最近は何故か何時もこの時間に目が覚める。
そのこと自体が可笑しそうに水蓮は頬を歪め、泥の中でゆっくりと鎌首を擡げた。
自分でも気分が高揚していくのが分かる。
泥水から伝わってくる地上からの振動をヒレが敏感に感じ取っていた。

「さて、今日はどのようにしてやろうかのう……くくっ」

明らかに悪巧みを含んだ笑い声が、ブクブクと沼の水面を泡立たせる。
その泡が消えると、水蓮はゆっくりと行動を開始する。

沼の桟橋に忍び寄ると水面ギリギリに身を伏せた。
後はじっと待つだけ。水面を揺らさないように身動きせず、水音すらさせずに機を待つ。



暫くすると……


”ギシッ…………ギィッ……ゴトッ”


水音を伝い桟橋の方から音が響いてきた。
だが、まだダメだと水蓮は逸る気持ちを静め待ち続ける。


”……………”


足音がしなくなり、桟橋が軋まなくなった。
待っていた機はここ!

ゆっくりと水蓮は沼の中から顔を覗かせ、一切の物音をたたせずに高く鎌首を擡げていく。
哀れな獲物は数センチの距離で、顔をつきあわせても気が付きもしない

「……くくくッ」
「へっ?」

タイミングは完璧、思わず失笑を洩らした水蓮の笑い声が態とらしく響くと、
獲物は顔を上げ……硬直!

「また妾に会いに来てくれたのかえ?」


”ペロペロ”


固まった獲物の顔を先の割れた舌で舐め、水蓮がにんまりと笑みを浮かべる。
途端に止まった時が解放された。

「うわぁああ!!」

今日もからかわれた獲物の青年が、絶叫をあげ尻餅をつく。
その時の何とも言えない表情を見るのが最近の水蓮の楽しみであった。

「くくく、相変わらず可愛い奴……ゲフッ!」

してやったりと笑みを浮かべた水蓮を黙らせたのは青年の前蹴り!
座った状態から蹴り上げた一撃は、柔らかな顎の下側を打ち抜き水蓮の口を強引に閉ざさせる。
不安定な体勢からの一撃は、さほど水蓮にダメージを与えてはいなかったが、
青年に蹴られたという事実の衝撃の方が大きく、ひるみを……大きな隙を青年に与えてしまう。

その間に無言で立ち上がった青年は、 怯んでいる水蓮の鼻先目掛け……


”ゲシッ!”


再度、見事な前蹴りを放った!
十分に体重をのせた蹴りは、吸い込まれるように目標に命中し鈍い音をたてる。
さすがに今度は堪えたようで、水蓮の頭は後ろに弾き飛び……
痛みを堪える水蓮の呻き声が漏れた。

「ぐっ……ふぅ……」
「ふん!」

それを耳にしつつも、怒りを顕わにした青年は声をかけることはない。
鼻先を蹴り飛ばした足を無言で下ろしていった。

それとほぼ同時に顔を戻してきた水蓮が、涙目で文句を言い放つ。

「け、蹴ることは無かろう!」
「いい加減人をからかうのは止めろよ、心臓に悪いから!」

牙を剥き出しにする水蓮に負けじと、青年も叫び返す。
本来は勝負にならない争い。
これは蟻と象との戦いであり、二人の体格にはそれだけの差がある。
それなのに青年は一歩も引かず踏みとどまり、間近まで顔を付き合わせ睨み合う。
この気迫に水蓮が僅かに怯んだ。
以前なら直ぐに怯え震えだしていたはずの青年に気圧されて……

(な、何じゃ今日はやたらと気合いが入っておるぞ?)

明らかに水蓮は動揺していた。
本来なら今頃、狼狽える青年を更にからかうことに始終しているはずなのに。

……そのはずだったのに。

(まさか妾の方が追いつめられるとは……)

詰め寄る青年に押されるように、水蓮は後ずさり顔を仰け反らせていく。
心の中で水蓮は己の負けを悟った。

青年との間に尻尾を差し入れて距離を取り、負けを口にする。

「こ、これ……妾が悪かった。そんなに寄るでない」
「よしっ! 初勝利だ!」

負けを認めた水蓮の声を聞き、嬉しそうに青年が笑顔を浮かべる。

付き合わせていた顔が離れて水蓮はホッと一息を付いた。
横目に青年に目をやると、見ている方が気恥ずかしくなるほどの喜びよう。

(くくっ……これはこれで可愛いのう)


”クスッ”


