。 水蓮が姿を現した際に飛び散った泥水で、船上が泥まみれになっているせいである。 それを言えば、何度も水蓮のせいで驚かされ船上を転げ回った青年も同じ事、 服は言うに及ばず、体中が泥だらけだ。 「やっぱり……中々綺麗にならないな」 時間が経っているせいか、幾ら丁寧に拭ってもこびりついた泥が拭き取れないようだ。 そもそも水に湿らせていない布で拭っているせいでもある。 それに疑問を感じて水蓮が横やりを入れた。 「水は使わんのかえ?」 「沼地の水なんて使っても意味無いよ、泥水なんだから」 「ならば妾にお願いをしてみるがよい」 「お願い……?」 妙なことを言い出した水蓮に青年の手が止まる。 真意を問おうとする青年の動きを制して、水蓮が再度話し掛けた。 「構わぬから、妾の言うことを信じるのじゃ」 「う、うん」 やたらと自信ありげな水蓮の笑い声に、青年の手が止まり大蛇に顔を向ける。 言われるがままにバケツに沼の泥水をすくい上げると、 やはり水は泥水でしかなく、清掃に使うことなど出来そうには見えないが…… 「神様お願い。水を綺麗にして……くれないかな?」 「少し間っておれ、力が衰えたとは言えこの程度ならば……」 半信半疑な青年のお願いを聞き入れ、水蓮は対価として青年から目には見えないものを受け取る。 それは人が神を頼るときに必ず発する祈りの気持ち。 水蓮の体から淡い水色のオーラのようなものが湧き上がり、神は奇跡の力を振るった。 青年の目の前で、バケツの中の泥水が澄んだ美しい水に浄化される。 「ふぅ……どうじゃ、これで少しははかどるじゃろ?」 「…………」 問いかける声に青年は直ぐに答えられなかった。 初めて目にする神の振るう奇跡の力に驚いて声が出なかったのだ。 「あっ……ああ、ごめん助かったよ」 「くっくっく、構わぬ……ちょっとした罪滅ぼしじゃ」 我に返って頭を下げる青年にしれっとした顔で水蓮が横を向き笑みを浮かべた。 分かりにくいが何処か照れているようにも見える。 その横顔を見つめる青年は、何とも言えない気持ちになってしまう。 (怖いけど……なんか可愛いような? ……あれ?) 「……どうしたんじゃ?」 「いや、何でもないよ……ありがたく使わせて貰うから」 「うむ」 満足げに頷く水蓮の姿を見届けて、青年は布を水にひたし舟の清掃を再開した。 そして、まさかなと青年は心の中で頭を振る。 奇跡を振るった後の水蓮の体一部が、僅かばかり透けたように見えたことなど…… 結局……青年は疑問を水蓮に問いかける事は出来なかった。 次ぎに青年が顔を上げたときには、水蓮の姿は影も形もなかったからだ。 沼の中へと帰って行ったのだろう。 妙な寂しさを感じた青年は、桟橋に上がると沼地の方へと顔を向けると…… 「また来るよ……たぶんだけど」 小さな呟きを残し、青年の住む村へと帰っていった。 |