思わず溢れた笑い声が、思ったより大きく沼地に響き渡った。



          ※   ※   ※



『何か最近の沼の様子が変な気がするんだ』

ひとしきり笑い合った後、最初に話を切り出したのは青年の方だった。
『どういう事じゃ?』と、水蓮が問いかけるより先に舟に飛び乗る。
櫂を手に取ると舟をこぎ始めた。

遠ざかる青年の横顔を横目に見た水蓮は眼を細める。

「……思い詰めた顔をしおって、何を考えておる?」

渋しげに表情を変え水蓮はそのあとを追った。
横に並び青年を覗き込もうと顔を寄せ、制止を促そうとするが、
またしても、それを言葉にすることが出来ずに終わる。


”さわっ”


不意に青年の手の平が顔に触れてきて、体が硬直してしまったからだ。

奇しくも先ほど青年に蹴られたばかりで赤くなっている鼻先だが、
暖かな手の平で撫でられていると、その気恥ずかしさに水蓮は本当に赤くなりそうになってしまう。
……かといって振り払うことが水蓮には出来ない。
青年の手の温かさは、心を鷲掴みにされるほど心地よいものだったから。
それでも鼻先を撫でられるのは、さすがにこそばゆい。

しかし、振り払うのも名残惜しいとなれば……

「なっ……い、、、いきなりどういう風の吹き回しじゃ!?」

出来ることと言えば、精々こうして声を張り上げるぐらいだ。

それでも青年は撫でることを止めない。
手の平から伝わる体温に鼻先を温められる水蓮は心底狼狽え、醜態をさらす。

「う、うむ……ええい! いい加減にせんか!」

気分が高揚し頬が赤らんだ顔で青年を睨みつけ、
意を決して――名残惜しかったが――心のもやもやを振り払うように青年の手を振り払う。
軽く頭を振るだけで青年の手は振り払われた。

鼻先に残る暖かさに半ば意識をさかれつつも、水蓮はようやく本題に入る。

「何をするかと思えば……妾をからかいたいわけでもあるまい?
 そなたは、いったい何を考えておる?」
「だから、変なんだよ」
「妾には分からぬ、何が変だというのだ?」

再度問いかけると青年の手がまた水蓮の顔に伸びる。
二度目とあって、水蓮は同じような醜態をさらすことなくその手の動きを目で追う。

「妾の顔に……泥? これがどうしたというのじゃ?
 長年この沼に住んでおる妾なら、泥ぐらい少しはこびり付いて当然……」
「ちょっと前の水蓮なら、こんなに泥がこびり付いたりしてなかったよ」
「…………」
「やっぱりそうなんだね」

言葉を遮り、青年が水蓮の目を見つめる。
水蓮は何も答えられない。
それは青年の言葉が真実であり、彼女には否定できなかったからだ。

無言の肯定に青年は自分の考えに確信を持つ。

「こうして舟を漕いでいて分かるんだ。
 沼の様子が一月前より、変になっているって……もしかして俺のせい?」
「……何でそう思うのじゃ?」
「だって、俺が水蓮と会うようになってから……
 正確に言うと毎日この沼を訪れるようになってからだよ?」



          ※   ※   ※



彼が気が付いた沼地の異変は、沼の泥水から始まっていた。
舟を進めるために櫂を漕がなければならないが、その櫂が最近少しずつ重くなってきている。
原因は漕ぐ度に櫂に絡みつく重たい泥。
水を含んだ布で拭っても櫂にこびり付いた泥は、簡単に拭い取ることも出来ない。
それに沼地の彼方此方で沼の底から気泡が湧き上がり、
嫌な異臭を漂わせ始めている。

そして、沼の異変は周囲の地形にも影響を及ぼし始めていた。
数は少ないが確かにあった木や草花が、生気を失うかのように次々と枯れ果てていく。
沼地の地形に適応しているはずのセカルトの木さえそうなのだ。



         ※   ※   ※



青年は舟を完全に制止させると、水蓮に体ごと向き直る。
相手の目をしっかりと見据え……問いかけた。

「……水蓮は、何か俺に隠している事があるんじゃないのか?」
「案ずるなそなたのせいではない」

青年の問いを一笑に付すると、水蓮は彼から顔を背けた。

「あっ……水蓮?」

沼地の中央へと一人で進んでいく水蓮を今度は青年が追いかける。
進む速度はゆっくりとしていて直ぐに追いついた。

「なぁ、水蓮……ちゃんと質問に……」
「懐かしいのう、一月前じゃ……ここでお主と出会ったのは」
「そう……だったね」

青年の問いに取り合わず、水蓮は一方的に話を進める。
明らかに話題を避けようとしている水蓮に、今度は青年が戸惑いを隠せない。
会話の流れに流されるまま、水蓮の言葉に頷く。

「ずっと気になっておったのじゃが、そなたはどうしてあの時この場で微睡んでおったのじゃ?」
「そ、それは……あ……答えなくちゃダメなの?」

明らかに嫌そうな表情を浮かべ、青年が引きつる。
それを見て水蓮は弱みを見つけたとばかり、にんまりと笑みを浮かべた。

「ダメじゃ、妾は気になって気になってしょうがないのじゃよ」
「だから、どうしてそんなのが気に……」
「くっくっく……その狼狽えぶり、何か妾に関係した事じゃな?」
「……っち、、、違う!」
「反応が素直じゃのう……図星のようじゃな」

笑みを湛えた顔を傍に寄せ、水蓮は後ずさる青年に迫る。
しかし、強情にも青年は首を横に振った。
顔が真っ赤に染まっていることから、よほど言いたくないのだろう。
だからこそ水蓮は余計に聞きたいのだが……

「ほれ…早う白状せんとこうしてくれる!」
「なっ! うわぁっ!」

長大な身を擡げ、水蓮は青年を攫うように巻き付いてしまう。
痺れを切らし実力行使に打って出たようだ。

これに慌てた青年はジタバタと暴れ出すが、元々体格も腕力も違うのだ抜け出せるはずもない。
直ぐに高々と持ち上げられ足が舟の床から離れてしまった。
こうなると暴れて落とされでもしたら、まず沼の中だ。
それが分かるだけに青年は大人しくなる。

しかし、まだまだ話す気はないようだ。
頑なに閉ざされている口を開きやすくするために、水蓮は次なる手を打つ。


”ペロ……ペロペロ”


「止め……あはっ! あはははは!」
「くくくっ、何時までも喋らずにいると笑い死ぬかも知れぬのう?」

もはや青年に為す術はない。
己の肩幅の二回りはある胴体に一巻きにされ、先の割れた舌先に体を擽られる。
ある種の拷問に近い責めを受け、笑いながらのたうち回った。
もちろん彼を捕らえる水蓮の胴がそれで緩むわけもない。

ただ……さすがに青年も抵抗を強める。

「い、いい加減に……しろっ!」


”ゲシッ!”


「ゴフッ! そ、そなた……また蹴りおったな!」
「ふん! いい気味だ!」

たまたま暴れていた際に運良く蹴り上げただけだったのだが、さも狙ったように青年は嘯く。
こうなるとまた蹴られては堪らないと、水蓮も迂闊に近寄れない。
ここまで来ると両者で意地の張り合いだ。

水蓮は話を聞き出したいし、青年は喋りたくない。

相反するお互いの目的は、歩み寄ることもなく、自ずと二人の戦いは長期戦へと移行する。

「……そなたも大分強情じゃのう、何故そこまで話したがらぬ?」
「水蓮こそ、俺の話を避けてたじゃないか!」
「ふん……妾とて言いたくないこともある」
「それは俺も同じだよ!」

戦いは舌戦となり、両者一歩も引かない。
だが、青年は水蓮に捕らわれている以上、状況は僅かに水蓮が有利に進んでいるようだ。
水蓮の表情には明らかに余裕がある。
対して青年は声を荒げるしかないのだ。

「くふふ、益々気になってきたわ、必ず聞き出してみせるぞ」
「だから、言わないって言ってるだろ!」


”ズルッ!”


何が原因だったかは分からない。



水蓮にちょっとした気の緩みがあったせいか?
青年がこれまで必死に暴れ続けてきたせいか?
それとも、ただの偶然か?



何にせよ、それは起ってしまった。
言葉を荒げ、青年が今までで一番強く足を振り上げると体に浮遊感が生まれる。

「ぬっ?」
「えっ?」

お互いに疑問の声を漏らし、お互いの顔を見つめた。
二人の思考が止まっている間に、水蓮の締め付けをすり抜けた青年が沼に落ちていく。
落ちたら死が待っている泥沼へと……

先に我に返ったのは水蓮だ。

「い、いかんっ!」

死が目前の青年を助けるために、水蓮は動き出した。
巻き付く暇はない、ならばと口を開き青年に向けて突進!


”バクゥッ!”


その巨大な体からは信じられないほど早く、正確に水蓮の口が青年を捕らえた。
さすがに場所を選ぶ時間はなく、青年の上半身を半ば咥え込んだ形だ。

しかし、他に手段がなかったとは言え……

「んぅ?」
「う、、うわぁぁああ!」
「ぐっ……あ、暴れるでは……ない!」

突然暴れ始めた青年に水蓮は慌てる。
我に返った瞬間に死を目前にした恐怖、それと巨大な生き物の口の中という初めての経験。
ただの人間である青年にとって、パニックを起こすのに十分だった。

例え、それが自分を救うための善意だったとしても。

「ひっ! ひぃっ! 放して……放してくれよ!」
「わ、、、わかった! 分かったからそんなに暴れられると……」


時間が経つにつれ青年はますます激しく暴れ始める。
青年を傷つけないために、水蓮は牙を使わず顎の圧力だけで青年を支えているのだから、
暴れれば暴れるほどズルズルと青年の体が口からずり落ちていく。

このままでは、またしても落ちてしまいかねない。
そう判断した水蓮は、一度咥え直すために顔を上向きに傾け、
僅かに口を開いた……その時だった。


”ゴスッ!”


暴れる青年の膝が、鼻先にめり込む。
そんな体勢からの一撃が、水蓮に効くはずもないが若干口を大きく押し広げてしまう。
これが重大な事故に繋がった。

「ぐっ」

咥え直すため軽く頭を振ったと同時に受けた一撃。
開いた口の中に青年の体が、予想より勢いよく滑り込んでいく。
口の中を滑り……そして、喉の奥の方へと。

水蓮は喉に走る衝撃で、本能的に喉を鳴らしてしまった。


”ゴクリッ”


「なっ……うっ?」

喉に走る違和感に水蓮は戸惑い、目を泳がせる。
自分がしてしまったことに動揺しているのだ。

目に写る形で己の胴体の一部が、ゆっくりと膨らみを帯びていくにいたり我に返る。

「い、いかん……呑み込んでしもうた!」

大声を荒げている合間にも、青年の膨らみはズルズルと食道を下りドンドン滑り落ちていく。
もう少しすれば沼の中に隠れている部位へと落ち込み、姿が見えなくなるだろう。
水蓮がマゴマゴとしている間に状況は容赦なく悪い方へと突き進む。
焦れば焦るほど考えは纏まらず、『吐き出せばよい』それに思い当たったときには、
すでに青年の膨らみは目に見える場所にはなかった。

「う、うむ……しかし、どうすれば……こうか?」

何せ水蓮としても食べた者を吐き出すなど初めての経験だ。
そもそも他の生き物を呑み込んだこと無い。
吐き出すという行為の勝手が分からず、試行錯誤に始終する。

数分もすれば勝手が理解できてきたのか、動きに一貫性が見られるようになってきた。

長い体をくねらせその動きで膨らみを押し上げる。
頭は舟の真上に移動させ、口を限界まで開き激しく嘔吐く。

次第に襲ってくる吐き気、それは着実に青年を吐き戻している証であるが……

「ぐっ……ぐぅ…………これは、、きつい……がっ!」

透明な吐瀉物が水蓮の口からまき散らされる。
想像以上の苦しみに水蓮の目には涙が、食物の逆流を内壁に強要させている反動が、
苦痛となって水蓮を苛んだ。

その苦労に見合い、膨らみが迫り上がり頭を目指して徐々に登ってくる。

「ぐぅっ……ぐぶっ……ゲホッ!」

相当な胸焼けが水蓮を襲っているが、今更吐き戻すのを中断するわけにも行かない。
気を抜けば再び呑み込んでしまいそうな吐き気を堪え、
水蓮はあらん限りの力で体をくねらせ、膨らみを押し上げた。

喉の筋肉が収縮し一気に膨らみが口へと押し戻される。
込み上げるそれを水蓮は、躊躇いなく船上にぶちまけた!


”グボォォッ!!”


水蓮の口から大量の体液が滴り落ち、その中に紛れて転げ落ちるように、
濡れそぼった青年が落下する。

「うぐぅっ……………はぁ、はぁ」

したたか体を打ち付けたはずの青年は、苦悶の表情で空気を貪り身を捩ると……
同じく苦悶の表情を浮かべ、嘔吐く水蓮に目を向けた。

「す、すまぬ事をした……妾としたことが、大丈夫なのか?」
「うん。体はあんまり動かないけどね」
「許せとは申さぬ、今回は妾が一方的に悪かったゆえ……」

青年は巨大な生物に生きたまま丸呑みされるという、希有な経験をしたばかりだ。
その時の恐怖は今も心に巣くっているだろう。

もう少しで青年を殺してしまうところだった……その事実が許せず、
水蓮は項垂れて青年の審判を待つ。
どんな罵声も甘んじて受けるつもりだった……が。

しかし、それは不要な覚悟だった。
今にも涙が伝いそうな水蓮の頬に青年の手が触れる。

「ううん……何とか無事だったし、だから……もう良いよ」
「し、しかし、妾はそなたを殺しかけ……」

言いかけた言葉を言い切れずに水蓮は口を噤む。
蓋をしたのは青年だ、水蓮がそれ以上喋れないように口に抱きついて言葉を封じる。
まるで力の入っていない手で、震えながら……

喋ろうにも口は塞がれ、動けば青年を振り払ってしまう。
御陰で水蓮は何も出来ない。

出来るのは聞くことだけ…………

「分かってるから、水蓮がしたくてしたわけじゃないって……
 暗くて、息苦しくて……凄く怖かったけど、あれは事故だったんだから」

一度言葉を切り、全てを受け入れた上で青年は言い切る。


『だから、水蓮は気にしなくていい』と……


一度死にかけて、その原因となった相手に誰がそんな言葉をかけられると思うか。
ある意味お人好し……いや、それ以上だ。

「水蓮こそ……大丈夫?」
「…………」

喋れないから、水蓮はゆっくりと頷く。
青年を振り落とさないように、ゆっくりと……

「……良かった」

少しだけ強くなった抱擁に水蓮は、もはや観念したように動かない。
させたいようにさせ、自らも青年の暖かさに心を委ね……一度だけ青年に目をやる。

……その時に見た青年の笑顔に水蓮は心を奪われる。

安堵と安心、完全に水蓮を信用しきっているからこそ浮かべられる笑顔がそこにはあった。

(……そうか妾は)

水蓮はこの時初めて……己の心に生まれたある感情を理解した。
その事実に驚きはしたが、不思議と納得できる。


そして、水蓮が全てを打ち明ける決心をしたのも、まさにこの瞬間であった。



          ※  ※  ※



「ほう……そなた、その白蛇を探しておったのか」
「そうだけど……まさか、こんなのがな」
「ふむ、気が付いておったか……そうじゃ、妾がその御伽話に語られておる白蛇様じゃ」

とげとげしい言葉を意に返さず、水蓮は無い胸の変わりに胴体を自慢げに左右に揺らす。
その仕草を見て青年は長々と溜息を洩らした。


青年が打ち明けた話、それは度々出てきた白蛇の御伽話について。
この御伽話は青年の祖先が造りあげた話で、彼の住む村でただ一人だけ話を語り継いできたそうだ。
そして、青年は祠守でもある。

青年の住む村は立派な漁師町になっているのだが、
遙か昔にこの沼が綺麗な湖だった頃、彼の村ではこの湖で漁をしていた。
いまでも彼の村では当時の自然の恵みの感謝として、
白蛇を象った像を造られ祠に祭っており、その祠を彼の先祖が代々管理しているのだ。
だからこそ、今日まで白蛇の御伽話を語り継いで来れたのだろう。

しかし、正直なところ、彼の村では青年以外は白蛇の御伽話を正確に知っている者はいなくなっている。
今や祠は古びれてしまい、参拝するものはおらず、
次第に忘れ去られていく現実に青年は、心に寂しさのようなものを覚えていた。


そんなある日のこと、村を訪れた旅人に沼を渡りたいと依頼を受けたのだ。
漁師でもある青年は、その依頼を受け泥船を操り対岸へと送り届けた。
特に疲れたわけでもなかったが、その帰り足がどうしてか鈍る。

『直ぐに村に帰りたくない……』

ついには櫂から手を放し舟を止めてしまう。

そんな心の内には御伽話の舞台であるこの沼地で、白蛇様に会えるのかも知れないという、
青年の願望があったのかも知れない。

後は周知の通り、青年は舟の上でまどろみの中へと落ち込み……
水神・水蓮に出会ったのである。


「やっぱり水蓮は神様に見えないや、人をからかうのが好きな神様なんて……」
「ククックッ、お主がどう思うと妾は神じゃ」

青年の言葉をバッサリと切り捨て水蓮が言い切る。
そのすがすがしいまでの開き直りに青年は苦笑を浮かべ、

だが、直ぐに一転して真面目な顔になり、水蓮に求めた。

「じゃあ、次は水蓮だ。隠していることを話して貰うよ」
「……分かった。そなたの問いに答えるとしよう」

お互いに隠し事を止めよう……先にそう言いだしたのは水蓮の方だった。
全てを話すと決めたからには水蓮も覚悟を決める。




青年の問いかけは『沼地の異変』
その原因が自分にあるのではないかと疑っているのだ。




その心配は水蓮が先に一笑に付したことから間違っていることが分かるだろう。
なら、どうして沼に異変が起こっているのか。

その答えを、神である水蓮は生まれながらに知っていた。
ただ、それを答えるためには、この世界の仕組みから話さなければならない。
長く……長くなる話だった。

水蓮は青年に座るように言い、自分も舟の舳先に頭を下ろす。

「そもそもお主達は妾達……つまり神をどういう存在じゃと思っておる?」
「ど、どうっていわれても……」
「容易に答えられぬじゃろ? それはそなた達の神に対する認識が曖昧だからじゃ」
「じゃあ、神様って何なんだよ?」

無知を馬鹿にされているような気がして、青年は拗ねた言い方で水蓮に問う。
青年は気づかなかったが、水蓮は狙ってその疑問を引き出したかった。

それを切っ掛けに水蓮の話が始まる。

「そなたは世界の名前という物を知っておるか、妾達……神々が呼んでいる名前なのじゃが」
「世界の名前……? そんなのがあるの?」

考えたことも、知ろうと思ったこともなかったはずである。
世界の名前……それは青年だけではなく、『人間』は知る事のない名前であった。

「この世界の名を神々『イサリナ』と呼んでおる。
 神々の言葉で箱庭という意味じゃ」
「……神々の箱庭?」

繰り返すように呟いた青年に、水蓮は頷く。
続けて水蓮が語ったのは世界の概要……人間達が知ることもなかった知識。


神々の箱庭・イサリナは、世界にたった一つだけの巨大な大陸だった。
その周囲にあるのは広大な海だけ。
海に囲まれた大陸、神々に管理されたそれを揶揄して神々の箱庭と名付けられたのだ。

そんな名前を誰がつけたのか、その疑問にも答えがある。
『始祖神』と呼ばれる八体の神々。


『龍』『狼』『鳥』『亀』『鼠』『虎』『鯱』そして『妖(あやかし)』


獣の姿をしている八体の始まりの神々が、世界を創造し造りあげたのだ。
どうしてそのようなことをしたのかは、神々の中では下級神でしかない水蓮には知る由もない。


ここまでが神を知るための基礎知識なのだが、すでに青年は難しそうな顔で唸っている。
今まで知らなかった知識が急に入ってきたことで、知識を整理しきれない脳が混乱しているのだ。

「焦らずともよい……少しずつ知識を染みこませるのじゃ」

言葉を止め水蓮はゆっくりと待つ。
静かに……青年を眺めながら…………



暫くすると青年が顔をあげる。

「水蓮……つづきお願い」
「……もういいのかえ?」

まだ、完全に知識を受け入れた様子ではなさそうだが、
青年に続きを促され、水蓮の語りが再開された。

先ほどの話から、更に世界に踏み込んだ内容が水蓮の口から語られる。


世界を造りあげた八つの獣の神・始祖神。
この中でも順に語られた先頭の三者『龍』『狼』『鳥』の三神がもっとも強い力を有していた。
力が強いと言うことは振るう奇跡が桁外れだと言うことだ。
その分だけこの世界を創造したときに、この三神の影響力が強く世界に組み込まれている。

この影響力が上手く理解できないのか、青年が水蓮に問いかけた。

「影響って……具体的にはどんなことなの?」
「……簡単に言うならば、腹を立てたら大地震が起こったりするわけじゃな」

それは奇跡でも何でもない、ただの感情の変化でさえ何らかの大きな事象を世界に引き起こしてしまう。
これは他の始祖神にも言えることだ、異なるのは被害の大小の違いだけ。
この時点でどれだけ始祖神が桁外れなのかは理解できるだろう。

「そ、そんなに凄いの……?」
「そなた達には、はた迷惑かも知れぬが、この世界を創り出したもの達者から、
 やはり影響力が強いのもしょうがないのじゃよ」

これだけでも青年は青ざめてしまうが、まだ話には続きがある。

「『獣人』という、種族はそなた達も知っておろう?」
「えっ? うん、姿を見たことはないけど……話だけならしってる」

本当に青年が知っているのは獣人がいるという話だけだった。
生まれてから一度も獣人など、青年は見たことがない。

「あやつらも始祖神の力の影響を受けて、姿を転じてしまった人間達じゃ」
「………え……うそ?」
「嘘ではない……獣人達も知らぬ事であろうが、今の妾の言葉は事実じゃ」

その声に青年は言葉を無くし、思わず息を呑む。
片鱗だけでも知り得た神の影響力の強さは、青年の中に恐れをよんだ。
何故なら人間は、神に翻弄されて生きるしかないと宣言されたも同然だからだ。
絶対にそれから逃げることなど出来ない。
この世界は神が創った物だから、神の影響力は世界の全てに行き渡っている。

そう……人間にもだ。

「俺達……人間は、水蓮たちみたいな神様にとってどんな存在なの?」

聞くのも恐ろしい質問だったが、それを聞かずにはいられなかった。
恐る恐ると言ったふうに青年は水蓮を仰ぎ見る。

「……その問いに妾が神の代表で答えることは出来ぬ」
「そう……だよね。やっぱり僕達って……」
「……じゃが、妾の思いならこれで伝わるじゃろう。こっちを見てくれぬか?」

一度は俯いた青年は促されて水蓮を見上げた。

「……あっ」
「……これが妾の答えじゃ」

まるで恐怖が溶かされるかのように、強張った身体の力が自然と抜けた。
優しげに微笑む水蓮の顔を見ていると不思議と安堵できてしまう。

先ほど水蓮が青年の笑顔に魅了されたように、今度は青年が水蓮の笑顔に見とれていった。

「くくくっ……どうした、惚けた顔をしおって?」
「な、、、なんでもない!」
「頬を赤くして、可愛らしい奴じゃ……っと、また蹴られてはかなわぬ」

僅かに力の入った青年の足の動きに、水蓮は慌てて顔を仰け反らせて楽しげに笑う。
それを見て青年は益々顔を赤くするが……何も言わない。

そのかわり、恨めしそうな視線を水蓮に送り、早く続きを話せと訴えかけている。

「くふふっ……分かったから、その恨めしそうな視線は止めい」

心を落ち着けるように水蓮は軽く息をする。


これまで水蓮が語ったのは、イサリナという神々の世界のあり方。
始祖神という巨大な八体の神に支えられ、影響を受けながら成り立つ仕組みだが。
この世界に及ぼす影響力は、当然のように始祖神の数だけ、
つまり八つの地域に別れている。

その境界線はかなり歪、影響を与える広さは各の力の差で決まり、
更に地域を支配する始祖神の特性によって、土地の特性が大きく変わった
土地の肥沃さ、地形、天候にまで作用する。

神の影響力の力を強く受ける獣人にも同じ事が言え、土地が変わるとすむ獣人の姿も驚くほど変化した。
青年の土地に住む獣人達は、基本的に姿形は殆ど人と変わらない。
腕や足など体の末端が堅固な鱗に覆われており、彼らは普段それを衣服で隠しているからだ。
ごく一部にほぼ龍と変わらない特徴を備える者もいるが、
此処まで変異が進んでしまうと、なるべく人と変わらず森の奥地などで、
野生の獣と変わらない過ごし方をしている。

青年が殆ど獣人を見たことがないのもこの辺が原因だった。

「さて……他の土地の事も話してやろうと思っておったが」

一気に此処までを話し終え、水蓮が一息を付き、青年を一瞥する。
頼りない笑みを浮かべる青年に少々不安がよぎり……

「ちゃんと話しについて来ているかのう?」
「だ、大丈夫……だとおもう。……多分」
「何とも頼りない返事じゃが、あと少しじゃ頑張れ……」

そろそろ話も終わりが近い。
此処からは、休憩を挟まず一気に話しきるつもりで水蓮は口を開く。

「そなたと妾が住む土地は『龍』の始祖神が支配する地域に入っておる。
 つまり妾は祖神である『龍』の神の眷属……その下級神というわけじゃよ」
「そうなんだ……?」

青年の相づちを受けながらも、水蓮は更に語る。

水蓮のような下級神と呼ばれる神々が、主に御伽話などで語られる神のそれに当たり、
それぞれの人間との関わり合い方で、神にも三つの種類があった。


『奇跡を願われそれを行使してあがめ奉られる者』
『その存在をひた隠し、人間を遠くから見守っている者』
『悪しき念から生まれいで、災悪を招く者』


この三つの中で自分は二番目に当てはまると水蓮は語った。
御伽話に残るほど、人間達にイタズラをしてきたことを棚に上げているようにも思えるが、
問題は奇跡の力を行使したかどうかで決まる。
それを考えるのなら、やはり水蓮は二番目となるのだ。

そして、始祖神を除く水蓮たちのような三種の下級神は、共通して人間の念によって生み出される。

「俺たち……人間が神を生み出す?」
「信じられぬのも無理はないが、妾達はそうやって生まれ出でるのじゃよ」

いわば水蓮たち下級神は、人々の思い……信仰が寄り集まった集合体なのだ。
人間達の念で創られた水蓮たちの肉体は非常に不安定だ。
力も限定的で、始祖神に比べれば力も制限され、規模も限定的なものに留まっている。

元々肉体がある始祖神達とは、存在のあり方が違った。


このあり方の違い……それが沼地に異変が起こった原因の正体。
水蓮は青年に隠していた己の運命を話す。

「それとじゃな……神にも寿命がある」
「えっ?」

唐突に呟いた水蓮の言葉に、青年が顔を上げる。
その顔を水蓮はジッと見つめたまま、黙り…………

「……」
「えっ? どうしたんだ水蓮……?」
「くくっ……そなたが愛おしく見えるとは、妾も焼きが回ったかのう?」

心配げな顔に、水蓮は破願すると意を決して言葉を紡ぐ。
それは逃れようのない神としての運命であった。

人の念から生み出された水蓮のような下級神は絶えず、人の念を吸収し続けている。
もし、何らかの理由でそれが途絶えたら、神としての存在が揺らぐことになる。


そして……

「そんな……あと……数日…で、水蓮が消える?」
「そうじゃよ、残り数日で妾の力は尽き……肉体は消滅する。
 それが忘れ去られた神のたどる運命なのじゃ……」

下級神の肉体は人の念で構成されている。
以前に水蓮が奇跡を振るったときに、半透明になって見えたのは奇跡を振るった分だけ、
力を消耗し己の存在が揺らいだからだ。

僅かに青年の祈りの力を受け取りはしたが、精々半分と言ったところ。
願いを叶えるときに振るう奇跡は、悪い言い方をすれば非常に燃費が悪いのである。

「そんな……折角、水蓮と会えたのに?」
「そう泣きそうな顔をするではない、誰にもどうしようもない事じゃ。
 これまで持ったのが奇跡なのじゃからな……」

崩れ落ちる青年に悲しい顔を向け、水蓮は迷いを断ち切るように言葉を続けた。
この一月の間に起こった沼地の異変の原因……それは……

「……妾のせいじゃ」
「えっ?」

何を言われたのか理解できないと青年の顔が語っている。

「今もこの沼は妾のせいで死につつある……
 そなたの気が付いた異変は、毒沼となりかけているその片鱗という訳じゃ」

これは紛れもない事実なのだ。
これだけはこの話だけは青年に話したくないと、水蓮が心に秘め隠していた現実。
話せば傷つくと分かっていたから話せなかった。

死の危機に対抗して、己の肉体を維持しようと自然から精気を吸い取っている事を……

「そんな……嘘だ!」
「嘘ではない、本当なのじゃ……妾が異変の原因なのじゃよ」
「う……うぅ……何でなんだよ」

泣き崩れる青年に、水蓮はかける声がなかった。
事実は変えられない……耳に響く青年の嗚咽が水蓮の心を打つ。


水蓮の名誉にかけて語っておくが、これは彼女の意志で行われている訳ではない。
この世界に多数存在する神々の全てが、少なからず自然の生気を吸って生きている。
もちろんそれだけでは自然が枯れ果ててしまうから、彼らはその身に取り込んだ人々の念の一部を、
気に還元して自然に帰していく……そうしたサイクルが行われていた。


例えるのなら植物のようなものだ。
二酸化炭素を吸い酸素を吐き出す植物も、夜間は酸素を消費する。

神も生きるために人の念を集め、気を自然に吐き出しているが、
念が足りなくなると自然から気を貪ってしまう。
つまり今の水蓮の状態とは、念が枯渇し気を自然に還元できていないことになる。
だから沼に異変が起こっているのだ。
神と共に自然が死滅する……つまりそう言う法則でこの世界は成り立っていた。


だからこそ、水蓮はそれを少しでも先延ばしにしようと、被害を最小限に押し止めようとして、
沼の底に身を潜めジッと動かず長い時を過ごしてきた。
そうやって自然を滅ぼさず、自分だけが滅びようとしていたときに、
水蓮は出会ってしまった。

出会ってしまったのだ、自分を求めてくれる懐かしい信仰を持った青年に……
だからこそ、水蓮は言う。

「……妾はそなたと会えて嬉しかったぞ」

この言葉が彼女の感謝の全てだった。

だが……青年は手を握りしめて震え、泣き叫ぶ……聞きたくないと!
別れの言葉など聞き入れたくないと!

「もういいっ! ……もう、聞きたく……ないっ!」

信じたくなかった水蓮が消える。その事実を受け止めきれない。
青年は淡々と己の運命を語る水蓮の言葉から逃げた。

舟を漕ぎ声の聞こえないところまで、水蓮の姿が見えないところまで必死に逃げていく。
その逃げ出す後ろ姿に水蓮はたった一つの願いを投げかけた。


一瞬だけ、青年の手が止まり……

「…………っ!」

振り向きもせず、そのまま逃げ出してしまう。
だが、水蓮の願いは確かに青年の元に届いていた。

神が人に望んだ願い……大層な物に聞こえるが、とても些細な願い事だ。


『そなたの名前を聞かせて欲しい……それが妾の最後の願いじゃ』


これが神が人に願った願い事……それすら叶える力が今の青年には無かった。
水蓮はずっと寂しそうに見送り、沼地に身を沈めて消えた。

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